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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第22回)

2019-03-29 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(1)国家の廃止は可能だ(続)

◇民衆会議体制
 
我々が賃奴として搾取されつつやっと獲得した賃金―そこからさらに消費搾取もされて―から税金を収奪し、そのうえにその税金を使って我々を戦争にも使役しようとする国家。そんな怪物は今すぐ退治すべきだという気になるかもしれない。しかし、簡単ではない。
 この点に関しては、マルクスとエンゲルス、そして彼ら以後の自称コミュニストらも、評判の芳しくないアナーキストと混同されることを恐れてか国家の廃止を明言せず、「国家の死滅」といったあいまいなテーゼでお茶を濁すのが通例であった。
 しかし、国家は生き物ではないから待っていればそのうちに衰えて「死滅」してくれるというわけにはいかない。国家を廃止するためには国家という観念そのものを手放し、国家によらない新たな社会運営の仕組みを具体的に提示しなければならない。では実際、国家の廃止はいかにして可能であろうか。
 直入に結論から言えば、真に民衆を代表する機関―これが第2章で土地問題に関連して言及された「民衆会議」である―を創設し、この機関を唯一の施政機関として位置づけることである。
 この民衆会議は議会制度とも政党組織とも異なる、代議的な構制の社会運営団体であって、特筆すべきは、後で詳しく述べるように、そのメンバーたる代議員が試験制による公式免許(代議員免許)を持つ市民の中から―投票でなく―くじ引きで抽選されることである。しかも民衆会議は「政府」ではないから、租税やそれに類する課役を強制するようなこともない。
 この共産主義独自の社会運営団体は議会・政府・裁判所という教科書でおなじみの古典的な三権分立体制も採らない。
 古典的な理解によれば三権分立は独裁防止のための権力分散システムとされるが、その実態は三頭竜のような怪物的権力体である。しかし、権力は単頭竜で十分である。従って、セクショナリズムによってヤマタノオロチのようになり果てた政府機構も全廃され、今日の中央省庁に相当する機関はすべて民衆会議に直属する一種の政策シンクタンクに転換される。
 もっとも、このような施政機関が存在するなら、なおそれは国家類似の権力体なのではないかとの反問が出るかもしれない。
 たしかに、コミュニズムは全きアナーキズムとは明確な一線を画している。およそ人間社会を維持していくうえで、強制力を備えた法という社会規範と法に基づく施政権力まで否認することはできないからである。その意味で、国家‐権力は廃止されても法‐権力までが廃止されるわけではない。
 ただし、共産主義的な法‐権力は国家という権力体を通じて上から「発動」されるのではなく、民衆会議という代議機関を通じて下から「活用」されるのである。国家の廃止の意義はこの点にある。
 伝統的な国家論においても、“国民主権”とか“人民主権”といった民主主義の理論が盛んに唱えられてきたが、それらがほとんど空理空論に終わってきたのも、国家なるものを前提とする限り、主権は国民でも人民でもなく、当の国家自体―要するに国家を掌握する政治家・官僚・軍人―に掌握されることを免れないからである。
 その点、共産主義における政治の第一原理は民衆こそ社会の主役!という「民衆主権」にあると言ってよいが、これをまたしても空論に終わらせないためにも、民衆会議を通じた国家なき社会運営の仕組みを確立しなければならないのである。

◇主権国家の揚棄
 国家の廃止はしかし、単に民衆会議の創設をもって完了するのではない。対外的な関係でも主権国家が揚棄されていかねばならない。否、むしろ、それこそが理論的には先行すべきことなのであるが、行論上、この問題の詳細は最終章で扱われるため、ここでは必要な限度で先取りしておく。
 主権国家の揚棄とは、諸民族が主権国家の檻から解放されて地球全域を束ねる「世界共同体」に包摂されていくことを意味する。ここに世界共同体とは、「地球の憲法」とも言える世界共同体憲章によって締約されたトランスナショナルな施政機構である。
 この新たな世界システムの下では、民衆は世界共同体に包摂されつつも、相対的な自主権を保持し、世界共同体憲章の範囲内で独自の憲章(憲法)によって規約された「領域圏」という単位に属するが、領域圏の保持する自主権は国家主権とは異なり、その優越性を他の領域圏はもちろんのこと、世界共同体に対しても主張することができないのである。
 従って、ここで言う「領域」は「領土」とは似て非なるものであって、領域圏の住民総体が領域圏の民衆会議を通じて自主的な施政権を行使し得る単位であり、その究極的な管轄権はあくまでも世界共同体に帰属する。
 この世界共同体(世共)は今日の国際連合(国連)のまとまりをいっそう深化させたものと考えればわかりやすいが、国連のような単なる主権国家の連合体を超えた単一の共和的な地球的施政機構としての地位を持ち、最終的に完成された段階においては、地球全域での計画経済を担うことを予定している。
 ちなみに、世界共同体は従前から提唱されている「世界連邦」とも全く異なる。「連邦」というと一個の「国家」(連邦国家)とみなされることになり、「連邦政府」(世界連邦政府)も創設されることになるであろうが、世界共同体はいかなる意味でも「国家」を認めないから、「世界連邦」とは明確に区別すべきものである。
 むしろ世共の運営―とりわけ経済協調―を今日の国連よりも分権的かつ民主的に行うために、世界を数個の連環的大地域―これを「汎域圏」と呼ぶ―に区分し、この汎域圏にも固有の民衆会議が設置されるのである。
 ともあれ、このようにして現存主権国家間の利害対立関係を世界共同体へと止揚していくことが、国家の廃止の真義である。

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共産論(連載第21回)

2019-03-28 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政


共産主義社会では我々にとってなじみの深い国家も廃される。それはなぜなのか、また国家なき社会はどのように運営されていくのか。


(1)国家の廃止は可能だ

◇エンゲルスの嘆き
 共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であるから、我々の上にそびえ立って我々を国民として支配し、かつ保護すると称する国家なる権力体も廃止される。
 もう少し理屈に立ち入ると、前章までに論じた貨幣経済の廃止とは、国家の視座から見れば国家が自国領土内で通用させる公式貨幣(通貨)を鋳造・発行する独占的な権力としての通貨高権が否認されることを意味している。この通貨高権は国家主権の中では政治的な領土高権と並ぶ最重要の経済的権力であり、その否認はほぼ国家の廃止と同義となる。
 もっとも、観念上は「通貨高権を持たない国家」を想定し得ないわけではない。しかしそれはまさに観念であり、たとえて言えば電池の入っていない携帯電話のようなものである。
 それはともかく、現実問題として国家を廃止することなどできるのだろうかといぶかられるかもしれない。その点、マルクスの共同研究者エンゲルスも、人々が社会の共同事務や利害は国家とその官僚なしには管理できないと子供の頃から信じ込まされていることを嘆いていた。
 こうした「国家信奉」は、マルクスとエンゲルスの時代にようやく西欧で形成され始めた国民国家がグローバルに普及した今日、ますます強まり、国家というものは本質的に良性の制度で、我々はいずれかの国家に属する民=国民となって初めて幸せになれるのだというような確信が大衆の間にも広く深く浸透しているものと思われる。
 しかし、国民国家の下における国民とはそんなに幸せいっぱいの存在なのであろうか。以下では「国民」の実態についてもう少しリアルな目でとらえてみよう。なお、ここでは特定の現存国家を想定するのではなく、モデル化された一般的な国家制度を前提とする。

◇「税奴」としての国民
 今日の国民国家は資本主義と固く結び合い、言わば資本主義の政治的保証人の役割を果たしている。その国民国家とはいかなるものか。
 それは領土と呼ばれる領域の住民から租税―今日ではほぼ貨幣による税金―を徴収する権力体のことである。従って、「国民国家」と言いながら実際には国内在住外国人からも税金を徴収する。その一方で、外国人は国民ではないという理屈から外国人には選挙権を保障しないのが一般である。取るものは取るが与えるものは与えない―。「代表なくして課税なし」は外国人に関する限り全くの空文句なのだ。(※)
 では、税を徴収される代わりに有り難くも政治的代表者を選出する選挙権なるものを与えられるようになった国民―普通選挙制度の歴史は決して古くないとはいえ―は、果たして税金の使い方を決定する可能性を万全に与えられているであろうか。
 そもそも税金は使途限定のひも付き献金ではないからして、ひとたび徴収してしまえば国家側がそれをどう支出しようと勝手である。不正な目的に費消されることすらある。そうした“不祥事”が運悪く発覚しても関係者が厳罰に処されるようなことはほとんどない。「選挙権の行使を通じて税金の使途をチェックする」など虚しい空文句にすぎないことは、冷めた有権者ならば認識されているであろう。
 にもかかわらず、国民国家は国民を国籍という法的枠組みにくくりつけつつ、国境と呼ばれる有形無形の有刺鉄線の内側に閉じ込めている。国民国家とはその大小のいかんにかかわらず巨大な人間の檻のようなものである。それも、国家が国民を累代にわたり国家にくくりつけておいて収奪の対象とするための安定的な仕掛けなのである。
 こうまで断じれば、国民国家の側からは「国民国家こそ民に国籍を与えて国境の内側で保護してやっているではないか」と反駁されるかもしれない。しかし、日頃「国民保護」を口にする国家は、とりわけ国家存亡の危機になれば、あっさり国民を見捨てる。そうした例は大小無数にあるが、身近なところでは大災害に際しての被災者放置は内外でよく見られるし、戦争―とりわけ敗戦―に際しての棄民も珍しいことではない。
 国民国家はなぜ必要とあらば国民を見捨てるのか。答えは簡単で、国家とは国民の保護機関などではなく、しょせん税金に寄生する役人と政治家、そしてかれらの最大の顧客である資本家との利害共同体であり、とりわけ発達した資本主義国家とは「全ブルジョワ階級の共同事務を司る委員会」(マルクス)にほかならないからである。
 国家における国民とは、ひとことで言えば「税奴」であり、この意味においてもかれらはプロレタリアートなのである。前章でも述べたことだが、今日のプロレタリアートの多くは賃労働者、すなわち賃奴(元賃奴の年金生活者を含む)であるから、ここに「賃奴≒税奴」という公式が成り立つことになる。

※現実には無税国家も存在し、または存在した。しかし、それは君主のような為政者によって私物化され、その私有財産によって運営される前近代的私領国家であるか、または国家が総資本家として生産・流通活動を包括的に掌握する集産主義体制であるかのいずれかである。いずれにしても、現代の国家としては異例にすぎない。

