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マルクス/レーニン小伝(連載第45回)

2013-01-03 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(2)第一次ロシア革命と挫折

第一次革命のうねり
 1904年2月、帝政ロシアはかねてより極東・満州方面の権益を争ってきた日本から宣戦を布告され、日露戦争が始まった。
 この戦争は大国ロシア側に有利なはずであったが、蓋を開けてみればロシア側の連戦連敗という予想外の事態となった。反戦運動が高まりを見せる中、翌年元旦、旅順の要塞が日本軍によって落とされた。
 旅順陥落の報に接したレーニンは、「進歩的で進んだアジアが、遅れた反動的なヨーロッパに取り返しのつかない打撃を与えた」と評価し、ロシアのプロレタリアートは「専制を壊滅させた日本のブルジョワジーが果たしているこの革命的な役割」を直視すると書き記している。
 実際、前年12月からロシアの労働者らはストライキを展開し、旅順陥落後の05年1月8日にはゼネストに発展する。その中心にあったのが、ロシア正教司祭ガポンが組織した労働者団体「ペテルブルク・ロシア工場労働者会議」であった。
 この団体は元来、ロシアでもようやく現れてきた労働運動の高まりに対応して、モスクワの秘密警察部長ズバートフが考案した「警察社会主義」とも呼ばれる政策に沿って警察の資金で組織された官製労働者団体の一つであった。従って、ガポンも秘密警察のエージェントにほかならなかった。
 ところが、今やこうした国策的狙いを超えて「本物」のストに突入し、ついに1月9日にはガポンを代表者として、憲法制定会議の招集、政治的自由、8時間労働制など立憲的な要求事情を掲げた請願書を皇帝に提出するため、数万人の労働者、農民らが皇帝の宮殿である冬宮に向けて決死のデモ行進をかけるという事態となったのだ。
 これに対して、警察と軍隊は冬宮前広場でデモ隊を阻止するため発砲し、千人以上の死者を出した。このような帝政ロシア当局による前例のない流血弾圧は、この時まではまだ民衆の間に残されていた皇帝への敬愛の念を踏みにじってしまった。
 この「血の日曜日事件」は第一次ロシア革命の合図となり、以後労働者、農民、兵士、企業家ブルジョワジーに少数民族も加わった全社会的な革命的蜂起が開始されるのである。

ボリシェヴィキの主導権掌握
 騒然たる革命的状況の最中、レーニンが待ち望んでいた第三回党大会が1905年4月、ロンドンに招集された。これに先立って大会招集の阻止に失敗していたメンシェヴィキは脱落していたため、今般の大会はボリシェヴィキの独壇場であった。
 そのため、第二回党大会で採択されていたマルトフ提案による党規約第1条がレーニンの考えに従い党員資格を厳しく制限する規定に改正された。そして党中央委員会が単一の中央機関として承認された。
 こうして、ボリシェヴィキは第三回党大会を通じて党の主導権を掌握したが、用心深いレーニンはなおメンシェヴィキを完全に排除せず、再合同―もちろんボリシェヴィキ主導で―へ向けた努力は続けるのであった。
 この大会の決議事項の中で、当面する革命との関わりにおいて重要なのは、例のガポンによる社会主義諸政党に向けた協力の呼びかけに呼応し、帝政打倒・臨時政府樹立を柱とする革命行動を承認したことである。レーニンは大会に先立つ2月にジュネーブを訪問したガポンと面談して協力を約束していたのである。
 大会後、レーニンは6月に発生したロシア海軍の軍艦ポチョームキンの水兵反乱にも触発されつつ、大論文「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」を発表し、革命の結果発足するであろうブルジョワ臨時政府にプロレタリアートは参加すべきでないとするメンシェヴィキの主張に反対し、プロレタリアートはプチ・ブルジョワジーを率いてブルジョワジーを排除しつつ、自ら民主主義革命を実行し革命権力を樹立すべしとする戦略を提示した。
 この「プロレタリア民主主義」という新概念は、ブルジョワ革命を飛び越えたプロレタリア革命を想定している点で、マルクスの「革命の孵化理論」を踏まえないレーニン独自の「早まった革命」の枠組みを成すテーゼにほかならない。彼はすでに「血の日曜日」の三日後に書き上げた一論文の中で、「武装した人民だけが人民の自由の真の支柱たり得る」という簡潔なテーゼを打ち出し、武装蜂起の準備を進めていたのである。
 現実の革命は05年9月のポーツマス条約をもって日露戦争が講和に漕ぎ着けた後、10月の全国ゼネストでクライマックスに達した。ついに皇帝ニコライ2世は譲歩し、立法権を持つ国会の開設や市民的自由を認める「十月詔書」を発布して、事態の収拾を図らざるを得なくなった。これを「革命の最初の勝利」ととらえたレーニンは翌11月、5年ぶりに帰国し、首都ペテルブルクに到着した。
 しかし、レーニンがどんなに革命を急いでも当時のロシア社会民主労働者党は真っ二つに分裂しており、とうてい革命を指導することなどできる状態になかった。代わって、ペテルブルクには労働者代表の革命的自治組織ソヴィエトが初めて登場した。ここで指導力を発揮したのがトロツキーであった。
 レーニンもソヴィエトに着目し、これを臨時政府の萌芽と積極に評価したが、この組織を利用し切れるだけの準備が党側に整っていなかった。レーニンは2月、モスクワの労働者の蜂起に参加したが力及ばず、政府軍の武力鎮圧の前に敗北を喫した。
 体制側はこうした弾圧の一方で、12月に国会選挙法を公布した。しかしそれは制限・間接選挙という非民主的なもので、プロレタリアートの大半は選挙権を認められず、国会(第一国会)は自由主義的なブルジョワ系新党・立憲民主党(カデット)が多数を占めた。ボリシェヴィキとメンシェヴィキはともに選挙ボイコットで臨んだ。
 せっかくの革命とその結果を党が生かし切れないもどかしい状況の中、党の再合同・結束強化の必要性を痛感したレーニンはメンシェヴィキに改めて呼びかけ、06年4月にスウェーデンのストックホルムで開催された第四回党大会でメンシェヴィキとの再合同を実現させた。過去最大の62組織143代議員が出席した大会は代議員の過半数をメンシェヴィキ系が占めたにもかかわらず、この大会で初めてレーニンの最も有名な鉄則「民主集中制」が採択されたのである。


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