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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第7回)

2019-01-29 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(5)共産主義は怖くない

◇二方向の限界克服法
  これまでの叙述の中で、集産主義に対して「勝利」した資本主義は暴走などしていないし崩壊もしていないものの、いくつかの重大な点で限界に達している、と論じてきた。この資本主義的限界を乗り超える方法としては、大きく二つの方向性が考えられる。
 一つは、資本主義の枠内で上述の限界を克服しようとする方向である。これを医療にたとえて言えば、資本主義の限界に対する内科的療法である。
 かつて風靡した福祉国家モデルも、資本主義を原理的に貫いていったときに発生する労働者階級の窮乏化を防止するために、資本主義の枠内で公的年金・保険のような生活保障制度を充実させる有力な内科的療法であった。
 しかし、福祉国家モデルは第一の根源的な限界として指摘した環境的持続性に関わる限界への対策とは元来無縁であるし、当該モデル自体も多くの諸国で財政的に揺らぎ始め、それ自身の「持続可能性」に黄信号がともっているが、今のところ、福祉国家モデルに代替し得る新たな内科的療法はまだ発見されていない。
 この点に関して近年、国家が税財源その他の国庫収入を引き当てとして全市民を対象に一律に一定金額を基礎的生活費として給付することを主旨とするベーシック・インカム(Basic Income:以下、BIと略す。)という制度構想が提唱され、一部の国では試行され始めている。
 従来の福祉国家が稼得に関しては「自助努力」を原則としつつ、失業や老齢、疾病など一定の事由が生じた場合にのみ国家が所得保障を行うのに対し、BIはそうした特別の事由のいかんを問わず、国家が一律的に全市民に定額の基礎的所得を保障する点で福祉国家モデルを超える「究極の生活保障制度」として宣伝されることもある。
 この究極の大盤振る舞いにはそれに必要な巨額財源を調達するために歴史的な大増税が欠かせないという問題があることは当然としても、資本主義の生活憲章とも言うべき一つの大法則に抵触してしまうという原理的な次元での問題もある。
 資本主義的生活憲章とは、「稼げ、然らずんば死ね!」である。すなわち資本主義的生活原理とは稼働能力ある限り、基礎的所得も含めてすべて自ら稼ぎ出さねばならない―利子や賃料のような不労所得がある場合などを除いて―ということにあるのだ。
 逆に言えば、資本主義とは稼得、つまりはカネを稼ぐ能力がすべてという主義なのである。よって、ひとはこの能力さえあれば自力で豊かな暮らしを享受することができるが、そうでなければいかに人格高潔・博学博識であろうとどん底生活、さらには餓死さえも甘受しなければならない・・・。
 それに対して、BIは稼ぐ能力を公的な最低所得保障で下支えしてやろうという思いやりの制度ではあるのだが、計算高い資本の側では、BIによる最低所得保障を口実に「便乗賃下げ」や「便乗リストラ」といった戦術を用意している―だからこそ、BIには経営者層の一部も同調している―ことも忘れることはできない。
 またBIの財源としても、「全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会」(マルクス)であるところの資本主義国家は、資本の税負担を増す法人増税のような「企業増税」ではなく、消費増税や所得増税―それも高所得者層の負担を増す累進課税強化でなく、低所得者層の負担を増す非課税条件の引き下げによる―のような「庶民増税」でかかってくることは確実である。してみると、BIが福祉国家モデルに代わる究極の内科的療法であるかは極めて疑わしい。
 さて、以上に対して、資本主義的限界を克服するもう一つの方向として、ここでの主題である共産主義が出てくる。これは資本主義システムそのものを根本的に切除しようという意味で、資本主義の限界に対する外科的療法と言えよう。
 歴史上、人類は様々な経済システムを試行してきて現時点では資本主義経済にほぼ落ち着いているように見えるが、まだ一度も試されたことのないシステム―考古学仮説上の「原始共産制」は別としても―、それが共産主義である。

◇共産主義のイメージ
 共産主義への移行などと聞けば、所有権の剥奪とか、画一的統制社会等々の悪いイメージが先行し、果ては旧ソ連のスターリンによる大粛清や世界を震撼させたカンボジアのクメール・ルージュ(カンプチア共産党)による大虐殺などを持ち出してネガティブ・キャンペーンが始まりかねない。
 しかし、真の共産主義は個人の所有物を一切合財接収したりはしないし、統制社会云々というのも共産主義とソ連型社会主義=集産主義とを意図的に、もしくは誤解に基づいて混同するものである。
 共産主義社会は、たしかに平等な社会である。しかし、その「平等」とは基本的な衣食住の充足に関する平等である。すなわち貨幣のような特殊な交換手段を持たなくとも、誰もが基本的な衣食住を充たすことができるように協力し合う社会である。そのような社会を「画一的」として断固拒絶する人がさほど多いとは思えない。
 共産主義社会とはそうした社会的協力、つまりは助け合いの社会である。従って、偽りでなく真正の共産主義社会ならば粛清や虐殺のような強制的排除が起こるはずもない。そのような暴力的排除政策は、正しい意味における共産主義ではなく、政治的な全体主義と結びついた集産主義の行き着く先だったのである。
 共産主義にまつわる否定的なイメージは、そのほとんどが東西冷戦時代、主として米国を盟主とする西側陣営で流布された反共プロパガンダの名残であって、それらが冷戦終結・ソ連邦解体後の今日でも必要に応じて古いアーカイブから時折取り出されてくるにすぎない。
 ここでは、そうしたプロパガンダに惑わされることなく、今後、21世紀半ばへ向けてますますあらわになるであろう資本主義の限界を直視しつつ、資本主義の次に来たるべき共産主義を、単なる社会思想としてでなく、資本主義的現実と対比させながら、より具体的・実践的な姿においてとらえてみたい。この課題を、続く六つの章で順次追求していくことにする。