◇「兵奴」としての国民
 国民を収奪する国民国家はまた、ほぼイコール主権国家でもある。その主権国家とはいかなるものか。
 それは排他的な領土を持ち、領土そのものまたはそれに絡む経済的権益をめぐって互いに抗争し合う国家のことである。国家間抗争の究極が戦争であるから、主権国家とは戦争国家でもある。領土と主権とは一体となって戦争の掛け金となる政治的‐法的観念である。
 主権国家体制の確立に伴って、国籍と国境という概念の拘束性も強まったため、国民は国外へ一歩踏み出すにも国家の法的許可を要するようになり、国民はますます国家という檻に厳重に閉じ込められるようになった。このことにより、各国の国民たちはお互いに知り合うことが困難となり、むしろ「国益」なる大義名分のために敵対させられるようにさえなった。それは国民国家間の戦争を容易にする。
 戦争となれば、国民は国家によって兵士として動員され戦闘に従事させられる。兵士とならない国民も「銃後」で戦争に協力しなければならない。こうしたいわゆる総力戦は国民国家の下で初めて可能となった。20世紀前半の二つの大戦はその大きな“成果”である。
 総力戦に際して、国民は言わば奴隷ならずとも「兵奴」―末端兵士の地位には奴隷的束縛性が見られるが―として国家に使役される。しかも戦争の道具としての軍隊や兵器に投じられる軍事費の原資はほぼ税金であるから、税奴即兵奴であることには内的必然性がある。国民は、自ら拠出させられた税金によって戦争にも使役されることになる。(※)
 こうした兵奴化は、兵士の動員方法が徴兵制か志願兵制かにはかかわらない。志願兵制の下でも最も危険な前線に配置される末端兵士はほぼ例外なく労働者階級出身の青年たちであり、志願兵制が一種の失業対策事業の役割さえも果たしている。一方で厳重に警護された国家支配層の高官や将軍たちは戦争になってもかすり傷一つ負わず、戦況をテレビ観戦していればよいのである。
 これが“総力戦”の厳粛なる真実である。ただ、人類社会は総力戦と美化するにはあまりにも悲惨な犠牲をもたらした20世紀前半の二つの大戦にいくらかは懲りて、20世紀後半以降は総力戦に該当するような大戦はこれまでのところ引き起こしていない。
 しかし、国民国家=主権国家体制が維持される限り、いかに平和が装われても、しょせんそれは戦争状態の一時停止が続いているだけのことであり、世界から戦争の火種となる紛争は決してなくならず、局地的な戦争であればいつでもどこでも起こり得るし、実際に起きている。
 しかも、最終章で論じるように、戦争は軍需産業にとっての大きなビジネスチャンスでもある。そのために、かれらは政界に多額の献金をしてかれらの最大の顧客である主権国家を懸命に支え、時々戦争を発動してもらう必要があるのである。

※現実には軍隊を保有しない国も存在する。しかし、それらの国はほぼ例外なく財政的に軍隊を常備しにくい小国であり、代替的に大国に防衛を委託している。ちなみに、日本は憲法上は軍隊を保有しないと宣言されているが、実態として事実上の国防軍を保持していることは国際的に周知の事実である。

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共産論(連載第20回)

2019-03-22 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(5)「男女平等」は過去のスローガンとなる

◇男女格差の要因
 前回、家族の問題に言及したついでに、それと深く関連するいわゆるジェンダー問題にも触れておきたい。
 資本主義世界にほぼ共通する現象として、根強い男女間の賃金格差があることはよく知られている。理念としては「男女平等」が叫ばれる中で、それはなぜなのか。
 一つの伝統的な仮説として、家父長制的男性支配の残存を指摘するフェミニズムの理論がある。しかし、この見解は核家族化が進んだ資本主義諸国にはあてはまらなくなりつつある。核家族に「家父長」は存在しないからである。もっとも、資本企業のような生産組織内では依然として社長=家父長制のようなものが残存している可能性は排除できない。
 だがそれ以上に、資本主義が婚姻家族に労働力再生産機能を期待している限り、女=妻は“産む機械”であらねばならず、女は資本企業で男と「平等」に働くよりも、家庭に入り母として次世代労働力の生産(出産・育児)に専念することが依然として要請されているからであると説明する方が真相に近そうである。
 女性労働者は一部の例外者を除き、結婚または出産退職が予定された期間限定労働力であるか、もしくは主婦の副業たるパート労働力としての処遇となるため、男女間の賃金格差も縮小しないわけである。
 今日の“洗練された”資本主義は「男女平等」を観念としては受け入れているはずであるのに、現実には男性支配が固守されているのも、こうした資本の論理のなせるわざであると考えられる。

◇共産主義とジェンダー
 これに対して、共産主義社会では賃労働制が廃止されるから男女間の賃金格差という「問題」自体があり得ないということは別としても、共産主義はもはや婚姻家族というものに期待を寄せないのだから、女に“産む機械”としての役割を期待することもない。子を持つかどうかは、配偶者間もしくはパートナー間の人生設計上の問題であるにすぎない。
 特に公証パートナーシップの関係にあっては、夫/妻というような役割規定性さえも消失し、生計を共にする伴侶同士というだけの関係であるから、夫と子に奉仕する「専業主婦」も存在しない。従って、例えば男性パートナーMが午前中に4時間働きに出て、彼が帰宅した後、今度は女性パートナーFが午後から4時間働きに出るといった生活パターンも例外ではなくなるであろう。この場合、MとFの間に未成年子Cがいれば、MとFが交代で育児をすることもできるであろう。
 共産主義社会では、「男女平等」といったスローガンも、まだそれが虚しいうたい文句にすぎなかった時代の古典として懐古されるであろう。しかし、懐疑的なフェミニストであればこう問うかもしれない。共産主義社会にあっても、企業や団体の幹部職は依然男性優位というような社会的地位の男女格差は残存するのではないか、と。
 たしかに、この問いに現時点で明確な回答を出すことはできない。それは、先にも示唆したように、現代資本主義社会の内部に残存しているかもしれない家父長制的遺風を共産主義が一掃できるかどうかにかかっていると言うほかない。
 ただ、資本主義世界の男性が狂奔してきた貨幣獲得‐利潤追求という大目標が完全に消失する共産主義社会にあっては、男性の意識の持ち方も変容し、企業活動とは別のところに自己の道を見出そうとする男性が増えるかもしれない。このような男性的価値観の転換は、社会的地位における男女格差を解消する可能性を促進すると考えられる。

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共産論(連載第19回)

2019-03-21 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(4)婚姻はパートナーシップに道を譲る

◇婚姻家族モデルの揺らぎ
 ここで労働に絡めて家族の問題を取り上げておきたい。庶民層の家族のありようは労働のありようとも密接に結びついているからである。
 例えば、封建的農奴制の時代、農奴の家族は農作業集団であったから、それは子沢山の大家族であるほうが都合がよかった。しかし、資本主義的賃奴制の下での家族は次世代労働力を生産する「工房」であると同時に、日常の消費単位でもある。そのため、家族はもはや大家族である必要はなく、小さな核家族で十分であり、むしろ消費搾取の標的としては核家族の方が資本にとっては都合がよいとも言える。
 しかし、核家族化は必然的に少子化につながり、次世代労働力の確保という総資本にとってのゴーイング・コンサーンが失われかねない矛盾も抱え込んだ。もっとも資本企業の側でも、電動機革命・電算機革命を経て、生産性の向上によってかつてほど大量の労働力を動員する必要がなくなったとはいえ、深刻な労働力不足は賃金水準の高騰を招き、資本企業の利潤率を押し下げ、ひいては長期の不況を引き起こす。そこで経済界としても「少子化対策」を政界に要望するところとなっている。
 ちなみにプロレタリアートとは語源的には「子孫を作って国家に奉仕する者」を意味していたが、資本主義社会のプロレタリアートはそれ以上に、「子孫を作って資本に奉仕する者」を意味している。
 しかしこの「少子化対策」は決して長期的な成功を収めることはないだろう。核家族化は、同時に自由婚の普及を伴っており、両親がセットする見合い婚のような風習をほぼ根絶させたため、「結婚しない男女」が増加し、非婚率が上昇しているにもかかわらず、資本主義は古い婚姻家族中心主義を本質的に乗り越えることができないからである。
 資本主義が婚姻家族中心主義に執着するのは、前近代的な封建制の名残というよりも―保守的風土の社会ではそうした要素も幾分かは認められようが―、資本主義社会において婚姻家族は最も安心できる次世代労働力再生産工房としての意義をなお維持しているためである。

◇公証パートナーシップ制度
 これに対して、共産主義社会では賃奴制が廃止されるから、もはや婚姻家族に労働力再生産機能を期待することはない。そこで、婚姻家族に代わって労働力の再生産を重要な目的としない公証パートナーシップ制度のような新しい共同生計モデルが登場してくるであろう。
 これは、伝統的な婚姻のように「重たい」関係ではなく、当面生活を共にしたい伴侶同士の公証された合意だけで成立する結合制度であって、通常の男女間のほか、婚姻配偶者に先立たれた高齢者同士、同性同士などでも使える汎用性の高いモデルである。
 こうした婚姻家族からパートナーシップへの転換は、欧米社会では資本主義の枠内で先取り的に近年相当進展してきているが、共産主義はその方向をいっそうプッシュするであろう。

◇人口問題の解
 脱婚姻家族化の方向性は、図らずもかえって少子化に歯止めをかける可能性すら秘めている。例えば、登録パートナー間に生まれた子も法的には嫡出の地位を与えられるから、婚姻せずに子を作りやすくなり、かえって子作りの可能性が広がるのである。
 それに加えて、商品‐貨幣交換が廃される共産主義社会では医療・教育も完全無償となるから、家計負担を考慮した子作り抑制という現象も消滅するであろう。
 その一方で、共産主義は深刻な食糧難の要因でもある人口爆発が生じている南の地域では逆に人口増に歯止めをかける可能性がある。商品‐貨幣交換が廃されることによって、一家の働き手を殖やすという構造的貧困ゆえの多産は消滅するだろうからである。
 もっとも、人口爆発には宗教上の理由からの避妊禁忌や一夫多妻風習などの習俗的要因も介在していると言われ、そうした要因が強い伝統地域では公証パートナーシップのような新しい共棲制度は容易に普及しにくいかもしれない。それでも、少なくとも経済的要因からの多産が抑制できれば大きな前進であろう。
 過剰な楽観は許されないとはいえ、共産主義は世界が当面する人口問題―北での人口減と南での人口増―の解となる可能性を秘めていると言える。

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共産論(連載第18回)

2019-03-16 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(3)純粋自発労働制は可能か

◇人類学的問い
 前節では労働の義務化を前提とする議論を展開したが、本来の共産主義的理想から言えば、労働は義務化せず、完全に自発的な無償労働のシステムを構築できればそれに越したことはない。
 果たして未来の発達した共産主義社会―資本主義を知らない世代が人口の大半を占めるに至った状況―では、そうした純粋自発労働制が確立されるであろうか。仮に完全無償の純粋自発労働制を地球規模で確立できれば、それは人類という種にとって新たな進化の段階を迎えたことを意味するのかもしれない。
 現時点での一般常識的な労働観によれば、人間は何らかのインセンティブもしくは制裁―生活できなくなるという事実上の制裁も含めて―なくしては労働しようとしないだろうと言われている。これに対して、精神分析学者エーリッヒ・フロムは物質的な刺激だけが労働に対する刺激なのではなく、自負、社会的に認められること、働くこと自体の喜びといった刺激もあることを明言し、人は仕事なしには狂ってしまうだろうと論じている。
 いったいどちらが真理なのであろうか。おそらく真理は両論の交差するあたりにあるに違いない。

