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共産論(連載第13回)

2019-03-01 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(5)土地は誰のものでもなくなる

◇共産主義と所有権
  資本主義において、所有権という観念は神に匹敵する地位を占めているが、中でも土地所有権は所有権中の所有権、言わば資本主義の一丁目一番地である。
 そこで共産主義社会においてこの肝心な土地所有権がどうなるかということは最大の関心事となるであろうが、その問題に進む前に、一般的に共産主義における所有権についての考え方を整理しておく。共産主義と聞けば私的所有権を剥奪されるといった反共プロパガンダはおなじみのものであるが、以下に見るようにそれは誤解である。
 まず、言うまでもないことではあるが、日用の一般的消費財については完全な個人的所有権が認められる。例えば我々が今着ている上着や下着は共産主義社会の下でも自身の私物である。しかし、家具とか家電製品のような物は「社会的共有財」として無償で貸与されるようになる。
 こうした大きな消費財は廃棄するとなるといわゆる「粗大ごみ」となりやすいので、すべて社会的共有財としたうえで、使用を終える時には廃棄するのでなく返却して耐用年数が到来するまで―前述したように、「耐用の経済」である共産主義経済では生産物の耐用年数は長めに設定される―再貸与するという形でリユースを続けることにより、粗大ごみの排出量を抑制することができる。それを考えれば、将来の粗大ごみにまで所有権を認めるよりも合理的であることが理解されよう。
 以上の「社会的共有」と類似の用語として、前に共産主義的生産組織の項で見た「社会的所有」がある。これは基幹産業を中心とする生産事業体のあり方を規定する概念であった。
 この点については私的所有権の剥奪であるように思われるかもしれないが、すでに資本主義経済の下でも基幹産業分野の株式会社はほとんどが株式市場に上場された公開会社であって、それらはもはや単なる資本家個人の私物ではなく、半社会化された公衆的所有の対象となっていることからしても、「社会的所有」とは資本主義の内部ですでに始まっている「資本の社会化」という現象を数歩―その歩幅は決して短くないとはいえ―前に進めるだけのことだとも言えよう。
 ここで、本題の土地問題へ入る前に、土地とも密接に関連する住宅問題についても触れておきたい。まず結論から行けば、住宅にこそ、共産主義は究極の所有権を見出す。なぜなら、住む場所を「持つ」ということは人間にとって根源的な所‐有だからである。であればこそ、住居の喪失はほとんど人間であることの否定となりかねないのである。
 資本主義経済は住宅の賃貸を商業資本化し、大量の借家人すなわち住宅を所有せず、賃料の支払いができなければ住居を喪失する人々を発生させてきたが、これこそ根源的なレベルで資本主義の非人間性を示す現象とも言える。
 共産主義の下でも借家制度はあり得るが、貨幣経済が廃される以上もはや「賃貸」はあり得ず、無償の使用貸借が本則となる。しかも地方自治体などが提供する公共的な借家にあっては、原則として終身賃借かつ世代間継承も可能な使用貸借権を設定することにより借家権を実質的に所有権化することも実現する。
 一方、民間人が提供する私的な借家にあっては、賃貸の廃止により賃料収入を得ることができなくなる賃貸事業者は自ら所有権を放棄すると予測されるから―個人の家主も住宅貸し出しから手を引くであろう―、それらはすべて公的機関が継承し、公共的借家に転換するであろう。 