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共産論(連載第6回)

2019-01-28 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(4)資本主義は限界に達している:Capitalism has been reaching its limitations.

◇四つの限界
 資本主義が容易に崩壊するようなことはないであろうと予測することは、資本主義が何らの限界も抱えておらず、永遠不滅であると無条件に楽観することを意味していない。むしろ資本主義は今日、少なくとも次の四つの重大な点で決定的な限界を露呈していると考えられる。

限界(一):環境的持続不能性
 最も根源的な限界は、資本主義的生産体制を続けている限り、人間社会の存続条件そのものを成す地球環境(生態系)が持続しないということにある。
 とりわけ「地球温暖化」は過去の気候変動とは異なり、産業革命以来の資本主義的生産活動の結果、温室効果ガスの増量によって引き起こされたものと理解されている。
 それはとりもなおさず、西欧、北米、日本などの先発資本主義諸国が繰り広げた資本主義的経済成長の「宴のあと」でもあるのだ。今また、中国を筆頭にインド、さらに資本主義へ「復帰」したロシアや東欧、天然資源を武器に遅ればせながらグローバル資本主義へ参入しつつある人口爆発中のアフリカ大陸も加わり、資本主義的経済成長の波が地球全域で起きようとしている。
 西欧、北米、日本の10億に満たない人々が繰り広げた資本主義の宴によっても地球環境は十分に損傷されたのであるから、仮に地球の残りのすべての諸国が同じことを繰り返したら地球環境はどれだけ損傷するのか―。これはまったく未知の恐怖である。
 そうしたことはすでにある程度意識されているからこそ、グローバル資本主義の時代には、同時に地球環境問題がかつてないほど強力に提起されてきたのであるが、温室効果ガスの排出規制問題に象徴されるように、すでに一定の発展段階に到達している先発諸国とその後を追い、追い越そうという野心的な新興諸国の利害は鋭く対立しがちである。
 新興諸国にとっては増大していく生産活動の桎梏となりかねない環境規制を回避したいのは当然であろう。しかし、事情は先発諸国の総資本にとっても同様であり、元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制に対しては、どんな名目があろうとも拒絶的である。かくして環境規制と資本主義は本質的に衝突せざるを得ない。
 もっとも従来の地球環境論議はいわゆる地球温暖化問題に偏向しすぎるきらいはあったが、現代社会が当面する地球環境問題はそれに限らず、大気、水、土壌、酸性雨、森林 各種有害物質、放射線防護、生物多様性等々、多岐にわたっており、それら目白押しの課題を総合的かつ相互連関的に考慮しながら、単なるスローガンにとどまらない具体的な数値規準を立てて対応していかなくてはならない時期に来ている。
 そのためには数値的な環境規準を適用しつつ、生産方法のみならず生産量にも直接に踏み込んで規制する生態学的に持続可能な計画経済(生態学上持続可能的計画経済)を、まさしく地球的な規模で導入する必要がある。
 しかし、このようなことは各国各資本が個別的な経営計画に基づいて競争的に生産活動を展開する資本主義的生産様式を維持する限り不可能であり、せいぜい環境税の賦課のような間接的規制にとどまらざるを得ない。それですら、経済界の抵抗で実現しない国も少なくない。ここに人類の滅亡というそれこそ黙示録的預言さえ必ずしも大げさとは言い切れない、資本主義の限界が露呈しているのである。