◇3K労働の義務?
 フロムが指摘する自負、社会的認知、労働自体の喜びを確実にもたらしてくれるようないわゆる人気職種は、たとえ物質的な報酬なしでも余りある充足感を得られるため、純粋自発労働制の下でも相変わらず人気を保ち、人手不足の心配はまずないであろう。
 それに対して、一般に不人気ないわゆる3K職種はどうであろうか。こうした職種はやはり物質的な刺激、つまり報酬なくしては深刻な人手不足を引き起こすのであろうか。
 一つの仮説として、社会的認知度が低く、労働自体の喜びをもたらさないような仕事であってもそれに従事している当人たちは自負や使命感をもって仕事をしているということも考えられる。そうだとすると、純粋自発労働制の下でもそうした3K仕事はなお人を引き寄せ、深刻な人手不足には陥らないとも予測できる。しかし、これは楽観的にすぎる予測かもしれない。
 そもそも現代資本主義は人がやりたがらない仕事を特定の者―たいていは低学歴者や失業者、外国人労働者―に押し付ける構造を持っている。例えば清掃や建設労働、工場での危険な作業、介護等々である。もしも純粋自発労働制の下でこうした分野での人手不足が決定的になれば、我々が資本主義の下で平然と黙認していた3K仕事押し付けの構造がくっきりとあぶり出されてくることになる。
 考えてみれば、3K仕事ほど社会を維持していくうえで不可欠のものが多い。そうした公共性の高い仕事を特定の層に押し付けるのは現代型奴隷制と呼んでもさしつかえなく、道徳的にも正当化できるものではない。
 すると、発達した共産主義社会の純粋自発労働制の下でも、そうした公共性の高い3K仕事は通常の労働の枠から外し、全社会成員の義務として課せられることになるかもしれない。これはあまり嬉しくない報せであろうが。

◇職業創造の自由
 
 しかし朗報もある。それは、純粋自発労働制の下では各人が自ら新たな職を創造できる可能性が広がるだろうということである。
 現在でも「自称」の職業は多々あるが、それだけで生計が成り立つものは極めて少なく、我々はしょせん既成の職業のいずれかに自分をあてはめることしかできない。それも大部分は賃労働者、わけても株式会社の従業員たる「会社員」以外になかなか選択の余地がないのが現実である。これが、資本主義が誇る「職業選択の自由」の真実である。
 これに対して、共産主義社会では生計のための収入を得られる職業に就かねばならないという至上命令から解放されることが、職業創造の可能性を押し開くのである。こうした職業創造は「生まれたばかりの共産主義社会」でやむを得ず労働が義務とされている間でも、労働時間が大幅に短縮され、副業に就く余地が広がることによって可能となるだろう。
 こうして、そもそも職業の概念が革命的に変わる。資本主義の下での職業とは生計を立てるために報酬を得て反復継続する仕事のことであるが、共産主義社会における職業とは自らが「職業」とみなして現に従事している合法的な仕事一切を意味することになる。
 一般の常識・通念に反して、実に資本主義こそは大多数の人間をあの賃奴に押し込めてしまう、歴史上最も画一的な社会システムだったのだ、という事実に人々はいずれ気がつくであろう。

◇超ロボット化社会  
 もう一つ、朗報を付け加えておこう。それは、共産主義社会は労働のロボット化を最高度に推し進めるだろうということである。  
 このような超ロボット化は、資本主義社会では大量失業を招きかねない悲報として受け止められるかもしれない。実際、産業革命期に機械の導入により職を失うおそれのあった職人や労働者が機械打ち壊し行動に出たラッダイト運動ならぬ反ロボット化運動が起きてもおかしくない。  
 資本主義社会では人件費を極限節約したい資本家・経営者にとって都合のよい手段でしかない超ロボット化も、純粋自発労働制の共産主義社会では、労働時間を短縮しつつ、必要な生産力を確保するための技術的な切り札として、大いに推進されるはずである。
 とりわけ、3K仕事に多い単純労働の相当部分をロボット作業で代替することができれば、3K労働の義務化という悲報は聞かなくてすむし、複雑労働のロボット化まで進めば、人間は労働からいっそう解放されることになる。  
 ただ、そうした複雑労働までこなせる次世代的人工知能内蔵ロボットの開発には多額のコストを要するところ、これも貨幣経済によらない共産主義社会であれば、金銭的コストに制約されず、青天井で技術開発を推進することができるのである。

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共産論(連載第17回)

2019-03-15 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(2)労働は全員の義務となる?

◇労働の義務と倫理
 
共産主義社会では貨幣経済‐賃労働制が廃され、労働とは無関係に各自の需要を充たすための財・サービスが取得できるとなると、もはや人々は労働そのものから退いてしまわないか―。
 実はこれこそ共産主義における最大のボトルネックとなる問題であって、マルクスが共産主義の初期段階における労働システムとして労働証明書の制度を提起した隠れた理由でもあったと思われるのである。「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」の労働者たちは、資本主義時代の経験から、生活の必要に迫られて労働する―逆に生活の必要に迫られなければ労働しない―という選択的強制労働の世界に慣れ切ってしまっているからである。
 しかし、労働証明書のようなシステムも実用性がないとすれば、共産主義の少なくとも初期には労働を罰則付きで全社会成員に義務付ける必要があるかもしれない。そうすると、やはり共産主義社会は強制無賃労働の収容所群島ではないか、との非難が集中しそうである。
 とはいえ、考えてみれば、資本主義にあっても労働は義務とは言わないまでも最重要の倫理―勤勉―とされているはずである。これをマックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理観と結びつけたが、プロテスタンティズムが優勢ではない社会でも事情は変わらない。例えば、日本国憲法27条1項は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と定め、勤労の権利性とともに義務性をも併記している。
 ところが、資本主義的“勤勉”の世界にあっては、生活の必要に迫られる限りにおいて労働(賃労働)が事実上強制される一方、必要に迫られないならば―例えば親族から莫大な遺産を相続した場合―、労働せず遊び暮らしても何の咎めもない。
 そうすると、資本主義社会における勤勉の倫理など、しょせん資本が必要とする労働力を提供すべき一般大衆に向けた勤労奉仕の動員命令にすぎないのではなかろうか。
 それに対して、共産主義社会の初期において―やむを得ず―課せられる労働義務は経済的動員命令ではなく、共産主義の本質が社会的協力(=助け合い)にあることに由来する全員の社会的義務―全員といっても基本的には中核的労働世代、具体的にはおおむね20歳から60歳までの者に課せられるだろう―である。
 その点で、ケインズが資本主義のエートスである「貨幣愛」と対比して、共産主義のエートスを「社会への奉仕」と表現したのは、やや奉仕性を強調しすぎるきらいはあるものの当たっていなくはない。

◇職業配分のシステム
 ここで、労働を義務化すると画一的な職業配分がなされ、職業選択の自由が奪われるのではないかとの懸念があるかもしれない。
 しかし、この「職業選択の自由」という資本主義的テーゼがまた曲者である。「自由」とはいうものの労働市場で主導権を握っているのは常に資本側(経営側)であるから、前節でも指摘したとおり、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」であり、また求職者の志望や適性・技能と労務内容の齟齬によるいわゆるミスマッチも茶飯事となる。
 これに対して、共産主義社会では労働を義務化すると否とにかかわらず、職業紹介所の役割が強化され、計画的な職業配分のシステムが構築されることになるが、そのことが直ちに画一化につながるわけではない。むしろ資本主義社会における職業紹介のように、単に求人票を集めて求職者に紹介するだけの形式的なあっせんにとどまらず、各人の志望や適性・技能を十分に勘案しつつ、心理テストなども活用した科学的なカウンセリング型の職業紹介が実現するからである。
 このシステムにおいて、中核的労働世代の社会成員は全員が地域の職業紹介所に登録され、紹介所を通じてできる限り住居から近傍の範囲内で適職を見出せるように工夫されるから(職住近接)、今日のような「通勤地獄」も解消されよう。
 なお、労働を罰則付きの義務とする場合、例えば一定期間以上全く就労していない登録者は職業紹介所から就労しないことに正当な理由があるかどうかを調査されるといった必要最小限度の介入措置の導入はやむを得ないかもしれない。
 その一方、第6章で見るように、成人向けの「多目的大学校」といった制度を通じて職業訓練が充実するから、いわゆるニート化や長期失業は防止できると考えられる。

◇労働時間の短縮
 このような計画的な職業配分システムが導入されることによって、労働時間の大幅な短縮も可能となる。資本主義の下では賃下げの口実とされかねないワークシェアリングが、そうした特別な言い回しも不要なほどに基本的な労働形態として定着するだろうからである。
 こうして、各人が現在よりもずっと短い時間働く―たとえ義務付けられるとしても―代わりに、各自の趣味や“夢”の実現に充てることのできる自由時間を獲得するほうが、生活のために事実上強制される労働に追いまくられるよりもはるかに「自由」の多い社会だと言えないであろうか。

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共産論(連載第16回)

2019-03-08 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(1)賃労働から解放される(続)