◇土地私有制度の弊害
 おそらく共産主義に対して最も神経を尖らせるのは、やはり地主層―土地を所有する法人企業組織を含む―であることは間違いない。かれらは自身の存在証明である土地所有権の剥奪を何よりも恐れるからである。
 ちなみに集産主義体制では土地の国有化が国是であり、集産主義から「社会主義市場経済」に舵を切った中国でも、土地国有制は次第に形骸化しながらも法的な大枠としては維持されている(中国憲法第10条参照)。その点、共産主義は「国」という観念を持たないのであるから、土地「国有」もあり得ない。そうすると、地主の神経を鎮めるべく土地所有権は温存されるのであろうか。
 答えはノーである。それにしても共産主義はなぜ土地私有制度に否定的なのか。それは人類がこれまでに創出した様々な経済的制度の中でも土地私有制度ほど奇妙かつ有害な制度はないからである。
 まず、それは何よりも地球の私物化であるという点において不遜である。地球という天体の構成要素たる大地を〈私〉のものにしようというのだからである。
 しかも全き自然の産物である大地にも価格=交換価値を付けて投機の対象とする。このように本来商品たり得ないモノに無理やり商品形態を与えて投機を助長することが株式投機と並んで実体経済を離れたバブル経済の形成要因ともなり、また「地上げ」のごとく居住権を侵害する不法な土地取引も横行させる。
 20世紀中には、少なからぬ諸国で寄生地主制のような階級的悪制は解体された一方、世界には21世紀に入っても依然として大土地所有制のような形態が温存され、農民を搾取・抑圧している例も少なくない。
 もっとも、大土地所有制が解体され土地所有が小口に分割された小土地所有制ならば問題がないというわけでは決してなく、まさにそれが土地投機の対象となるほか、都市計画に際しては細分化され入り組んだ私有地が障害となり土地の有効利用を妨げたり、資本企業が所有する遊休地や商業用地が宅地不足の要因ともなる。錯綜した土地所有権を巡る紛争はすべての所有権紛争の中で最も深刻であり、しばしば当事者が生命まで奪われることは、周知のとおりである。
 かくして、あらゆる私有制の中でも最も有害な土地私有制度の廃止が目指されるのである。

◇共産主義的土地管理制度
 先ほど、共産主義にあっては土地の「国有化」はあり得ないと論じた。すると、土地は誰のものになるのか。肩すかしのような答えであるが、土地は誰のものにもならない。それは天然の産物として、無主の自然物―野生の動植物のように―として扱われるのである。
 このときに、“神の所有”とか、それに類する超自然物な観念を援用する必要はない。共産主義はどこまでも世俗的な思想であり、理論だからである。
 このように、土地を誰にも属しない無主物として把握するとしても、実際の土地の管理をどのように行うかという問題が残る。この点、共産主義社会に「国」は存在しないとはいえ、領域的な施政権が及ぶ範囲(これを「領域圏」と呼ぶ。詳しくは第4章参照)というものは存在し、この領域圏の統治機関―領域圏民衆会議―がその領域圏内の全土地の管理権―所有権ではない―を保持するという考え方で解決し得る。
 具体的に言えば、例えば日本(日本領域圏)の領域内にある全土地を領域圏民衆会議―もっと具体的には民衆会議が監督する土地管理機関―の管理下に置くという構制になる。
 これにより当該領域圏内にある土地は土地管理機関の許可なくして使用・収益・処分することができなくなる。そのうえで、個人の住宅や私的な団体の施設の敷地については、住宅または施設の所有者(法人を含む)に対して、その住宅または施設の使用に必要な限度内での土地利用権を保障する。この土地利用権は原則として無期限のものとし、土地管理機関の許可に基づく(無償の)譲渡・貸与も可能とする。
 ただし、農地については、先述した農業生産機構が一括して恒久的な利用権(耕作権)を保有することになる。

◇天然資源の管理
 改めて最終章でも論じることであるが、土地のみならず、地中に埋蔵されている天然資源についても、共産主義はそれらを無主物としてとらえる。
 例えば石油である。今日、石油はそれを埋蔵する土地を領土―第4章で詳しく見るように、共産主義は国家レベルにおける政治的な土地所有制度とも言うべきこの「領土」という概念にもメスを入れるが―に持つ国家の専有物であるかのごとくにみなされ(資源ナショナリズム)、こうした産油国の利害と投資家の思惑とが日々複雑に絡み合いながら、石油が投機対象の性格を強めて燃費を左右し(資源資本主義)、ひいては末端に位置する一般生活者層の生活を直撃する要因ともなっている。
 しかし、石油はその有限性と石油燃料の環境負荷性とを考慮し、他の重要な天然資源とともにトランスナショナルな天然資源管理機関の管理下に置かなければならない時期に来ている。
 ただ、そのようなことが完全に可能となるためには、最終章で見るように、まさにトランスナショナルな統治体たる「世界共同体」の創設を待たなければならないのではあるが。


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