限界(二):生活の不安定化
 近年、新自由主義=資本至上主義政策の結果として所得格差が拡大したことが、しばしば声高に非難される。しかし問題は「格差」そのものにあるのではない。人間はたとえ天文学的な所得格差があろうともそれなりに安定して生活することができるならば、さほど不満を持たないものである。このことから、所得格差の大きな米国で従来、プロレタリア革命が発生しなかった理由の一端が説明できるかもしれない。
 ところが、資本主義のグローバル化は格差以上に生活の不安定さを高めてきている。それは元来計画経済を忌避する資本主義につきものの景気循環がグローバル資本主義の下ではまさしくグローバルな規模で連鎖的に継起し、各国一般大衆の生活を直撃するからである。2008年の大不況はそのような生活不安のグローバル化の典型的かつ未曾有の事件であったと言えよう。
 こうした生活不安という大状況の内部に、雇用不安と老後不安が内包されている。元来グローバル化のはるか以前に経験済みであった電動機革命に加えて、グローバル化と重なりその原動力ともなった電算機革命は資本企業の生産性を総体として向上させ、かつてほど多くの労働力を必要としなくなった。また知識集約型産業の発展も、労働力の量的要求水準を低めている。
 そこへグローバルな競争に対応するための人件費節約の圧力が加わり、雇用は先細っていく。グローバル資本主義の下ではこうした雇用不安―不安定雇用をも含む広義の「不安」―を恒常的に伴った「雇用なき成長」という現象も一般化する。
 一方、大半の一般労働者にとって老後の主要な生活資金となる公的年金は平均年齢が短かく、高齢化率も低かった時代の産物であるだけに、制定当初の予測を超える少子高齢化が進行し、かつ国家の財政危機が深刻化している時代には、その持続可能性に危険信号がともり始めている。しかも、保険料を納める資力にも事欠く低賃金労働者や長期失業者らは、当然将来の年金給付も低く、あるいは逸失する恐れもあり、老後の生活不安はいっそう深刻化するであろう。
 こうした生活不安の恒常化は、大衆の消費抑制にもつながり、販売不振による景気の長期低迷から慢性不況の要因ともなり、資本主義の体力を自ら弱めることになろう。
 ちなみに、新興諸国や開発途上諸国でも資本主義的経済成長に伴い生活水準の総体的な向上が見られる反面、新興諸国や開発途上諸国に特有の経済的な脆弱性、長期的な政情不安や治安の悪化による生活の不安定さから、人々がより安定した生活を求めて先進諸国に大量移住する現象が生じている。これは飢餓を避ける難民とは異なる現代資本主義に特有の逆説的な移民現象である。
 さらに、環境破壊に伴う異常気象の多発化、海面上昇の進行が生命に対する脅威を年々高めている。こうした脅威は民族や階級を超えた全人類に共通の不安をもたらしているが、資本主義がこの問題を根本的に解決することができないことは、もはや明らかである。

◇限界(三):技術革新の停滞
 19世紀以降における資本主義の発達の輝かしい成果として、科学技術や情報技術など、様々な技術の革新がしばしば喧伝されてきた。たしかに、その事実を否定することはできない。しかし、資本主義が後押しする技術は、すべて資本企業の利潤拡大に寄与するものに限られる。平たく言えば、金儲けの手段となるような技術の革新である。
 従って、技術のアイデアそのものは秀逸であっても、開発や製品化に多額のコストがかかるもの、あるいは当該技術の受益者、従って購買者が少数者にとどまるもの(例えば、障碍者)などは資本主義的技術革新から取り残されてしまうのである。
 20世紀後半期以降の情報技術の発達が賛美されるが、実際のところ、21世紀に入って頭打ちとなり、既存技術の継続改良的なものにとどまっているのも、アイデアの宝庫である情報技術分野では、コスト問題や製品市場の規模などの面で技術開発が限界に直面しているからにほかならない。
 同様に、再生可能エネルギー技術や環境負荷の低い製品開発なども、スローガンとしては謳われながら、コストと利潤を優先する資本主義体制ではめざましい進展を見せることはなく、頭打ちとなっている。
 一方で、受益者が限られていながら、高度な利潤を狙える技術であれば、反人倫的なものでも革新が進められていく。その最たるものが、ハイテク兵器の開発である。ハイテク兵器の購買者はほぼ主権国家に限られているが、地上で最大規模の購買力を持つ国家を顧客とするため、一器当たりの利潤も最大規模の高額商品として、ハイテク兵器は資本主義的技術開発の最先端を行っているのである。
 結局のところ、資本主義的技術革新は、専ら金儲けのためには年々進展していきながら、人類史的に見た技術革新総体としては、停滞を余儀なくされていると言えよう。

限界(四):人間の脱社会化
 資本主義は人間の利己主義的な側面を刺激し、特に人間の貨幣への執着心をエートスとして自己を保持している。資本主義的経済競争とは、すべて貨幣獲得競争に集約される。ケインズが「社会への奉仕」をエートスとする共産主義と対比して、資本主義のエートスを「貨幣愛」に見ようとすることは、いささか図式的とはいえ一理ある。
 先述したように、ソ連邦解体以降、グローバル化の中で、資本主義が一種のイデオロギー化を来たすにつれ、人間の利己主義的な側面が積極的に賛美すらされ、利己主義の亡者が増殖している。一方で、資本主義が集産主義に対して勝利した最大のフィールドである消費生活の豊かさは、人間を個人的な消費単位に切り刻み、社会性を失った商品のとりこと化させている。
 概して人間全般が社会性を喪失してきており、それが社会的動物としての人間性の劣化を招いているのである。このことは、個人のレベルでは精神の幼稚化を促進する。社会性が未発達な利己主義人間は成人であっても小児のように世界は自分(me)を中心に回っていると認知する。このような〈自分〉の肥大化現象は、様々な現代的社会病理の根元に必ずと言ってよいほど絡んでいる。
 人間の社会性の喪失はまた、社会のレベルではまさに「社会」の解体、具体的には地域コミュニティの崩壊や家族関係の解体を促進し、それらがひいては個々人の社会的孤立化につながり、資本主義者の間でさえ「社会的絆」の回復を叫ばせるまでになっているのである。(※)

※ここで言うところの「社会性」とは、高度な協力・協働関係で成り立つ社会を構築できる人間の類としての社会性のことであり、個々人が社交的であるかないかといった個体としての性格的な社会性を意味しているのではない。

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共産論(連載第5回)

2019-01-15 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(3)資本主義は崩壊しない:Capitalism might not collapse.

