ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第50回)

2013-01-16 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ 

(2)10月革命と権力掌握

「4月テーゼ」の採択
 レーニンの「4月テーゼ」は不評であった。事実上別の党となっていたメンシェヴィキから激しい非難を浴びたのは致し方ないとしても、彼自身のボリシェヴィキ内部からも異議を唱えられたのだ。
 そうした内部異論派の急先鋒は、古参幹部の一人レフ・カーメネフであった。後にスターリンによって粛清される運命にあった彼はメンシェヴィキとエス・エルが支配的なソヴィエトに同調し、臨時政府が革命を強化する限りでこれを支持するという立場から、「4月テーゼ」に反対し、レーニンの革命論はブルジョワ革命がまだ完了していない現状で次の社会主義革命への転化を促すもので、性急すぎると批判したのだった。
 ある意味では全うなこの批判は影響力を持ち、「4月テーゼ」は4月8日の党ペテルブルク委員会では圧倒的な反対多数をもって否決されてしまった。
 しかし、レーニンはあきらめることなく党内の説得を続けた。その際、彼はカーメネフのようにブルジョワ革命は完了したとかしないとかを論じるのは古い公式にしがみつく教条主義であると反論した。ここで、レーニンはカーメネフを批判しながら、実はマルクスの「革命の孵化理論」を批判しているのである。
 そのうえで、レーニンは当時のロシアの状況はブルジョワジーが権力を掌握した限りでブルジョワ革命は終わったと言えるし、一方では「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」もソヴィエトという形である程度まで実現しているとし、革命的蜂起の機は熟していると論じたのであった。これは卵が孵化する前に、未熟卵のままひよこを取り出してしまおうというまさに彼の「早まった革命」の公式そのものであった。
 間もなく風向きがレーニンにとって有利に変わったのは、彼のいささか牽強付会な理論的説得が功を奏したというよりも、臨時政府の失政のためであった。4月18日、臨時政府のミリュコーフ外相が連合国軍に送った覚書の中で戦争継続の意思を表明し、しかも領土併合・賠償取立てをも容認する趣旨の文言が付加されていたことが明らかとなったのだ。この事実は戦争終結と無併合・無賠償の講和を望む大衆の強い反発を呼び、臨時政府発足以来初の大規模な反政府デモ(4月デモ)が発生した。
 デモ隊は「ミリュコーフ打倒!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴィエトへ!」の急進的スローガンを叫び、臨時政府への公然たる異議を唱えていた。こうした主張は、明らかにレーニンの「4月テーゼ」に沿うものであった。この追い風に乗って「4月テーゼ」は党の指導部よりも下部において浸透し始め、ついに4月24日から29日まで開催された全ロシア党協議会で圧倒的な賛成多数で採択されたのだった。
 ただし、これはあくまでも当時まだ党員数10万人に達していなかったボリシェヴィキの運動方針にすぎず、かれらがソヴィエト組織内においてはなお少数派である事実に変わりはなかった。


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