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共産論(連載第20回)

2019-03-22 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(5)「男女平等」は過去のスローガンとなる

◇男女格差の要因
 前回、家族の問題に言及したついでに、それと深く関連するいわゆるジェンダー問題にも触れておきたい。
 資本主義世界にほぼ共通する現象として、根強い男女間の賃金格差があることはよく知られている。理念としては「男女平等」が叫ばれる中で、それはなぜなのか。
 一つの伝統的な仮説として、家父長制的男性支配の残存を指摘するフェミニズムの理論がある。しかし、この見解は核家族化が進んだ資本主義諸国にはあてはまらなくなりつつある。核家族に「家父長」は存在しないからである。もっとも、資本企業のような生産組織内では依然として社長=家父長制のようなものが残存している可能性は排除できない。
 だがそれ以上に、資本主義が婚姻家族に労働力再生産機能を期待している限り、女=妻は“産む機械”であらねばならず、女は資本企業で男と「平等」に働くよりも、家庭に入り母として次世代労働力の生産(出産・育児)に専念することが依然として要請されているからであると説明する方が真相に近そうである。
 女性労働者は一部の例外者を除き、結婚または出産退職が予定された期間限定労働力であるか、もしくは主婦の副業たるパート労働力としての処遇となるため、男女間の賃金格差も縮小しないわけである。
 今日の“洗練された”資本主義は「男女平等」を観念としては受け入れているはずであるのに、現実には男性支配が固守されているのも、こうした資本の論理のなせるわざであると考えられる。

◇共産主義とジェンダー
 これに対して、共産主義社会では賃労働制が廃止されるから男女間の賃金格差という「問題」自体があり得ないということは別としても、共産主義はもはや婚姻家族というものに期待を寄せないのだから、女に“産む機械”としての役割を期待することもない。子を持つかどうかは、配偶者間もしくはパートナー間の人生設計上の問題であるにすぎない。
 特に公証パートナーシップの関係にあっては、夫/妻というような役割規定性さえも消失し、生計を共にする伴侶同士というだけの関係であるから、夫と子に奉仕する「専業主婦」も存在しない。従って、例えば男性パートナーMが午前中に4時間働きに出て、彼が帰宅した後、今度は女性パートナーFが午後から4時間働きに出るといった生活パターンも例外ではなくなるであろう。この場合、MとFの間に未成年子Cがいれば、MとFが交代で育児をすることもできるであろう。
 共産主義社会では、「男女平等」といったスローガンも、まだそれが虚しいうたい文句にすぎなかった時代の古典として懐古されるであろう。しかし、懐疑的なフェミニストであればこう問うかもしれない。共産主義社会にあっても、企業や団体の幹部職は依然男性優位というような社会的地位の男女格差は残存するのではないか、と。
 たしかに、この問いに現時点で明確な回答を出すことはできない。それは、先にも示唆したように、現代資本主義社会の内部に残存しているかもしれない家父長制的遺風を共産主義が一掃できるかどうかにかかっていると言うほかない。
 ただ、資本主義世界の男性が狂奔してきた貨幣獲得‐利潤追求という大目標が完全に消失する共産主義社会にあっては、男性の意識の持ち方も変容し、企業活動とは別のところに自己の道を見出そうとする男性が増えるかもしれない。このような男性的価値観の転換は、社会的地位における男女格差を解消する可能性を促進すると考えられる。


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