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人類史概略(連載第15回)

2013-10-30 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

資本制誕生前夜
 マルクスは、封建社会の経済構造の解体が資本主義社会の経済構造の諸要素を解き放した、といささか形式的な命題を立てているが、実際のところ、西洋でも封建制の解体から資本制の誕生までの間には相応のタイムラグがある。
 マルクスによると、資本主義が最も早くから発達したのはイタリアだとされるが、それは農奴制解体と農奴の都市労働者化が比較的早くから進んだ限りでのことであって、イタリアの資本主義的経済発展はかなり遅れた。
 むしろ資本制を準備したのは、ポルトガル、スペインが切り拓いた世界航路を利用して台頭したフランス、イギリス、オランダの重商主義であった。重商主義の革命性は、古代国家にせよ、封建制国家にせよ、従来国家の物質的土台がおおむね農業生産力に置かれてきたことを根本的に転換し、商業それも貿易に国家の物質的土台を置いたことにある。言わば、農本主義から商本主義への転換である。
 また重商主義は国家が商業活動を掌握し、国家に富を集中する点で、国富の蓄積の先駆けを成した。この点では、国家の経済的関与を最小限にとどめる自由主義経済体制とは異質的であって、その意味では重商主義をもって市場主義的な資本主義の直系の祖とみなすことはできないだろう。
 こうした国家主導の経済体制が可能になったのは、中央集権制の再構築が単純に国王への権力集中ではなく、政策集団としての官僚制(ないしはその萌芽としての国王顧問団)の発達を伴って行われたことの結果である。
 このような国家重商主義の中心地が先のフランス、イギリス、オランダであり、三国とも重商主義を象徴する国策会社・東インド会社を相次いで設立してこれを国家の経済的マシンとして駆使していく点では共通するが、それぞれの重商主義のあり方にはかなりの相違点があった。
 重商主義の典型例であったブルボン朝フランスでは官僚制の発達が高度に見られたが、その分、その経済的展開には官僚制特有の硬直さが見られ、初めからオランダ、イギリスには押され気味であった。
 一歩先行したのは新興国オランダであった。オランダは独立当初共和制という当時はまだ革新的な政体で始まり、王を持たない貴族寡頭制にして分権的な連邦制であり、東インド会社に対する中央政府の介入は少なく、政府の役割は支援的なものにとどまっため、ある意味では自由主義的な経済体制としてスタートした。このような柔軟さが、フランスやイギリスにも先んじて重商主義で成功を収める要因となったと言える。
 だが、最終的な勝者となるのは、イギリスであった。かの国では「イギリス絶対王政」の象徴とみなされるテューダー朝末期以降、重商主義が現れるが、イギリスでは「絶対王政」といってもフランスのような官僚制の発達は見られず、政策集団はせいぜい国王顧問団にすぎなかった。一方で、オランダのような共和制は清教徒革命後のクロムウェル独裁期に一時見られただけで、王制を基本とし、オランダほどに自由主義的ではなかった。
 こうした官僚制的ではない比較的柔軟な国家の支援的介入を伴うイギリス型重商主義は、当初オランダに遅れを取ったが、やがて強力な軍事力をもって小国オランダも大国フランスも圧倒し、首位に躍り出て、18世紀後半以降、資本制をいち早く確立するのである。
 以上の西洋的重商主義に対して、東洋では自覚的な形で重商主義を追求した体制は同時期には現れなかった。中国では遊牧国家モンゴルの支配下に置かれた元の時代、政府は交易を重視したが、間もなく農民王朝の明に取って代わり、古典的な朝貢貿易を伴いつつ農本主義的な政策がなお続いていく。
 徳川幕藩体制下の日本は「鎖国」政策により、貿易を厳しく制限する自給自足政策を取り続け、一時的に貿易拡大・商業重視の政策が現れたことはあるものの、根本的な政策転換にはつながらなかった。
 農業適地が限られた西洋に対し、農業地帯である東洋では農本主義的な国策が転換され、資本制が立ち現れるには、「近代化」を志向する人為的な社会革命を経る必要があったのである。


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