◇ケインズの箴言
 2008年の大不況は、それまでグローバル資本主義を散々もてはやしていた論者の間にすら「資本主義の崩壊」といった悲観論を巻き起こした。しかし、果たして「資本主義の崩壊」などというあたかも最後の審判のような事態が到来するのだろうか。
 この資本主義崩壊論は、『資本論』第一巻で「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」という黙示録的預言を残したマルクスを彷彿とさせるものがあるが、このようなマルクスの神がかった物言いは「科学」を強調したマルクス理論の威信を落としかねないものであった。
 それよりも、「資本主義は、賢明に管理される限り、今まで見られたどの代替的経済組織よりも効率的なものにすることができる」というケインズの箴言のほうにより反証的説得力を認めるに足りる証拠がある。
 実際、大不況に際しても、当初は大恐慌に至るとの予測もあり、この世の終わりであるかのような騒然としたムードに包まれたが、主要国の政府・中央銀行による通貨供給などの緊急措置が迅速に講じられ、資本主義総本山・米国がタブーとも言える鉄則を破ってまで民間資本に対する公的資金の投入や事実上の国有化といった手法を駆使して大不況の発端となった金融危機張本人の金融界や米国資本の象徴たる自動車業界の救済に走った結果、ひとまず最悪的事態は避けられた形となった。
 現代の資本主義はもはや純粋の自由放任経済ではなく、平素から実行されている中央銀行による金融調節や経済危機の際における政府による直接的な資本救済措置をも備えた「調整経済」とも呼ぶべき体制を採っており、この体制は規制緩和と民営化が至上命令となったグローバル資本主義の下でもなお保たれ、大規模な経済危機に対してもかなり有効に働くことが改めて証明されたと言える。

◇打たれ強い資本主義
 加えて、資本主義経済は1930年代の世界大恐慌以来、国際的な規模での経済危機にもたびたび見舞われてきながら、それらをそのつど克服してきた経験も豊富である。言わば危機管理の虎の巻を持っているようなものである。こうしたことから、現代資本主義経済は危機に強く、打たれ強い体質のシステムとなってきていることは否定できない。
 もちろん歴史上、永遠に続いた経済システムというものは一つもない。奴隷制経済、封建制経済、社会主義経済等々、すべて終焉した。資本主義経済だけが例外であるという証拠があるわけでは決してない。
 大不況に際して米国が民間資本国有化のような手法にまで打って出ざるを得ないところまで追い込まれたことはある意味で末期的であり、これを主導した当時のオバマ大統領は、ちょうどソ連末期、ソ連では逆にタブーであった市場経済を部分的に導入しようとしたゴルバチョフ書記長(後に大統領)に相当するような人物だったのかもしれない。
 特に米国経済の象徴であった金融資本と自動車資本の揺らぎは、ドルの価値下落と合わせて、米国が体現してきた偉大なる資本主義の終わりの始まりであり、歴史的にはあたかもソ連邦解体に匹敵する意味―合衆国が解体して50の州が独立してしまうかどうかはともかく―を持つことになるかもしれない。
 仮に、真に「資本主義の崩壊」と呼び得るような事態が出来するとしたら、その引き金を引くのは、やはり米国系金融資本である可能性は高い。マルクスは『資本論』第二巻で、生産力の物質的発展と世界市場の形成を促進する信用制度が同時に恐慌を促進し、古い生産様式の解体の諸要素を促進することを指摘していたが、この部分は正鵠を得た診断であったと言えよう。
 とはいえ、資本主義経済には歴史上見られたどの経済システムよりも強力な自己保存装置が備わっており、人類がこのシステムに固執し続けようとする限り、ほとんど半永久的に存続していくのではないかとさえ思えてくる。

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共産論(連載第4回)

