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共産論(連載第14回)

2019-03-02 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(6)エネルギー大革命が実現する

◇新エネルギー体系
 共産主義的環境計画経済は、生産活動を支えるエネルギー供給のあり方にも大きな変革をもたらすであろう。
 持続可能的計画経済は、エネルギーの面から見れば、「低エネルギーの経済」を実現するから、産業革命以来の資本主義的生産体制を支えてきた化石燃料、とりわけ石油燃料への依存度を大胆に減少させることは確実である。それに代わって、再生可能エネルギーを主軸とする新しいエネルギー体系が構築される。
 再生可能エネルギー導入の促進という課題自体は、地球温暖化問題を背景として従来から叫ばれてはいるものの、自然エネルギーなどの再生可能エネルギーだけでは資本主義的な大量生産‐大量流通‐大量廃棄のサイクルをまかなう高エネルギー需要に対応し切れないことや、再生可能エネルギーの技術開発・実用化には相当なコストを要するなどの事情から、資本主義の下ではスローガンに終わりがちである。
 しかし、本質的に低エネルギー経済である共産主義経済においては、再生可能エネルギーの利用が大幅に促進されるであろう。そして貨幣経済の廃止は、再生可能エネルギーの技術開発・実用化に伴うコストという「問題」―要するにカネの問題―自体を消失させる。
 以上のようなエネルギー革命は、前節で触れたトランスナショナルな次元での持続可能な天然資源の管理体制が整備されることと相まって世界的規模で推進されるであろう。
 こうしたエネルギー体系に関する変革に相伴って、コジェネレーションのような新しいエネルギー供給システムの開発・革新が資本主義の下におけるよりも一層進展するであろう。
 この点に関して、共産主義では資本主義が誇る技術革新が停滞するとの批判もよく聞かれるが、資本主義的技術革新は専ら生産性向上のための技術開発に偏向しており、その中には環境的に有害な結果をもたらすものも少なくない。それに対して、共産主義的技術革新は、新エネルギー技術に代表されるような環境技術の点ではむしろ資本主義よりも顕著な進展を見せると考えられるのである。

◇「原発ルネサンス」批判
 ここでエネルギー問題を考えるうえで避けて通ることのできない大問題、原子力発電(原発)について触れておかねばならない。
 近年、地球温暖化問題を背景としつつ、「二酸化炭素を出さない発電手段」として原発の意義が見直され、旧ソ連末期のチェルノブイリ原発大事故(1986年)以来停滞していた原発の新設・増設計画が世界的に蘇生する「原発ルネサンス」と呼ばれる現象が生じていたところへ、「原発安全神話」に包まれていた日本で福島原発大事故(2011年)が発生し、「ルネサンス」は打撃を受けたかに見えた。
 しかし、チェルノブイリがそうであったように、フクシマも時の経過とともに風化し、「ルネサンス」が蘇ってくる兆しも見え始めている。その際には、安全対策・技術の進展が口実とされる。
 だが、いかに技術革新が進展しようと、安全性に100%の保証はない。そのことをまざまざと世界に思い知らせたのが、地震・津波に起因する福島原発大事故であった。仮に大事故に至らなくとも、重大故障のつど炉を停止させ、厳重な点検の後、地元住民の了解を得なければ運転再開できない原発は、電力の安定的・継続的供給という視点から見ても、決して効率的とは言えない。
 第二に、核廃棄物等の処理・処分問題である。原発が排出する種々の放射性物質の安定化にはほとんど歴史的な時間を要するものも少なくない。また使用済み燃料の再処理で排出されるプルトニウムは発ガン性が高く、極めて長期にわたって生態系に悪影響を及ぼすとされる。ウランにプルトニウムを混ぜたMOX燃料(混合酸化燃料)を再利用するという方策(いわゆるプルサーマル)も、コストがかさむわりにプルトニウムを減じる効果は高くないとの批判がある。
 第三は、プルトニウムの軍事的利用の危険である。特に、好戦的な核兵器保有国や核兵器開発への野心を持つ諸国への原発の拡散はこの危険を増し、最悪の場合、核物質が闇市場を通じて麻薬カルテルなどの犯罪組織を含む民間武装組織や個人にすら流れる「核の私物化」という恐るべき事態も決して杞憂ではない。
 第四に、計画経済という観点からすれば、電力需要に応じたきめ細かな電気出力調整がしづらいという原発の特質は、計画経済に適していない―逆に、大量出力はたやすいので大量生産型の資本主義的エネルギー源としては適しているのであろう―ことも挙げられる。

◇「廃原発」への道
 とはいえ、本質的に高エネルギーの資本主義的生産様式を維持する限り、再生可能エネルギーだけでは必要な電力供給をまかない切れず、かつ二酸化炭素排出量の多い火力発電にも依存できないとなれば、原発への傾斜が生じることには必然性があり、原発問題も生産様式と無関係に論ずることはできない。
 もし我々が本気で「脱原発」を越えて「廃原発」を考えるのであれば、資本主義とはきっぱり決別する覚悟を決める必要がある。そして低エネルギーの共産主義的生産様式へ移行すれば、再生可能エネルギーや天然ガス、そして最小限の火力発電によって全生産活動をまかなうことができるだろう。
 仮にまかない切れないとしても、全生産活動を原子力以外の発電手段によってまかなうことのできる範囲内におさめなければならない。なぜなら資本主義的市場経済の下では生産活動の単なる手段にすぎないエネルギーも、生態学的に持続可能な共産主義的計画経済の下ではそれ自体が生産活動の規定条件となるからである。
 かくして共産主義こそが「廃原発」への道なのであるが、すでに世界中に原発が拡散してしまっているからには、その道は地球規模での「脱原発計画」を通じて不断に開拓されていかざるを得ない。
 そのためには「世界脱原子力監視機関」といったトランスナショナルな機関を設立して全世界的な規模で「脱原発計画」を策定・実行していく必要があるが、これもまた、最終章で見るような「世界共同体」の創設にかかってくることである。


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