◇「賃奴解放」宣言
 近時世界中に広がる資本至上主義政策の結果として労働条件が悪化する情勢の中、賃労働者もいっそ賃労働から足を洗い、自ら起業し、資本家となろうではないかとの呼びかけも聞かれる。つまり、搾取される側から搾取する側への攻守転換である。
 たしかに、一介の労働者から資本家へ華麗なる転身を遂げる成功者も存在するのだろう。しかし、賃労働者が全員資本家に転身してしまえば資本主義は労働力を失い、それこそ崩壊してしまう。よって、大多数の人は賃労働者であり続けるよりほかないように作られているはずである。新規起業者の大多数が5年と持たないのも必然である。
 実際、資本主義的な商品‐貨幣交換のシステムでは、日常必需的な財・サービスまですべて商品として貨幣交換を要求されるから、生活のためには何はさておきひとまずは賃労働をして生活費を稼がなければ生存そのものが維持できなくなる。その意味では資本主義的賃労働こそ、まさに「強制労働」の世界と言えるのである。
 とはいえ、賃労働者は前近代の奴隷のように直接に人身売買の対象とされるわけでないことはもちろん、労働市場ではどの雇用主と契約するかは求職者の自由とされている。しかし、その一方で賃労働者は生活のため繰り返し労働市場に立ち現れ、自分の労働力を買ってくれる雇用主を探さなければならないし、首尾よく雇用主が見つかっても必ず何らかの形で搾取され、雇用主の都合で賃下げされたり、解雇されたりすることも甘受しなければならない。
 どの雇用主からも有用な労働力として評価されなければ長期失業・無職を強いられるが、近時問題化しているそうした「労働からの排除」も、その実質は搾取の裏返しとしての排除現象である。つまり失業とは、資本側から見れば、そもそも労働力として搾取すらしないという方向での究極的な人件費節約手段である。資本家は好況時でも余剰人員を抱え込むことには警戒的であるから、資本主義経済において文字どおりの「完全雇用」はあり得ず、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」である。
 こうして賃労働者は、資本家から見れば一定の知識・技能を含めた労働という独特の無形的なサービスを提供する生ける商品なのであり、そのようなモノとして、賃労働者は労働市場を通じて総資本に使い回され、反対に労働から遠ざけられもする存在となる。この意味において、マルクスは賃労働者を厳粛に「賃金奴隷」と呼んだのであった。
 とはいえ、現代における合法的な賃労働者は文字どおりの奴隷のように売買され、逃亡できないよう拘束されているわけではない点を考慮すれば、同様に相対的な人身の自由が保証されていた中世の農奴に近い存在として、「賃奴」と呼ぶほうがふさわしいだろう。
 してみると、資本主義経済とは、労働の視点から見れば、「賃奴制」の経済システムであるとも言える。一方、共産主義社会ではこうした賃奴制経済が転換されるのであるから、これは農奴解放ならぬ「賃奴解放」を意味する。実際、これこそが、共産主義において最も革命的と言える点なのである。

◇労働と消費の分離
 賃労働者は労働搾取の結果として与えられる賃金を生活費に投入するが、今度は消費という形で賃金収入の相当部分を様々な財・サービスの対価として費消させられ、もう一段の搾取をされる。
 マルクスは専ら第一段の労働搾取に焦点を当てたが、第二段の搾取―消費搾取―には大きな関心を向けなかった。しかし、今日における労働法制上の規制の下、あまりに野放図な労働搾取が制約される資本にとって、消費搾取はその補充手段として不可欠である一方、賃労働者側の生活苦・貧困は、労働と消費の二段にわたる搾取の結果生じるものである。
 こうして、資本主義経済は野心的かつ効率的な金儲けのためにはまことに合理的なシステムと言えるが、つましくも充足した生活のためには理不尽なシステムなのである。
 これに対して、共産主義社会にあっては貨幣経済‐賃労働制の廃止によって労働と消費が分離されるため、労働とは無関係に必要な財・サービスが無償で取得できるようになり、低賃金や失業ゆえの生活苦・貧困という問題も消え去る。これはまさに生活革命である。
 しかし、ここで疑問が浮かぶかもしれない。人々が労働と全く無関係に、望むだけ財・サービスを無償で取得できるとなると、独り占めや需要者殺到による品切れも頻発し、かえって早い者勝ちの弱肉強食的不平等社会になりはしないか、と。
 この疑問に答えるべく、マルクスは「労働証明書」なる仕組みを提案している。単純な例で言えば、1日8時間働いて8時間分の労働証明書の発行を受けた労働者Wは同じく8時間労働によって製造された物品Pを証明書と引き換えに取得できるというのである。
 この労働証明書は商品券に似るが、単なる引換券とは違って労働時間に基づく引換請求権が化体された一種の有価証券の性質を持つ。要するに、労働者は自ら働いた労働時間に相当するだけの物品を取得できるという考え方である。これによって労働と消費は関連付けられるのであるが、資本主義の下におけるように賃金を介するのでなく、労働時間そのものが直接に消費と連動し等価交換される。
 これは理論的に成り立つが、しかし、一つの机上論である。そもそも物品Pが何時間労働分に相当するかを厳密に計量することができるであろうか。
 仮にPの製造に要する平均的労働時間という粗数値を置くとしても、例えばWの担う労働は初心者でもこなせる単純労働であるのに対し、Pの製造に要する労働は熟練を要する複雑労働であるというように、質的に全く違っていたら、Wの担う8時間労働とPの製造に要する8時間労働を単純に等価値とはみなせないことになる。
 そうした労働の質的差異まで反映した精緻な労働証明書のシステムを構築することは事実上不可能と言ってよい。ただ、マルクスはこのような労働証明書のシステムを「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」に固有の過渡的な制度として示し、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の原則が妥当する共産主義社会の高度な段階では労働と消費の完全な分離を認めているのである。
 しかし結局のところ、共産主義社会ではその発展段階のいかんを問わず、労働と消費の分離を認めるほかはない。それによって生じかねない早い者勝ちを防止するためには、前章でも示唆したように、各人が取得することのできる物品の数量を一回につき一人当たり何個とか何グラムというように規制し、現在の商店における会計に相当する手続きでこの取得数量の確認を行えばよい。
 それでもなお生じるかもしれない品不足に対応するには、これも前章で指摘したとおり、日用消費財の分野では生産組織に余剰生産を義務付けて相対的な過剰生産体制(十分な備蓄を伴った生産体制)を採ることである。

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共産論(連載第15回)

2019-03-07 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働


共産主義社会では働いて賃金を得る賃労働が廃止される。その結果、人々はもはや働かなくなるのであろうか。それとも全く新しい働き方が生まれるのであろうか。


(1)賃労働から解放される

◇賃労働の廃止
 前章で、共産主義社会では商品生産が廃され、ひいては貨幣経済も廃されることを論じた。ここから必然的に、労働の報酬が貨幣=賃金として与えられる賃労働制も廃されることは見通しやすい筋であろう。共産主義社会に移行するとは、労働の視点から見れば賃労働制の廃止を意味するのである。
 このことが共産主義=強制無賃労働の収容所群島などといったよくある反共プロパガンダに根拠を与えないためにも、ここで資本主義的労働のあり方と対比しながら考えてみたい。

◇資本主義的搾取の構造
 現在、世界に拡散している資本主義的賃労働とはどんなものであろうか。これは多くの人が経験しているとおり、求職者が仮想上の労働市場を通じて雇用主(資本企業のほか、公共機関も含まれるが、以下では資本企業で代表させる)の求人に応じ、採用されれば雇用契約を結んで、雇用主の定めた労働時間内に指示された労働を提供し、その報酬として賃金を受け取るという仕組みである。
 ここで、賃金という労働者の生活の資―言わば労働者にとっての“資本”―となる最も大切なものが最も曲者なのである。法的には賃金は労働の報酬と解釈され、労働者自身もそう認識しているであろうが、実際に働いた時間分の報酬を満額支払われている労働者はまずいない。もし雇い主がそのような大盤振る舞いをしようものなら経営は回らなくなるからである。
 資本主義的経営の要諦は労働者の賃金を1円でも節約する一方、1分でも長く働かせること、すなわち低賃金・長時間労働の搾取である。ただ、労働運動の成果として、今日では、資本にとってはわずらわしい労働法制上の規制(例えば法定最低賃金や法定労働時間)が諸国にあるため、必ずしも文字通りに搾取を達成できるとは限らない。
 そこで、法定労働時間内で高い成果を要求する(高密度労働)、相対的に高賃金を保障しつつより高い成果を競わせて慣習的な超過時間労働を仕向ける(サービス残業)、逆に低賃金に見合った短時間・部分労働しかさせない(パート労働)等々、合法・非合法のグレーゾーンを含む様々な抜け道的な術策が“発明”されている。他方で、役員一歩手前の上級管理職級労働者になると、逆に実質的な労働時間分を超えたプレミアム付き高賃金が保障されることもある。
 とはいえ、総じて資本企業は労働者に実質的に賃金を支払っている労働時間分を超えたタダ働きをさせていることは間違いないのである。
 例えば、ある労働者が1日8時間・週5日働いて本来は時給換算で5千相当分の密度の高い仕事をしているとしても、実質上は半分の4時間労働分しか支払われていないということもあり得る。この場合、その人は本来ならば{(5千円×8時間)×5日}×4週=80万円の月給を得べきところ、現実にはその半分の40万円に値切られていることになる。
 支払われていない残りの40万円を雇用主は丸々節約したのであり、当該労働者は日々の8時間労働のうち4時間分はタダ働きさせられ、要するに「搾取」されたことになる。合法的な範囲内の給与水準に対する労働者の不満は、こうした搾取の構造に由来している。
 このようにして雇用主たる資本企業が節約的に搾取した分はかれらの商品販売による利益に反映され、利潤として蓄積・再生産に回されていくことになるが、このサイクルを総資本で繰り返しながら資本主義は自転している。(※)
 資本家の視点から見れば、かれらは節約的搾取によって得た利得が利潤として確保されるように自社商品を売り込まねばならないわけである。経済危機で販売不振に陥れば、賃金をいっそう節約するか、人員解雇するかしなければ生き残れない。なかなか厳しい世界である。
 ここで資本家を弁護するつもりはないが、搾取にいそしむ資本家たちは―強欲ではあっても―決して意地悪なのでも冷酷なのでもない。かれらとて資本主義的経済法則に従属させられている以上、その法則に反することはできないのである。マルクスは資本家も社会的機構の中では「一つの動輪でしかない」と看破したが、これは全く正しい。

※マルクスは、こうした搾取の構造をより積極的に剰余価値の生産過程として解析しているが、ここではマルクスの理論はさしあたり棚上げして論じている。

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共産論(連載第14回)

2019-03-02 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(6)エネルギー大革命が実現する

◇新エネルギー体系
 共産主義的環境計画経済は、生産活動を支えるエネルギー供給のあり方にも大きな変革をもたらすであろう。
 持続可能的計画経済は、エネルギーの面から見れば、「低エネルギーの経済」を実現するから、産業革命以来の資本主義的生産体制を支えてきた化石燃料、とりわけ石油燃料への依存度を大胆に減少させることは確実である。それに代わって、再生可能エネルギーを主軸とする新しいエネルギー体系が構築される。
 再生可能エネルギー導入の促進という課題自体は、地球温暖化問題を背景として従来から叫ばれてはいるものの、自然エネルギーなどの再生可能エネルギーだけでは資本主義的な大量生産‐大量流通‐大量廃棄のサイクルをまかなう高エネルギー需要に対応し切れないことや、再生可能エネルギーの技術開発・実用化には相当なコストを要するなどの事情から、資本主義の下ではスローガンに終わりがちである。
 しかし、本質的に低エネルギー経済である共産主義経済においては、再生可能エネルギーの利用が大幅に促進されるであろう。そして貨幣経済の廃止は、再生可能エネルギーの技術開発・実用化に伴うコストという「問題」―要するにカネの問題―自体を消失させる。
 以上のようなエネルギー革命は、前節で触れたトランスナショナルな次元での持続可能な天然資源の管理体制が整備されることと相まって世界的規模で推進されるであろう。
 こうしたエネルギー体系に関する変革に相伴って、コジェネレーションのような新しいエネルギー供給システムの開発・革新が資本主義の下におけるよりも一層進展するであろう。
 この点に関して、共産主義では資本主義が誇る技術革新が停滞するとの批判もよく聞かれるが、資本主義的技術革新は専ら生産性向上のための技術開発に偏向しており、その中には環境的に有害な結果をもたらすものも少なくない。それに対して、共産主義的技術革新は、新エネルギー技術に代表されるような環境技術の点ではむしろ資本主義よりも顕著な進展を見せると考えられるのである。