2019-01-14 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(2)資本主義は暴走していない

グローバル資本主義の実像
 1991年のソ連邦解体以降、全世界に拡散した資本主義―グローバル資本主義―は、それ以前の資本主義とは質的に異なる面を示し始めているように見える。
 すなわちグローバル資本主義は経済的自由を拡大するための規制緩和と民営化(営利資本化)、労働法制の規制緩和を通じた労働市場の弾力化、財政均衡を重視した社会保障費抑制策等々のいわゆる新自由主義の綱領を公然と掲げて各国政府にその実行を迫るようになってきた。
 こうした状況を指して「資本主義の暴走」と非難されることもある。この非難は資本主義総本山・米国の金融危機を契機に勃発した2008年世界同時不況を契機に強まった。資本主義は集産主義に対する「勝利」に酔って、暴走的乱痴気騒ぎを引き起こしたのであろうか。
 一つにはそういう面もなくはなかろう。資本主義は、東西冷戦時代には自らを社会主義や共産主義等々の「イデオロギー」とは無縁の合理的な経済システムであると宣伝していた。ところが旧ソ連の集産主義に対する「勝利」以来、資本主義が自らをまさしくイデオロギーとして絶対化し始め、「資本主義以外に道なし」と言わんばかりの教理として自己展開するようになったのだ。そうした資本主義の原理主義化の現れが新自由主義であるとも言える。
 その新自由主義のイデオロギー的側面が最も如実に表れているのが、資本企業(株式会社企業)の従業員である労働者への賃金分配よりも、企業の法的な所有者である株主への利益配当を重視すべきだとする株主至上主義の公理である。
 しかし、そればかりではない。元来、資本主義は自由放任の競争経済を志向する内的傾向を持っているが、このような資本主義本来の傾向性が、ソ連邦解体以降、旧ソ連の従属下にあった東欧諸国のほか、中国そしてインドといった新興諸国も本格参戦しての国際的な資本主義大競争が展開されていく中で、一つの歴史的反作用(反動)として再現前してきたと言える。
 従って、いわゆる新自由主義と呼ばれる潮流にも、イデオロギーとしての側面と同時に、資本主義本来の傾向性に照応した経済戦略としての側面とがあると言える。
 後者の側面を大胆に単純化して言えば、先発資本主義諸国が、おおむねソ連邦解体後に台頭・参入してきた後発資本主義諸国に対抗していくための戦術マニュアル―それは先発国の後を追う新興国自身にも適用される―こそ新自由主義の綱領なのだ。
 こうした新自由主義戦略も、1990年代半ば頃から世紀をまたいですでに四半世紀近い歴史を刻んでいるので、そろそろ「新」の形容を外し、資本企業の経済活動の自由を至上価値として最優先せんとするその実態に即して「資本至上主義」と改称すべき時期であろう。

「資本主義暴走論」の陥穽
 以上のようにみるならば、グローバル資本主義の展開を「暴走」という言葉でくくるのはいささか問題である。資本主義の「暴走」を強調する論者は、我々が現在見せられているようなものとはもっと別の、言わば「人間の顔をした資本主義」が存在し得るのだと信じたがっているように見える。
 おそらくそこで想定されているのは、先に述べたような労働者階級の生活にも配慮する修正された資本主義の姿なのであろう。それはたしかに冷戦期の資本主義の一つの姿ではあった。しかし修正された資本主義とは、資本主義が革命の脅威をまだ現実に感じていた頃に自己防衛策として取っていた、言わば厚化粧した資本主義の姿であったのだ。今、状況が変わり、厚化粧の必要がなくなったと認識した資本主義は、その素顔―貨幣の顔―をさらし始めたのである。
 このような現実を直視することなしに、厚化粧していた頃の資本主義へのノスタルジーに浸っているとかえって陥穽に落ち込むことがある。その重大な例が労働市場の規制緩和問題である。
 資本至上主義のプログラムとして実行されてきた労働法制の規制緩和、とりわけ派遣労働などのいわゆる非正規労働の拡大が労働者間の所得格差を拡大し、貧困をも招いているとして、再び労働者の地位を安定化させるために規制を再強化せよとの―それとしては正論的な―主張がある。
 しかし、資本企業が人件費を節約すること、すなわち「搾取」することは資本企業経営のまさに要諦であるところ、その要求に対応する最も端的な策が労働法規制の緩和であるが、この規制を再強化するならば、資本企業としてはさしあたり労働力の正規化・準正規化を進めつつ、労働者数を絞り込む戦術に出るであろう。それは当然にも高失業の定在化をもたらすが、このようなことはかねて非正規雇用に対する規制の強い諸国では実際に起きてきたことである。
 そればかりでなく、経済界は非正規雇用規制強化の法的代償として、正規労働者の労働基準、特に解雇規制条項の緩和を要求し、それが受け入れられなければ資本企業としては労働法規制が甘く、賃金水準の低い海外へ生産拠点を移す国内産業空洞化作戦に出るであろう。
 いずれにせよ、労働市場の規制強化は雇用創出という観点からは逆効果の危険を孕んでいる。それを考えると、資本至上主義を道義的にのみ非難し、その撤回を要求する修正資本主義の考え方は、資本主義の本性を甘く見積もりすぎているように思えてならない。資本主義をソ連邦解体以前の冷戦期の懐かしい姿に押し戻そうとするような歴史の歯車の逆回転は不可能なのである。

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共産論(連載第3回)

2019-01-05 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(1)資本主義は勝利していない(続)

