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共産論(連載第18回)

2019-03-16 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(3)純粋自発労働制は可能か

◇人類学的問い
 前節では労働の義務化を前提とする議論を展開したが、本来の共産主義的理想から言えば、労働は義務化せず、完全に自発的な無償労働のシステムを構築できればそれに越したことはない。
 果たして未来の発達した共産主義社会―資本主義を知らない世代が人口の大半を占めるに至った状況―では、そうした純粋自発労働制が確立されるであろうか。仮に完全無償の純粋自発労働制を地球規模で確立できれば、それは人類という種にとって新たな進化の段階を迎えたことを意味するのかもしれない。
 現時点での一般常識的な労働観によれば、人間は何らかのインセンティブもしくは制裁―生活できなくなるという事実上の制裁も含めて―なくしては労働しようとしないだろうと言われている。これに対して、精神分析学者エーリッヒ・フロムは物質的な刺激だけが労働に対する刺激なのではなく、自負、社会的に認められること、働くこと自体の喜びといった刺激もあることを明言し、人は仕事なしには狂ってしまうだろうと論じている。
 いったいどちらが真理なのであろうか。おそらく真理は両論の交差するあたりにあるに違いない。

◇3K労働の義務?
 フロムが指摘する自負、社会的認知、労働自体の喜びを確実にもたらしてくれるようないわゆる人気職種は、たとえ物質的な報酬なしでも余りある充足感を得られるため、純粋自発労働制の下でも相変わらず人気を保ち、人手不足の心配はまずないであろう。
 それに対して、一般に不人気ないわゆる3K職種はどうであろうか。こうした職種はやはり物質的な刺激、つまり報酬なくしては深刻な人手不足を引き起こすのであろうか。
 一つの仮説として、社会的認知度が低く、労働自体の喜びをもたらさないような仕事であってもそれに従事している当人たちは自負や使命感をもって仕事をしているということも考えられる。そうだとすると、純粋自発労働制の下でもそうした3K仕事はなお人を引き寄せ、深刻な人手不足には陥らないとも予測できる。しかし、これは楽観的にすぎる予測かもしれない。
 そもそも現代資本主義は人がやりたがらない仕事を特定の者―たいていは低学歴者や失業者、外国人労働者―に押し付ける構造を持っている。例えば清掃や建設労働、工場での危険な作業、介護等々である。もしも純粋自発労働制の下でこうした分野での人手不足が決定的になれば、我々が資本主義の下で平然と黙認していた3K仕事押し付けの構造がくっきりとあぶり出されてくることになる。
 考えてみれば、3K仕事ほど社会を維持していくうえで不可欠のものが多い。そうした公共性の高い仕事を特定の層に押し付けるのは現代型奴隷制と呼んでもさしつかえなく、道徳的にも正当化できるものではない。
 すると、発達した共産主義社会の純粋自発労働制の下でも、そうした公共性の高い3K仕事は通常の労働の枠から外し、全社会成員の義務として課せられることになるかもしれない。これはあまり嬉しくない報せであろうが。

◇職業創造の自由
 
 しかし朗報もある。それは、純粋自発労働制の下では各人が自ら新たな職を創造できる可能性が広がるだろうということである。
 現在でも「自称」の職業は多々あるが、それだけで生計が成り立つものは極めて少なく、我々はしょせん既成の職業のいずれかに自分をあてはめることしかできない。それも大部分は賃労働者、わけても株式会社の従業員たる「会社員」以外になかなか選択の余地がないのが現実である。これが、資本主義が誇る「職業選択の自由」の真実である。
 これに対して、共産主義社会では生計のための収入を得られる職業に就かねばならないという至上命令から解放されることが、職業創造の可能性を押し開くのである。こうした職業創造は「生まれたばかりの共産主義社会」でやむを得ず労働が義務とされている間でも、労働時間が大幅に短縮され、副業に就く余地が広がることによって可能となるだろう。
 こうして、そもそも職業の概念が革命的に変わる。資本主義の下での職業とは生計を立てるために報酬を得て反復継続する仕事のことであるが、共産主義社会における職業とは自らが「職業」とみなして現に従事している合法的な仕事一切を意味することになる。
 一般の常識・通念に反して、実に資本主義こそは大多数の人間をあの賃奴に押し込めてしまう、歴史上最も画一的な社会システムだったのだ、という事実に人々はいずれ気がつくであろう。

◇超ロボット化社会  
 もう一つ、朗報を付け加えておこう。それは、共産主義社会は労働のロボット化を最高度に推し進めるだろうということである。  
 このような超ロボット化は、資本主義社会では大量失業を招きかねない悲報として受け止められるかもしれない。実際、産業革命期に機械の導入により職を失うおそれのあった職人や労働者が機械打ち壊し行動に出たラッダイト運動ならぬ反ロボット化運動が起きてもおかしくない。  
 資本主義社会では人件費を極限節約したい資本家・経営者にとって都合のよい手段でしかない超ロボット化も、純粋自発労働制の共産主義社会では、労働時間を短縮しつつ、必要な生産力を確保するための技術的な切り札として、大いに推進されるはずである。
 とりわけ、3K仕事に多い単純労働の相当部分をロボット作業で代替することができれば、3K労働の義務化という悲報は聞かなくてすむし、複雑労働のロボット化まで進めば、人間は労働からいっそう解放されることになる。  
 ただ、そうした複雑労働までこなせる次世代的人工知能内蔵ロボットの開発には多額のコストを要するところ、これも貨幣経済によらない共産主義社会であれば、金銭的コストに制約されず、青天井で技術開発を推進することができるのである。


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