◇「原発ルネサンス」批判
 ここでエネルギー問題を考えるうえで避けて通ることのできない大問題、原子力発電(原発)について触れておかねばならない。
 近年、地球温暖化問題を背景としつつ、「二酸化炭素を出さない発電手段」として原発の意義が見直され、旧ソ連末期のチェルノブイリ原発大事故(1986年)以来停滞していた原発の新設・増設計画が世界的に蘇生する「原発ルネサンス」と呼ばれる現象が生じていたところへ、「原発安全神話」に包まれていた日本で福島原発大事故(2011年)が発生し、「ルネサンス」は打撃を受けたかに見えた。
 しかし、チェルノブイリがそうであったように、フクシマも時の経過とともに風化し、「ルネサンス」が蘇ってくる兆しも見え始めている。その際には、安全対策・技術の進展が口実とされる。
 だが、いかに技術革新が進展しようと、安全性に100%の保証はない。そのことをまざまざと世界に思い知らせたのが、地震・津波に起因する福島原発大事故であった。仮に大事故に至らなくとも、重大故障のつど炉を停止させ、厳重な点検の後、地元住民の了解を得なければ運転再開できない原発は、電力の安定的・継続的供給という視点から見ても、決して効率的とは言えない。
 第二に、核廃棄物等の処理・処分問題である。原発が排出する種々の放射性物質の安定化にはほとんど歴史的な時間を要するものも少なくない。また使用済み燃料の再処理で排出されるプルトニウムは発ガン性が高く、極めて長期にわたって生態系に悪影響を及ぼすとされる。ウランにプルトニウムを混ぜたMOX燃料(混合酸化燃料)を再利用するという方策(いわゆるプルサーマル)も、コストがかさむわりにプルトニウムを減じる効果は高くないとの批判がある。
 第三は、プルトニウムの軍事的利用の危険である。特に、好戦的な核兵器保有国や核兵器開発への野心を持つ諸国への原発の拡散はこの危険を増し、最悪の場合、核物質が闇市場を通じて麻薬カルテルなどの犯罪組織を含む民間武装組織や個人にすら流れる「核の私物化」という恐るべき事態も決して杞憂ではない。
 第四に、計画経済という観点からすれば、電力需要に応じたきめ細かな電気出力調整がしづらいという原発の特質は、計画経済に適していない―逆に、大量出力はたやすいので大量生産型の資本主義的エネルギー源としては適しているのであろう―ことも挙げられる。

◇「廃原発」への道
 とはいえ、本質的に高エネルギーの資本主義的生産様式を維持する限り、再生可能エネルギーだけでは必要な電力供給をまかない切れず、かつ二酸化炭素排出量の多い火力発電にも依存できないとなれば、原発への傾斜が生じることには必然性があり、原発問題も生産様式と無関係に論ずることはできない。
 もし我々が本気で「脱原発」を越えて「廃原発」を考えるのであれば、資本主義とはきっぱり決別する覚悟を決める必要がある。そして低エネルギーの共産主義的生産様式へ移行すれば、再生可能エネルギーや天然ガス、そして最小限の火力発電によって全生産活動をまかなうことができるだろう。
 仮にまかない切れないとしても、全生産活動を原子力以外の発電手段によってまかなうことのできる範囲内におさめなければならない。なぜなら資本主義的市場経済の下では生産活動の単なる手段にすぎないエネルギーも、生態学的に持続可能な共産主義的計画経済の下ではそれ自体が生産活動の規定条件となるからである。
 かくして共産主義こそが「廃原発」への道なのであるが、すでに世界中に原発が拡散してしまっているからには、その道は地球規模での「脱原発計画」を通じて不断に開拓されていかざるを得ない。
 そのためには「世界脱原子力監視機関」といったトランスナショナルな機関を設立して全世界的な規模で「脱原発計画」を策定・実行していく必要があるが、これもまた、最終章で見るような「世界共同体」の創設にかかってくることである。

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共産論(連載第13回)

2019-03-01 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(5)土地は誰のものでもなくなる

◇共産主義と所有権
  資本主義において、所有権という観念は神に匹敵する地位を占めているが、中でも土地所有権は所有権中の所有権、言わば資本主義の一丁目一番地である。
 そこで共産主義社会においてこの肝心な土地所有権がどうなるかということは最大の関心事となるであろうが、その問題に進む前に、一般的に共産主義における所有権についての考え方を整理しておく。共産主義と聞けば私的所有権を剥奪されるといった反共プロパガンダはおなじみのものであるが、以下に見るようにそれは誤解である。
 まず、言うまでもないことではあるが、日用の一般的消費財については完全な個人的所有権が認められる。例えば我々が今着ている上着や下着は共産主義社会の下でも自身の私物である。しかし、家具とか家電製品のような物は「社会的共有財」として無償で貸与されるようになる。
 こうした大きな消費財は廃棄するとなるといわゆる「粗大ごみ」となりやすいので、すべて社会的共有財としたうえで、使用を終える時には廃棄するのでなく返却して耐用年数が到来するまで―前述したように、「耐用の経済」である共産主義経済では生産物の耐用年数は長めに設定される―再貸与するという形でリユースを続けることにより、粗大ごみの排出量を抑制することができる。それを考えれば、将来の粗大ごみにまで所有権を認めるよりも合理的であることが理解されよう。
 以上の「社会的共有」と類似の用語として、前に共産主義的生産組織の項で見た「社会的所有」がある。これは基幹産業を中心とする生産事業体のあり方を規定する概念であった。
 この点については私的所有権の剥奪であるように思われるかもしれないが、すでに資本主義経済の下でも基幹産業分野の株式会社はほとんどが株式市場に上場された公開会社であって、それらはもはや単なる資本家個人の私物ではなく、半社会化された公衆的所有の対象となっていることからしても、「社会的所有」とは資本主義の内部ですでに始まっている「資本の社会化」という現象を数歩―その歩幅は決して小さくないとはいえ―前に進めるだけのことだとも言えよう。
 ここで、本題の土地問題へ入る前に、土地とも密接に関連する住宅問題についても触れておきたい。まず結論から行けば、住宅にこそ、共産主義は究極の所有権を見出す。なぜなら、住む場所を「持つ」ということは人間にとって根源的な所‐有だからである。であればこそ、住居の喪失はほとんど人間であることの否定となりかねないのである。
 資本主義経済は住宅の賃貸を商業資本化し、大量の借家人すなわち住宅を所有せず、賃料の支払いができなければ住居を喪失する人々を発生させてきたが、これこそ根源的なレベルで資本主義の非人間性を示す現象とも言える。
 共産主義の下でも借家制度はあり得るが、貨幣経済が廃される以上もはや「賃貸」はあり得ず、無償の使用貸借が本則となる。しかも地方自治体などが提供する公共的な借家にあっては、原則として終身賃借かつ世代間継承も可能な使用貸借権を設定することにより借家権を実質的に所有権化することも実現する。
 一方、民間人が提供する私的な借家にあっては、賃貸の廃止により賃料収入を得ることができなくなる賃貸事業者は自ら所有権を放棄すると予測されるから―個人の家主も住宅貸し出しから手を引くであろう―、それらはすべて公的機関が継承し、公共的借家に転換するであろう。 

◇土地私有制度の弊害
 おそらく共産主義に対して最も神経を尖らせるのは、やはり地主層―土地を所有する法人企業組織を含む―であることは間違いない。かれらは自身の存在証明である土地所有権の剥奪を何よりも恐れるからである。
 ちなみに集産主義体制では土地の国有化が国是であり、集産主義から「社会主義市場経済」に舵を切った中国でも、土地国有制は次第に形骸化しながらも法的な大枠としては維持されている(中国憲法第10条参照)。その点、共産主義は「国」という観念を持たないのであるから、土地「国有」もあり得ない。そうすると、地主の神経を鎮めるべく土地所有権は温存されるのであろうか。
 答えはノーである。それにしても共産主義はなぜ土地私有制度に否定的なのか。それは人類がこれまでに創出した様々な経済的制度の中でも土地私有制度ほど奇妙かつ有害な制度はないからである。
 まず、それは何よりも地球の私物化であるという点において不遜である。地球という天体の構成要素たる大地を〈私〉のものにしようというのだからである。
 しかも全き自然の産物である大地にも価格=交換価値を付けて投機の対象とする。このように本来商品たり得ないモノに無理やり商品形態を与えて投機を助長することが株式投機と並んで実体経済を離れたバブル経済の形成要因ともなり、また「地上げ」のごとく居住権を侵害する不法な土地取引も横行させる。
 20世紀中には、少なからぬ諸国で寄生地主制のような階級的悪制は解体された一方、世界には21世紀に入っても依然として大土地所有制のような形態が温存され、農民を搾取・抑圧している例も少なくない。
 もっとも、大土地所有制が解体され土地所有が小口に分割された小土地所有制ならば問題がないというわけでは決してなく、まさにそれが土地投機の対象となるほか、都市計画に際しては細分化され入り組んだ私有地が障害となり土地の有効利用を妨げたり、資本企業が所有する遊休地や商業用地が宅地不足の要因ともなる。錯綜した土地所有権を巡る紛争はすべての所有権紛争の中で最も深刻であり、しばしば当事者が生命まで奪われることは、周知のとおりである。
 かくして、あらゆる私有制の中でも最も有害な土地私有制度の廃止が目指されるのである。

◇共産主義的土地管理制度
 先ほど、共産主義にあっては土地の「国有化」はあり得ないと論じた。すると、土地は誰のものになるのか。肩すかしのような答えであるが、土地は誰のものにもならない。それは天然の産物として、無主の自然物―野生の動植物のように―として扱われるのである。
 このときに、“神の所有”とか、それに類する超自然物な観念を援用する必要はない。共産主義はどこまでも世俗的な思想であり、理論だからである。
 このように、土地を誰にも属しない無主物として把握するとしても、実際の土地の管理をどのように行うかという問題が残る。この点、共産主義社会に「国」は存在しないとはいえ、領域的な施政権が及ぶ範囲(これを「領域圏」と呼ぶ。詳しくは第4章参照)というものは存在し、この領域圏の統治機関―領域圏民衆会議―がその領域圏内の全土地の管理権―所有権ではない―を保持するという考え方で解決し得る。
 具体的に言えば、例えば日本(日本領域圏)の領域内にある全土地を領域圏民衆会議―もっと具体的には民衆会議が監督する土地管理機関―の管理下に置くという構制になる。
 これにより当該領域圏内にある土地は土地管理機関の許可なくして使用・収益・処分することができなくなる。そのうえで、個人の住宅や私的な団体の施設の敷地については、住宅または施設の所有者(法人を含む)に対して、その住宅または施設の使用に必要な限度内での土地利用権を保障する。この土地利用権は原則として無期限のものとし、土地管理機関の許可に基づく(無償の)譲渡・貸与も可能とする。
 ただし、農地については、先述した農業生産機構が一括して恒久的な利用権(耕作権)を保有することになる。