◇ソ連型社会主義の失敗
 それにしても、ソ連型社会主義はなぜ失敗したのであろうか。最も中心的な原因は、国家による経済計画が効果的に機能しなかったことである。国家計画機関による計画とは行政官僚たる計画官僚による机上プランであったから、生産現場の感覚を離れ、「西側―わけても米国―に追いつき追い越せ!」との共産党指導部の号令に押された無理難題となりがちであった。
 より根源的には、商品‐貨幣経済を廃止しないままに計画経済を導入していたことが問題であった。貨幣は本性上計画になじまないアナーキーなモノであって、いかなる机上プランをもってしても物と金の流れを秩序正しく規制することなど果たせぬ夢であったのだ。ソ連の計画経済はしょせん欠陥のある統制経済の域を出ないものであった。逆に言えば、真の計画経済は商品‐貨幣経済を廃止してはじめて意義を帯び、有効に機能したであろう。
 加えてソ連では工業化と軍備増強を急ぐあまり、重工業・軍需産業傾斜政策が採られたことから、民生に関わる消費財の生産体制に立ち遅れがあり、西側でしばしば揶揄された商店の空の棚に象徴される品不足が恒常化し、批判的論者から「不足経済」の名を冠せられた。そのうえ品薄の消費財の質も粗悪であった。
 こうした事情から、ソ連の「発達した社会主義社会」では西側の資本主義社会と比べて消費生活の貧困を招き、大衆の不満を鬱積させていた。

◇資本主義の「勝利」と「未勝利」
 
資本主義が勝利したと称する相手方とは、実は以上のような実態を伴う集産主義であったのである。たしかに、このことは認めてよいであろう。特に消費生活の豊かさは、資本主義が最も華々しい勝利を収めたフィールドであったと言える。
 ただし、この「勝利」も留保付きのものである。おそらく戦後日本が好例であろうが、資本主義諸国も決して市場経済を野放しにしていたわけではなく、国家による経済介入によって市場を管理する仕組みも備えてきたし、部分的には国有企業も備えていた。
 またソ連モデルとの対比でしばしば理想化されてきたスウェーデン・モデルに象徴されるように、資本主義経済の枠内で労働法制と社会保障制度を整備して労働者階級の生活を支え、労使協調をもたらす福祉国家の仕組みも、程度の差はあれ資本主義諸国で発達してきた。自由放任経済体制をタテマエとする資本主義総本山・米国でさえ、1930年代の大恐慌に対応するためのニュー・ディール政策以来、同様の方向を採ってきたのであった。
 このように、資本主義の側から社会主義へにじり寄るような資本主義原理の修正も、「勝利」をもたらす大きな要因となったのである。
 しかし、資本主義がまだ勝利していない相手、それがかの共産主義である。勝利していないのはもちろん、共産主義に敗北したからではない。真の共産主義はまだ一度も本格的に試みられたことがないからである。それは資本主義にとっていまだ未知のライバルだと言ってよいであろう。ただ、この得体の知れない未知のものについて語り始める前に、「勝利」した資本主義の現況について概観しておく必要がある。

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共産論(連載第2回)

2019-01-04 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

ソヴィエト連邦解体以降、「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。しかし、ソ連邦解体から時を経た現在、資本主義は大きな限界を露呈しつつある。その限界とは?


(1)資本主義は勝利していない

◇ソ連邦解体の意味
 
東西冷戦の終結に続く1991年のソ連邦解体以降、国際世論においても国内世論においても、とかく「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。要するに、米国を総本山とする「西側」の資本主義に対抗していたソ連の終焉と旧ソ連圏の資本主義への合流は、資本主義が「東側」の盟主ソ連が体現していたような「共産主義」に打ち勝ったことの証しなのだ、と。
  しかし、このような後知恵的思考の不当さはさておくとしても、それではあまりにも粗雑な即断である。そもそもソ連がまだ健在だった時代からある「ソ連=共産主義」という図式が正しくないからである。
 たしかにソ連はほぼその全史を通じて共産党が支配政党として統治していたことは事実であるが、支配政党が共産党であったからその社会体制も共産主義であったと断ずるのは早計である。そもそもソ連邦の正式国名は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(下線筆者)であって、「共産主義」を名乗っていなかったという事実をあっさり無視してはならない。
 実際、ロシア10月革命60周年の節目に制定され、ソ連型社会主義憲法の集大成と目された1977年憲法を見ても、その前文では当時のソ連社会を「発達した社会主義社会」と規定したうえで、「発達した社会主義社会は、共産主義への道における法則にかなった段階である」という命題を掲げていた。そして「ソヴィエト国家の最高の目的は社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設である」とする国家目的を明示し、共産主義社会の建設を将来の到達点として位置づけていたのである。
  しかし、この共産主義の規定は当時すでに空文と化しており、ついに実現を見ないまま1985年に登場した「改革派」ゴルバチョフ書記長(後に大統領)の下で、共産主義社会の建設という国家目的は放棄され、国営企業の独立採算制移行や私的営業の容認など市場経済的要素の導入を通じて資本主義へにじり寄っていく。
 こうしたゴルバチョフ「改革」は、西側の資本主義陣営からは当然にも歓迎されたが、その中途半端さのゆえにソ連国内ではかえって消費財不足などの経済危機を深刻化させ、ソ連の大衆生活を圧迫し、不満を高めた。
 そうした大衆の不満をも背景に、ソ連邦解体の危機をみてとった「保守派」党幹部らが1991年8月、ゴルバチョフ政権の転覆を狙ったクーデターを断行したが、この企ては「急進改革派」エリツィンとモスクワ市民の抵抗によって3日で挫折させられた。エリツィンらは返す刀で今度はゴルバチョフを実質的に失権させ、1991年12月にソ連邦の最終的な解体を主導した。
 こうしてソ連邦の仮面を脱いだロシアでは、新指導者エリツィンの下、ほとんどアナーキーな市場経済化の荒療治がもたらした経済的大混乱を経て、エリツィンを継いだプーチン大統領の権威主義的な指導の下、国家の指導性の強い新興資本主義国家として、一応の安定化が実現したのである。
 こうしてみると、資本主義が勝利したと吹聴する相手方とは「共産主義」ではなく、ソ連型社会主義―旧ソ連自身の公称によれば「発達した社会主義」―であったというのが正確なのである。
 ではソ連型社会主義とはいったいどのようなものであり、それはなぜ失敗したのであろうか。この問いはそれを解明するだけで何巻分もの書籍を要するような大テーマであるから、ここで詳論することはできないが、本書のテーマにも関連してくる限りで概観しておきたい。

