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共産論(連載第8回)

2019-02-14 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

共産主義社会ではおよそ商品生産が廃止される。その結果、我々の生活はどう変わるのか。また共産主義社会における生産活動はどのように行われるのか。


(1)商品生産はなされない

◇利潤追求より社会的協力
 マルクスは有名な『資本論』第一巻の書き出しで、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一個の「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品はその富の基本形態として現れる」と資本主義社会の特質を的確に描写している。
 たしかに、資本主義社会の主役は人間でなく、商品である。周知のとおり、おにぎりからケータイ、クルマ、住宅に電気、水道、ガス、さらには医療、福祉、果ては性に至るまで、ありとあらゆる財・サービスが商品として生産され、販売され、人間は商品に大きく依存して生きているのが資本主義社会の現実である。
 これに対して、共産主義社会ではこのような商品としての財・サービスの生産がなされないのである。なぜか。それは、前章で先取りして述べたように、共産主義とは社会的協力すなわち助け合いの社会だからである。
 商品という形態での財・サービスの生産は、第一義的には商品を生産する資本家がそれらを販売して貨幣に変え、富を蓄積するために行われているのであって、その実践は本質的に商業活動である。
 もっとも、商業活動の内にも助け合いという要素は認められる。例えば自動車を生産・販売する資本家は自動車を欲している他者のために生産・販売しているのであり、自動車部品を製造・納入する資本家は自動車生産に不可欠な部品を自動車生産資本家のために製造・納入している。一方、これらの資本家の下で働く労働者は資本家のために労務を提供し、見返りに資本家は賃金を支払って労働者の生活を支えているはず―近年は怪しくなってはいるが―である。
 とはいえ、資本主義的な生産サイクルの中では日頃、こうした利他的相互扶助の関係はほとんど意識に上らず、ただそのサイクルを流れる商品と貨幣のことだけが意識されているのである。言い換えれば、資本主義社会とは、第一義的に利潤追求=金儲けの社会であって、ようやく第二義として社会的協力=助け合いの要素が現れるという特徴を持っている。
 してみると、共産主義社会とは資本主義社会にあっては第二義的でしかない社会的協力という要素を表に引っ張り出してくるだけのことだとも言える。その結果、どういうことが起こるだろうか。

◇無償供給の社会
 一番重要な変化は、あらゆる財・サービスが商品ではなく、「モノ自体」として生産・供給される結果、それらがすべて無償で、つまりタダで取得できるようになることである。
 このことは、現代人にとっては一つの文化革命と呼ぶに値する激変であろう。おにぎり一個の取得にすら交換手段としての貨幣を必要とする我々は、あらゆるモノをタダで取得できることに後ろめたさをすら覚えるかもしれない。
 冷静な人ならば、そうなると財・サービスの供給が統制的な配給制になるのではないかという懸念を持つかもしれない。たしかに日常必需的な消費財に関しては、後で再び論じるように、独り占めや需要者殺到を防ぐために取得数量の制限をする必要があり、その限りで一種の配給制的なシステムとなるであろう。
 しかし、資本主義の下においても、需要の急増により品薄が生じた場合には取得数量を制限するなど、在庫切れを防止するための対策を講じる必要がある。従って、このでは相対的な違いにすぎないと言えよう。
 一方で、例えばマイカーのような物になると、共産主義の下では画一的な量産体制から需要者による個別的な注文生産の形に変わり、需要者の好みの型や色、デザインに応じた職人的な生産方式が可能となるであろう。
 それに対して各種事業所や交通機関などの業務に供せられる事業用自動車については、後述する経済計画に従い量産体制が採られつつ、やはり無償で納入・更新されていく。同じことは、例えば自動車生産工場で使われる機械設備のような生産財の生産・供給についても妥当する。

◇文明史的問い
 このように、共産主義的生産体制の下では、生産される財・サービスからその商品形態が剥ぎ取られ、およそ貨幣交換に供せられることがなくなるため―部分的には個人間での物々交換の慣習は残存するであろうが―、商取引が消失し、商業活動全般が(原則的に)廃される。その代わりに、言わば「巨大な社会的協力」のシステムが立ち現れるのである。
 ここで、一つの文明史的疑問が提起されるかもしれない。すなわち商取引は資本主義以前の先史時代から人類が営々と継続してきた活動であるのに、それを人為的に全廃してしまうことなど可能であろうか、と。
 おそらく、これはマルクスよりもブローデルが提起した資本主義の文明史的基層を成す「物質文明」という視座に関わる問いであろう。本論考でこの遠大な問いに正面から取り組む余裕はないが、一つ言えるのは、ここでもやはり生態学的持続可能性という人類社会の存立条件を巡る基本的認識が、この問いに対する回答を左右するであろうということである。
 資本主義に象徴されているのは、富を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ社会である。そのような社会では、もっと所有すること(having-more)、すなわち贅沢が理想の生活となる。しかし、このような社会は、環境的持続可能性とはもはや両立しないことは明白である。
 それに対して、もっと所有することや贅沢ではなく、よりよく在ること(being-better)、すなわち充足が理想の生活となる社会があり得る。もっとも、そのような社会にあっても人間社会を維持していくためには物質的生産活動は不可欠であるから、物質文明が完全に放棄されるようなことはあるまい。とはいえ、来たるべき新たな物質文明はもはや富の追求を第一義とするようなものではなくなるであろう。


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