◇天然資源の管理
 改めて最終章でも論じることであるが、土地のみならず、地中に埋蔵されている天然資源についても、共産主義はそれらを無主物としてとらえる。
 例えば石油である。今日、石油はそれを埋蔵する土地を領土―第4章で詳しく見るように、共産主義は国家レベルにおける政治的な土地所有制度とも言うべきこの「領土」という概念にもメスを入れるが―に持つ国家の専有物であるかのごとくにみなされ(資源ナショナリズム)、こうした産油国の利害と投資家の思惑とが日々複雑に絡み合いながら、石油が投機対象の性格を強めて燃費を左右し(資源資本主義)、ひいては末端に位置する一般生活者層の生活を直撃する要因ともなっている。
 しかし、石油はその有限性と石油燃料の環境負荷性とを考慮し、他の重要な天然資源とともにトランスナショナルな天然資源管理機関の管理下に置かなければならない時期に来ている。
 ただ、そのようなことが完全に可能となるためには、最終章で見るように、まさにトランスナショナルな統治体たる「世界共同体」の創設を待たなければならないのではあるが。

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共産論(連載第12回)

2019-02-23 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(4)新しい生産組織が生まれる(続)

◇農業生産機構
 共産主義は工業偏重の資本主義的生産体制を是正して、第一次産業、特に農業の比重を回復する。ただ、農業分野については、依然として大土地所有制の下で貧農が搾取されている諸国は別として、大土地所有制の解体と農地解放が進展した諸国にあっても、自営的な農家が代々継承してきた農地を耕作する形態が根強く残り、マルクスが『資本論』第三巻で理論上想定したような借地農業資本による資本主義的農業経営はあまり普及しているとは言えない。
 しかし、自営的農業は元来経営基盤が弱いことに加え、後継者不足やグローバル化の中での「市場開放」圧力によって、存亡の危機に立たされつつある。このままいけば、いずれ世界の農業は遺伝子組み換え技術で武装した農業食糧資本による直接的または借地農業資本のような間接的形態の商業的大規模経営に委ねられることになろう。
 これに対して、共産主義的農業は―後述するように農地を含む全土地を「土地管理機構」に集中することを前提として―生産事業機構の特例である「農業生産機構」が一元的・集約的に運営する
 農業生産機構は、多くの工業化諸国のように農地そのものが縮退している所では、商業の廃止に伴って吐き出される商業用地を新たに農地として開墾しつつ―あるいは先進的な工場栽培技術を用いて―、環境と健康に配慮された農法に従った持続可能な農産体制を確立するであろう。
 農業生産機構の内部構造については前述した生産事業機構に関する原則がほぼ妥当するが、農業生産機構の労働者に相当するのは、一般事務職を別とすれば各農場で農作業に当たる農務員である。従来農家を営んできた人々は、希望に応じて機構農場の管理者(農務員の指導監督に当たる一種の現地管理職)として農業生産機構に雇用される。
 なお、林業や漁業についても、農業に準じて「林業生産機構」、「漁業生産機構」といった生産事業機構を通じた共同化を考えることができる。特に漁業に関しては、水産資源の有限性を考慮しつつ、生物多様性に配慮された計画漁業を推進する必要がある。また林業も同様に森林資源の保護に配慮された計画植樹・伐採が要請される。そうした点では、林業、漁業分野の生産活動は農業以上に環境配慮的な手法による共同化に適していると言えるだろう。(※)

※林業及び畜産は農業とも隣接しており、兼業経営も可能であることから、農業を含めた三分野を包括する「農林畜産機構」を設立することも一考に値する。

◇消費事業組合
 これまで見てきた種々の生産組織はいずれも物やサービスの生産そのものに関わる事業体であったが、消費についても一種の「生産組織」を考えることができる。それが「消費事業組合」である。
 現代資本主義の下での消費は今日、ますますスーパーマーケット(=超市場)というすぐれて資本主義的な名辞を冠された巨大小売資本に制圧され、衣食に関わる日用消費財のほとんどすべてをスーパーマーケットで調達することが慣習化している。それによって我々は「便利」という殺し文句と引き換えに、画一的な消費財の受動的な「消費機械」にさせられている。
 これに対して、共産主義的な消費事業組合は、現在は政治的な郷土愛主義の隠れ蓑にすぎない「地産地消」を基本的経済原則とするため、地方ごと―第4章で見る「地方圏」(日本を例にとれば、近畿地方圏とか東北地方圏など)の単位―に設立される特殊な流通組織(サービス生産組織)である。
 各地方の消費事業組合は、先述の農業生産機構をはじめ、安全性と信頼性が確認された他の消費財生産組織とネットワークを結び、組合直営の物品供給所を通じて無償で各種消費財を供給する。この組合直営の物品供給所は新たに設立するほか、既存のスーパーマーケットやコンビニエンスストアを接収・転換する方法によってもよいだろう。
 消費事業組合はその管轄地方圏の住民(例えば、上例の近畿消費事業組合であれば近畿地方圏の住民)を自動的加入の組合員とする特殊な事業体であり、組合員総会(組合員の中から抽選で選ばれた総会代議者で構成する)がその最高議決機関となる。
 一方、先述した生産協同組合とは異なり、消費者が組合員となる消費事業組合にあっては職員(労働者)=組合員という図式は成り立たないため、組合員総会とは別個に労働者代表役会が常置される必要がある。
 なお、消費事業組合は「組合」とはいえ、自主管理企業とは異質であるため、その内部構造については、生産協同組合ではなく、より大規模な生産企業法人のそれに準ずる。

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共産論(連載第11回)

2019-02-22 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(4)新たな生産組織が生まれる

◇社会的所有企業と自主管理企業
 商品‐貨幣交換を軸とする現代の資本主義社会で、商品生産の中心を担う生産組織が株式会社であることは周知のとおりである。株式会社とはその本質上、貨幣獲得を通じて資本蓄積を自己目的とする営利企業体であって、企業の実質的所有者である株主の利益を図ることを至上命令とする利益共同体でもある。
 資本主義は、このような個別企業体としての株式会社が各々の利潤計算に基づく経営計画に従って展開する商品の生産・販売活動の総体である。しかし、商品‐貨幣交換が廃される共産主義社会では株式会社の仕組みを維持することはできない。そこで共産主義社会にふさわしい新たな生産組織が生まれてくることになるであろうが、それはどのような組織であろうか。
 ここで念のために記しておくと、共産主義からしばしば連想される「国有企業」ではあり得ない。後に第4章で改めて論じるように、共産主義社会は国家という観念を持たないので、「国有」は論理的にもあり得ないからである。
 といって、共産主義的生産組織のあり方に絶対の公式があるわけではないが、さしあたりそれは「社会的所有企業」と「自主管理企業」の二種に大別できる。
 ここに「社会的所有企業」とは、社会の公器として社会的監督の下に置かれる公共性の強い企業体であり、平たく言えば「みんなの企業」ということである。「社会的所有」であることの証しとして、これらの企業は第4章で見る民衆代表機関(全土民衆会議)の監督を受ける。
 ただ、この社会的所有企業の対象業種はさほど広いものではなく、それはおおむね運輸、通信分野を含めた基幹産業と食糧に関わる農林水産、健康に関わる製薬などに限定される。そして、それは前節で概要を見た持続可能的計画経済の対象範囲と重なる。
 一方、「自主管理企業」とは生産労働者が結合して共通の事業目的を自主的に展開する企業であり、社会的監督を受けない一種の私企業であるが、株式会社に代表される資本主義的私企業とは異なり、経営と労働は分離せず、労働者自ら経営にも当たる点で「自主管理」と呼ばれる。
 その自主管理企業の対象業種は上述の社会的所有企業の対象業種以外のすべてという広い範囲に及ぶが、規模の点では「自主管理」が現実的に可能なのは最大でも職員1000人未満の中小企業に限られるであろう。

◇生産事業機構と生産協同組合
 以上の二つに大別された共産主義的生産組織を法的な観点から分類し直すと、それは「生産事業機構」と「生産協同組合」に対応する。
 このうち前者の「生産事業機構」は、上述した社会的所有企業に対応する法人組織である。具体的には例えば製鉄事業機構、電力事業機構、自動車工業機構等々のように各業種ごとに単一の統合的事業体として政策的に設立される法人企業組織である。これらの生産事業機構は、共同して経済計画を立案し、実施する計画経済の責任主体ともなる。
 これに対して、自主管理企業に対応する法人企業組織が「生産協同組合」である。これは前述したような職員(組合員)1000人未満の中小企業の法人形態であって、計画経済の対象範囲に属しない業種に関して自由に設立することができる。
 ただし、自主管理が困難な職員1000人以上の大企業に関しては、上述の生産事業機構と生産協同組合の中間的形態として「生産企業法人」を認める。これは社会的所有企業そのものではないが、次項で述べるように、その運営に関しては生産事業機構に準ずる構造を持つ大規模法人企業組織である。(※)
 一方、自主管理企業の中でも職員20人以下のような零細企業にあっては、内部運営に関する自由度の高い「協同労働グループ」といった小規模法人組織を認めることができるであろう。

※当ブログ上の先行する他連載等における記述では「生産事業法人」と表記している場合があるが、経済計画の適用対象たる「生産事業機構」と紛らわしくなるため、ここに改称する。従って、他連載等における記述もこのように読み替えられたい。