◇ソ連型社会主義の実像
 
まず、ソ連型社会主義とは何であったかを簡明にまとめれば、それは国家が私企業を排除して自ら総資本家となり、国有企業体を通じて上からの経済開発を推進していくというものであった。 
 ただ、その国家を共産党が政権交代を伴わずに統治するといういわゆる一党独裁制が採用されたために「ソ連社会=共産主義」という定式が普及することとなったのだが、その実態は共産主義ではなく、「集産主義」(collectivism)と呼ぶべきものであった。(※) 
 集産主義とは要するに、資本を国家に集中したうえに、国家(国家計画機関)が立案する経済計画に従って生産・流通・消費・再生産を回していくというものであるから、一面では「国家資本主義」とみなすことも不可能ではない。
  実際、この体制の下では資本主義の主要素である商品生産と賃労働とがれっきとして存続していたのであるから、それは資本主義と完全に決別した体制ではなかったのである。
 もっとも、集産主義体制は私企業を禁圧することを通じて生産手段の国有化を実現していた限りでは擬似共産主義的な性格も帯びており、要するに資本主義でも共産主義でもない中間的な「社会主義」の名を冠することにもそれなりの理由はあるわけであるが、資本主義とは単に法的な私企業の自由だけを意味するにとどまらず、商品生産と賃労働という生産および労働の様式に関わるものであるから、そうした様式をなお存置していたソ連型社会主義=集産主義を純経済的に見たときには、「もう一つの資本主義」であったと言うことも論理上十分可能なのである。
 ここから中国の器用な経済的路線転換の成功を説明することができるかもしれない。中国では1949年の建国後、当初は共産党の指導の下、ソ連式の社会主義体制が採用されたが成功せず、ソ連のゴルバチョフ改革に先立つこと十年近く以前に、資本主義を意識した「改革開放」へ踏み切り、ソ連邦解体以降はこうした共産党の指導の下での資本主義化を「社会主義市場経済」と規定していっそう強力に推進し、事実上の新興資本主義国として急成長を遂げたのであった。
 このような中国の路線転換は、ソ連の失敗と対比してしばしば奇跡とも評されるが、実のところ、ソ連型社会主義=集産主義の実質が先述のように「もう一つの資本主義」であったとするならば、中国式「社会主義市場経済」(=共産党が指導する資本主義)とは、集産主義の一つの脱構築的な「改革」方向であったとも言えるのである。
 実はソ連においても、すでに1960年代から経済管理の分権化や利潤率指標の重視などを軸とする市場経済を意識した経済改革の波はあり、西側資本との合弁事業も開始されるなど、社会主義と資本主義の収斂化(コンバージェンス)と呼ばれる現象は始まっていたのであるが、ソ連では中国ほどには市場経済化を徹底できないまま、体制そのものが終焉したのであった。

※改訂第二版までは、ソ連型社会主義の特質を「国家社会主義」と総括してきたが、この用語はソ連と対立的だったドイツのナチズムの訳として普及してきたことと紛らわしくなるので、本版からは「集産主義」に変更する。ただし、ナチズム( Nationalsozialismus )とは、国家を超えた民族共同体の建設を呼号するアーリア民族主義に重点のある全体主義ファシズムの亜種であるので、「民族社会主義」と訳すのが最も正確であると考える。

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共産論(連載第1回)

2019-01-03 | 〆共産論[増訂版]