◇諸企業と内部構造
 ここで、以上の共産主義的企業組織の内部構造についてやや立ち入って見ておきたい。
 まず、社会的所有企業か自主管理企業かを問わず、共産主義企業には株式会社の株主に相当する個人的な企業所有者は存在しないため、最高議決機関としての株主総会のような機関も存在し得ない。
 この点、社会的所有企業としての生産事業機構の最高議決機関は「職員総会」である。ただ、生産事業機構のような大規模企業体では全職員参加型の総会は事実上困難であるから、職員総会のメンバーは職員の中から抽選または投票で選ばれた代議人(総会代議人)となる。
 一方、生産事業機構には株式会社の取締役会に相当する運営機関として「経営委員会」が設置され、その代表者たる「経営委員長」が最高経営責任を負う。経営委員及び経営委員長は一定の任期をもって職員総会で選任される。
 株式会社との大きな違いとして、職員総会に代わって常時経営委員会の活動を一般職員の視点から監視し、重要な案件に関する経営委員会の決定に対する同意/不同意の権限をも有する「労働者代表委員会」が常置されることである。これは生産事業機構では困難な自主管理に代わる共同決定システムと言える。この労働者代表委員及び労働者代表委員長も一定の任期をもって職員総会で選任される。
 さらに、経営委員会の活動を主として法令順守の観点から監督する機関として「業務監査委員会」が、またこれとは別に環境的持続性の観点から監督する「環境監査委員会」が常置される。これらの業務監査委員及び環境監査委員(監査業務は対等な合議にふさわしいため、委員長職は置かない)も、一定の任期をもって職員総会で選任される。
 生産事業機構に関する以上の内部構造規定は、前述した生産企業法人にもほぼ類推的に妥当し、それぞれ「経営役会」(及びその責任者たる「代表経営役」)、「労働者代表役会」(及びその責任者たる「労働者代表役会長」)、「業務監査役会」、「環境監査役会」が常置される。ぞれぞれの機関のメンバーが一定の任期をもって職員総会で選任されることもほぼ同じである。
 以上に対して、自主管理企業たる生産協同組合の最高議決機関は全組合員で構成する「組合員総会」である(ただし、組合員が500人を超える場合は総会代議人制の導入も認める)。そして総会で組合員の中から選任された理事で組織する理事会が経営責任機関となる。
 しかし、生産協同組合の場合は自主管理が基本であるから、労働者代表機関は原則として置かれず、組合員は総会を通じて直接に理事会の活動を監督する(ただし、任意の機関として「組合員代表役会」を置くことは認められる)。
 一方、生産協同組合の場合も、最低3人以上の監査役を常置すべきであるが(監査役会は設置しない)、このうち少なくとも1人は「環境監査役」でなければならない。
 なお、上述した協同労働グループの場合は数人から十数人のメンバー労働者が完全に対等な立場で運営に当たる零細企業形態であるから、およそ「機関」もなく、構成員の全員協議で自由に活動を展開することができる。ただし、この場合も監査役に当たる「常任監査人」をメンバー以外から最低1人は選任することが義務づけられる。 

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共産論(連載第10回)

2019-02-21 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(3)計画経済に再挑戦する

◇古い計画経済モデル
  ここであえて計画経済モデルに「再挑戦」するという言葉を使うのは、計画経済モデルはすでに破綻したということがなおも国際的及び国内的な常識となっているからである。
 ただし、ここで言う「再挑戦」とは、実際に破綻したソ連型集産主義の下での計画経済モデルを単純に再試行することを意味しているのではない。むしろ新しい観点と手法による新しい計画経済モデルの開発に挑戦したいのである。そのためには、まず古い計画経済モデルの観点と手法を振り返って整理しておく必要がある。 
 この古い計画経済は、専ら資本主義経済の持つ不安定さを解消するため、事前の計画に基づいて需給関係を調節し、安定な経済運営を実現しようとの観点から、―商品‐貨幣交換システムは存置したまま―国家計画機関が主導するプランに従って国有企業体を中心に生産活動を展開していくというものであった。
 しかもソ連の計画経済モデルにあっては、重工業分野を中心に「アメリカに追いつき、追い越す」ための高度経済成長を狙い、極めて高い生産目標数値を盛り込んだ長期(原則5か年)の計画に特徴があった。
 しかし、商品‐貨幣交換を軸とする経済システムの下での需給関係の混乱は、商品‐貨幣交換の連鎖の中でのアットランダムな調節―いわゆる“神の見えざる手”という名の人の見える手―によって事後的に始末されるのであって、それを事前的な計画によって統制しようとしてもかえって計画倒れの混乱が生じかねないのである。
 この点、マルクスはある私信の中で「ブルジョワ社会(資本主義社会―筆者注)の機知は、先験的に生産の意識的な社会的規制が全くなされないという事実にある」と皮肉っているのであるが、そのような社会的規制の欠如こそ、資本主義社会の「機知」ならぬ「機序」なのだ。
 しかし、商品‐貨幣交換が廃される共産主義経済システムの下では、商品‐貨幣交換を介さない需給関係の直接的な事前調節が可能となり、またそれこそが過剰生産や逆に過少生産を防止する唯一の手段ともなる。そうした意味で、計画経済モデルは貨幣経済が廃止されて初めてその真価を発揮すると言えるのである。

◇持続可能的計画経済モデル
 新しい計画経済モデルの真の新しさのゆえんは、何よりもまず生態学的持続可能性に最大の力点を置いた計画経済生態学上持続可能的計画経済(以後、持続可能的計画経済と略す場合がある)―であるというところに存する。
 現代の資本主義を特徴づける大量生産‐大量流通‐大量廃棄(大衆の消費抑制が定在化してくると必ずしも大量消費とは言えないため、大量の未消費廃棄物が排出されるという異常!)のシステムは、その高エネルギー消費という点からしても、もはや根本的に生態学的持続可能性を保証することができなくなっており、資本主義的生産様式を続ける限り、いかに高度な環境政策も、それは決定的な環境危機をせいぜい先延ばしにし、ツケを将来世代に回すだけの姑息的な効果しか持たない。
 資本主義の枠内にとどまり、資本主義的生産様式に手を着けないまま、大量生産→大量廃棄のサイクルを止めようとしても無理なのである。資本主義とは、角度を変えて見れば、廃棄するために生産するシステムである。廃棄自体が一種の再投資なのであり、この意味では資本主義とは大量廃棄を通して資本蓄積が続いていく一種の「蕩尽経済」でもある。
 そういうわけで、根元的に生態学上持続可能な経済モデルとして、一度は信用失墜したかに見える計画経済が再発見されるべく立ち戻ってくるのである。

◇計画の実際
 実際の計画にあたっては、温室効果ガスや各種有害物質削減目標のような具体的環境規準を踏まえた厳正な供給設定が鍵となる。
 この点、現代の資本主義経済は人々の欲求に応じて明らかに実需要を超えた物を大量に生産する「欲求(需要)の経済」であり、かつ生産物の耐用年数が意図的に短期に設定され、消費者が頻繁な買い替えを強いられる「更新の経済」でもあり、それがまたエネルギー需要―特に生産過程における―の莫大な「高エネルギーの経済」につながっている。
 これに対して、新たな持続可能的計画経済は環境的持続可能性によって規定された供給に応じて需要を調整する「供給の経済」であり、かつ一つの物をできるだけ長持ちさせる「耐用の経済」でもある。従ってまた、必要最小限のエネルギー需要で足りる「低エネルギーの経済」でもある。
 ただし、前に示唆したように、全産業分野で計画経済が実施されるわけではない。計画経済の対象範囲は基本的に環境負荷の高い産業分野ということになるが、それはほぼ鉄鋼、石油、電力、造船、機械工業などの基幹産業分野と運輸をカバーするであろう。
 これに加えて、自動車産業や家電産業のように、その生産物の消費が環境負荷的となりがちな分野も計画経済の対象範囲に含まれ、こうした分野では生産物の質と量の両面で計画的な生産に踏み込む必要がある。
 また二酸化炭素の排出量の増加傾向が目立つ運輸部門は、少なくとも陸上貨物輸送については、電気自動車または水素自動車によるトラック輸送と可能限り電化された鉄道輸送を単一の事業機構に統合化したうえ、長距離トラック輸送の制限と鉄道輸送の復権とを計画的に実行する必要がある。
 長距離トラック輸送を制限するには、とりわけ消費財の地産地消のシステムを確立することが有意義であるが、この点、次節でも触れるように、各地方圏ごとに設立される消費事業組合が地産地消システムの拠点となるであろう。
 一方、日用消費財分野では、一部の基幹的な物資を除き、計画経済の対象外として自由生産制が採られる。ただ、商品‐貨幣交換が廃される共産主義経済の下では、消費財の過剰供給が生じやすい資本主義経済の場合とは反対に、過少供給の傾向が生じやすいと想定され、相対的な物不足が生じる懸念がないわけではない。
 そこで、主食的な食品をはじめとする日常必需的な消費財については、大災害や重大伝染病のパンデミックなど非常時の備蓄をも兼ねた余剰生産物の貯蔵を各生産組織に義務付けられる。そうした限りでは、限定的な計画経済が適用される。
 以上に対して、製薬のように健康に直接関わる特殊な産業分野については、一般の経済計画とは別立てで中立的かつ科学的に厳正な治験に基づく特殊な生産計画が立てられる。また天候などの自然条件に左右される農業をはじめとする第一次産業分野についても、一般の経済計画とは別立ての個別計画となる。
 こうした地球環境の保全を最終目的とする持続可能的計画経済は、その究極においては現在の国際連合に代わるグローバルな統合体としての世界共同体を通じて地球規模で実施されるべきものであるが、その実際については最終章で改めて論ずることにする。

◇非官僚制的計画
 ところで、旧ソ連式の古い経済計画は政府機関主導による官僚制的な国家計画であったがために、机上的・非現実的計画の横行を招いたことにかんがみ、新しい経済計画は計画適用分野の企業自身による自主的な共同計画に基づいて立案される。
 具体的には、計画経済の対象範囲に含まれる業種に対応する企業から選出された計画担当役員で構成する「経済計画会議」を設置し、この機関が直接に計画立案・実施を担うのである。(※)
 この経済計画はその統一的な根拠を世界共同体が策定する世界経済計画要綱に置きつつ、科学的な環境見通しに立ちつつ、比較的短期の3か年計画を基本とし、世界共同体を構成する緩やかに自治的な各領域圏の代表機関である民衆会議で承認され、法律に準じた拘束力をもって公布・施行される規範的な指針である。ただし、法律と異なり毎年内容が検証され、必要に応じ適宜修正もされる柔軟な規範である。
 このように比較的短期かつ見直しも随時行うのは、予測不能な環境条件によって左右される経済計画の目標期間は、せいぜい3か年単位が限度と考えられ、かつ可変的な柔軟性を持たせる必要もあるからである。
 また非官僚制的計画という性格からして、経済計画会議は計画の立案から実施、実施状況の監督、検証と修正に至るまで一貫して自らが担当しなければならない。
 それを可能とするためにも、会議には調査分析センターを付置し、ここには官僚でなく、新たに養成されるプロフェッショナルとしての「環境経済調査士」(環境影響評価に基づいて経済予測・分析を行う公的専門資格)を多数配置し、補佐体制を充実させる必要がある。

※当ブログ上の先行する他連載等における記述では「経済計画評議会」と表記している場合があるが、新しい計画経済モデルにおける計画機関は民衆会議と並ぶ一種の代議機関の位置づけとなるため、「経済計画会議」と命名するほうがふさわしい。従って、他連載等における記述も、このように読み替えられたい。

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共産論(連載第9回)