増訂版まえがき

 当連載増訂版は、2016年から17年にかけて連載した改訂第二版を踏まえ、その後の筆者の考えの進展を反映した最新版である。とりわけ教育制度について扱った第6章、新しい革命運動及びそのプロセスについて扱った第8章及び第9章では、重要な改訂が加えられる。
 その余の部分に関しても、必要に応じて表現や用語が訂正・補充等された結果、ページ数が増えたことから、増訂版となったが、大筋では改訂第二版を踏まえているため、以下、参考までに改訂第二版まえがきを再掲することにする。

改訂第二版まえがき

 
2011年に開始した『共産論』の初版から数えて今回で計三度目の連載となる。この間、2008年に世界を襲った同時不況は大恐慌への突入を回避し、資本主義経済はさしあたり破局を免れたかに見えるが、その後も安定成長軌道に乗ったとは言えず、一国の政治経済情勢が世界経済動向に波及する不安定な状態が続いている。
 すでに爛熟状態の資本主義先発国経済の成長が限界を示す中、「社会主義市場経済」の道を驀進してきた頼みの中国を筆頭とする新興国経済の成長が鈍化してきており、市場経済総体が限界に直面している。そうした大状況の中、先発諸国においても生活難―豊かさの中の貧困―の現象が広がりを見せる一方で、世界の富のおよそ半分が1パーセントの富豪に集中するという前近代・封建時代でも見られなかったような天文学的スケールでの富の偏在も広がっている。
 それに加えて、これまで国民を保護するとしてきた国家の機能がいまだかつてないほど不全化し、難民として流出する人は戦後最多を記録、国家の機能がなお比較的維持されている諸国においても、積年の財政難や国内経済の成長鈍化、世界経済の不安定化に対応して緊縮財政に走り、生活を支える社会サービスの縮減が全般的な傾向となっている。
 改訂第2版はそのような政治経済状況下での連載となるが、初版以来の全体の基本線に大きな変更はない。ただし、司法論(第4章)と教育論(第6章)に関しては、この間に生じた筆者の考えの進展を反映して、相当な記述の改訂が加えられるであろう。その他、細かな点での記述・用語の補訂・加筆が行なわれる予定である。

 

序文

 共産主義とは何か。
 この言葉にまつわる一切の偏見も過去の教条も捨てつつ、おおまかにとらえれば、それは貨幣と国家のない世界をめざす革命的プロジェクトであると言える。
 こう聞けば、原始社会へ逆戻りするのか?!とおおかたの人は驚かれるかもしれない。それに対する答えは半分イエス、半分ノーである。
 たしかに、貨幣も国家もない状態は人類的な原点回帰である。しかし本連載が提示しようとする共産主義とは文明のない原始共産主義ではなく、文明化された「現代的/未来的共産主義」である。
 同時に、それは資本主義的文明化の到達点である工業化・情報化の歪みを根底から矯正し、生態学的に持続可能で、人々の生活にあまねく資するようなものに変革していくことを目指すプロジェクトなのである。
 それでも、と問われるかもしれない。貨幣も国家もないのでは我々はいったいどのようにして生きていけるのだろうか、と。しかし、生活に即してリアルに考えてみたい。
 もしあなたが何をしようにも頭金=資本を必要とする世界―これが資本主義の最も簡潔な定義である―の中で、日々のやりくりに苦労している生活者ならば、貨幣なしに必要な物やサービスが取得できたらどんなによいことかとは思わないであろうか。
 またあなたが税金を収奪する国家に巣食う政治家や役人に苦しめられ、あるいはうんざりしている国民であれば、国家なる伏魔殿が消えてなくなってくれればどんなによいことかとは思わないだろうか。
 否、自分は人一倍の努力をし高収入を稼ぎ、高額の資産を保有しているので資本主義で結構という方もおられよう。それは立派なことであるが、しかし大規模な経済危機や突発的に生じた不幸な個人的事情から全収入・資産を失ってしまったら?そういう時こそ、国家の生活保護が頼りであるから、やはり国家は必要なのか?しかし、国家も財政破綻して財源が底をついてしまったら?
 このように考えていくと、資本主義経済とは富者にとっても「不安の経済」だと言えないであろうか。
 それはわかるが、共産主義の総本山ソヴィエト連邦の解体・消滅(1991年)によって「共産主義の失敗」は実証済みのはずであり、どんなに苦しくとも市場経済・資本主義以外に最適な道はないのではないか、というある種の諦念も世界をなお覆っているように見える。
 しかし、2008年の世界大不況、そしてその後の先行き楽観を許さない不安定で予測不能な世界経済情勢、さらに資本主義のグローバル化に伴ってますます悪化する地球環境は、資本主義の限界をはっきりと露呈させる事象ではないだろうか。
 なお、勉強家は、如上の共産主義の定義ではアナーキズムと重なるのではないか、とういう疑問を持たれるかもしれない。しかし、コミュニズムとアナーキズムは対立しないが、明確な一線が引かれる。
 こうした問題意識を持ちながら、まずは先入観なしに筆者と共に「現代的共産主義」の可能性を探求する旅に出ていただけたら幸いである。

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