2019-02-15 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(2)貨幣支配から解放される

◇交換価値からの解放
 前節では、共産主義社会の特質として、商品生産がなされないということを論じた。商品生産がなされないということは、商品交換がおおかた例外なく貨幣交換に収斂されている現代社会では、ほぼイコール貨幣制度の廃止と同義である。
 ここで改めて驚倒する前に、貨幣制度の廃止とはいったいどんなことを意味するのかを考えてみたい。まず、それは我々が交換価値の観念から解放されることを意味する。
 例えば、10万円のパソコンがあったとする。この場合、そのパソコンには10万円相当の交換価値が与えられていることになるが、このことはそのパソコンの性能(=使用価値)が真実10万円に値するかどうかとはひとまず別問題である。もしかすると、そのパソコンは頻繁に故障するような欠陥商品かもしれない。
 貨幣制度が廃止されるならば、そのパソコンにはもはや貨幣で評価される価値=価格はつかない代わりに、直接その性能いかんによって評価されるであろう。これは使用価値中心の世界である。
 もちろん資本主義社会でも、使用価値が一切不問に付されるわけではない。10万円の交換価値にふさわしい使用価値のない商品は売れないであろうし、使用価値のない欠陥商品をそうと知りながら偽って販売すれば詐欺罪に問われるだろう。それでも、資本主義にあっては交換価値が使用価値に優先するのであって、目当ての商品の使用価値を我々が利用したければ、ともかくいったんは交換価値相当額の貨幣と交換することが要求される。これは交換価値中心に回る世界である。
 商品経済があらゆる部面に貫徹されるに至った社会では、いかなる財・サービスを取得するにも交換価値相当額の貨幣を要求されるから、カネがなければそれこそおにぎり一個も購入できず餓死することもやむを得ない帰結として、慨嘆されつつも容認されるのである。反面では、この世はすべてカネしだい、カネさえあれば何でも買えるという魅惑的な浮世でもある。
 そこからまた、カネのためなら犯罪行為も辞さない人間も跡を絶たず、窃盗、強盗、詐欺のような財産犯罪はもちろん、殺人のような人身犯罪を含めたおよそ犯罪の大半に何らかの形でカネが絡んでいるのが、資本主義的世情である。

◇金融支配からの解放
 交換価値の表象手段となる貨幣というシステムはその本性上民主的ではないから、貨幣経済とは一種の専制体制である。そのような「貨幣的専制支配」が最も端的に現れるのが金融の領域である。
 貨幣そのものの資本的化身である金融資本は融資や投資を通じて資本主義経済全般の総設計師の役割を果たす一方で、そうした総帥的役割ゆえの横暴さが資本主義の歴史を通じて見られ、その無規律で時に制御不能な行動がしばしば深刻な経済危機のきっかけを作ってもきた。
 2008年大不況の発端となった金融危機でも、人間が自ら作り出した複雑な金融システムを自ら制御できず、逆に人間が金融システムに支配され、破滅させられかねないフランケンシュタインさながらの姿がさらけ出されたのであった。
 貨幣制度の廃止は、銀行を中心とする金融資本を全面的に解体することになる点で、「貨幣的専制支配」からの解放を保証するのである。(※)
 このことは金融に起因する経済危機からの解放のみならず、より日常的な直接の帰結として、およそ借金からの解放をもたらす点において、多くの人々に朗報となるであろう。疑いもなく、借金は個人にとっても、企業体さらには国家や地方自治体のような公的セクターにとっても、破産を招く貨幣の最も恐ろしい形態だからである。
 借金は債権という法的形式をまとって、合法的な権力としても(=強制執行)、非合法な暴力としても(=暴力金融)発動される貨幣の最高の力として債務者を支配するがゆえに、恐ろしいのである。このような力からの地球全域での解放は、まさに地球人の共同利益に資するはずではないだろうか。

※金融資本のみを敵視して「金融資本主義」からの解放を一面的に主張する議論とは異なる。資本主義は金融資本を司令塔として運営されている経済システムであるから、金融=資本主義なのであって、「金融資本主義」は同語反復的である。

◇共産主義と社会主義の違い
 今日でもしばしば混同されている共産主義と社会主義の違いとは、ごく大雑把に言えば貨幣制度の有無にあると言ってさしつかえない。
 従来、社会主義は「平等な無階級社会」をめざすと宣伝していたが、貨幣はその本性上決して平等には行き渡らないものであるから―その意味でも貨幣システムは民主的ではない―、貨幣制度を維持する限り、その下での完全な所得・資産の均等化(均産化)はおよそ不可能なことなのである。
 従って、貨幣制度を廃止しないままの「社会主義」では、どのようにしても階級社会を根絶することなどできはしない。20世紀に社会主義の盟主だった旧ソ連にしても、しばしば誤解されるような「完全平等」が達成されていたわけでは全くなく、むしろすべての資本家にとっての究極的理想である出来高払いの成果主義賃金体系が構築されていたのであったし、共産党官僚特権に基づく各種役得(賄賂も含む)の介在により、一般労働者層と共産党官僚層との間には所得格差を含めた生活水準の格差が公然と発現していたのであって、その実態は端的に言って「社会主義的階級社会」と呼んでも過言でなかった。
 従って、旧ソ連社会を「完全平等社会」と事実誤認したうえで、そのような「平等」こそが旧ソ連体制の“活力”や“競争力”を喪失させ、資本主義陣営に敗北した要因であると分析するのは的を得ない。
 それと同時に、貨幣制度―より厳密には商品‐貨幣交換経済―が廃止される共産主義と、それがなお温存される社会主義とを同視・混同することも失当なのである。

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共産論(連載第8回)

2019-02-14 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

共産主義社会ではおよそ商品生産が廃止される。その結果、我々の生活はどう変わるのか。また共産主義社会における生産活動はどのように行われるのか。


(1)商品生産はなされない

◇利潤追求より社会的協力
 マルクスは有名な『資本論』第一巻の書き出しで、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一個の「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品はその富の基本形態として現れる」と資本主義社会の特質を的確に描写している。
 たしかに、資本主義社会の主役は人間でなく、商品である。周知のとおり、おにぎりからケータイ、クルマ、住宅に電気、水道、ガス、さらには医療、福祉、果ては性に至るまで、ありとあらゆる財・サービスが商品として生産され、販売され、人間は商品に大きく依存して生きているのが資本主義社会の現実である。
 これに対して、共産主義社会ではこのような商品としての財・サービスの生産がなされないのである。なぜか。それは、前章で先取りして述べたように、共産主義とは社会的協力すなわち助け合いの社会だからである。
 商品という形態での財・サービスの生産は、第一義的には商品を生産する資本家がそれらを販売して貨幣に変え、富を蓄積するために行われているのであって、その実践は本質的に商業活動である。
 もっとも、商業活動の内にも助け合いという要素は認められる。例えば自動車を生産・販売する資本家は自動車を欲している他者のために生産・販売しているのであり、自動車部品を製造・納入する資本家は自動車生産に不可欠な部品を自動車生産資本家のために製造・納入している。一方、これらの資本家の下で働く労働者は資本家のために労務を提供し、見返りに資本家は賃金を支払って労働者の生活を支えているはず―近年は怪しくなってはいるが―である。
 とはいえ、資本主義的な生産サイクルの中では日頃、こうした利他的相互扶助の関係はほとんど意識に上らず、ただそのサイクルを流れる商品と貨幣のことだけが意識されているのである。言い換えれば、資本主義社会とは、第一義的に利潤追求=金儲けの社会であって、ようやく第二義として社会的協力=助け合いの要素が現れるという特徴を持っている。
 してみると、共産主義社会とは資本主義社会にあっては第二義的でしかない社会的協力という要素を表に引っ張り出してくるだけのことだとも言える。その結果、どういうことが起こるだろうか。

◇無償供給の社会
 一番重要な変化は、あらゆる財・サービスが商品ではなく、「モノ自体」として生産・供給される結果、それらがすべて無償で、つまりタダで取得できるようになることである。
 このことは、現代人にとっては一つの文化革命と呼ぶに値する激変であろう。おにぎり一個の取得にすら交換手段としての貨幣を必要とする我々は、あらゆるモノをタダで取得できることに後ろめたさをすら覚えるかもしれない。
 冷静な人ならば、そうなると財・サービスの供給が統制的な配給制になるのではないかという懸念を持つかもしれない。たしかに日常必需的な消費財に関しては、後で再び論じるように、独り占めや需要者殺到を防ぐために取得数量の制限をする必要があり、その限りで一種の配給制的なシステムとなるであろう。
 しかし、資本主義の下においても、需要の急増により品薄が生じた場合には取得数量を制限するなど、在庫切れを防止するための対策を講じる必要がある。従って、このでは相対的な違いにすぎないと言えよう。
 一方で、例えばマイカーのような物になると、共産主義の下では画一的な量産体制から需要者による個別的な注文生産の形に変わり、需要者の好みの型や色、デザインに応じた職人的な生産方式が可能となるであろう。
 それに対して各種事業所や交通機関などの業務に供せられる事業用自動車については、後述する経済計画に従い量産体制が採られつつ、やはり無償で納入・更新されていく。同じことは、例えば自動車生産工場で使われる機械設備のような生産財の生産・供給についても妥当する。

◇文明史的問い
 このように、共産主義的生産体制の下では、生産される財・サービスからその商品形態が剥ぎ取られ、およそ貨幣交換に供せられることがなくなるため―部分的には個人間での物々交換の慣習は残存するであろうが―、商取引が消失し、商業活動全般が(原則的に)廃される。その代わりに、言わば「巨大な社会的協力」のシステムが立ち現れるのである。
 ここで、一つの文明史的疑問が提起されるかもしれない。すなわち商取引は資本主義以前の先史時代から人類が営々と継続してきた活動であるのに、それを人為的に全廃してしまうことなど可能であろうか、と。
 おそらく、これはマルクスよりもブローデルが提起した資本主義の文明史的基層を成す「物質文明」という視座に関わる問いであろう。本論考でこの遠大な問いに正面から取り組む余裕はないが、一つ言えるのは、ここでもやはり生態学的持続可能性という人類社会の存立条件を巡る基本的認識が、この問いに対する回答を左右するであろうということである。
 資本主義に象徴されているのは、富を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ社会である。そのような社会では、もっと所有すること(having-more)、すなわち贅沢が理想の生活となる。しかし、このような社会は、環境的持続可能性とはもはや両立しないことは明白である。
 それに対して、もっと所有することや贅沢ではなく、よりよく在ること(being-better)、すなわち充足が理想の生活となる社会があり得る。もっとも、そのような社会にあっても人間社会を維持していくためには物質的生産活動は不可欠であるから、物質文明が完全に放棄されるようなことはあるまい。とはいえ、来たるべき新たな物質文明はもはや富の追求を第一義とするようなものではなくなるであろう。

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