ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第52回)

2013-01-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

反転攻勢
 7月の武装デモの後、臨時政府側にも重大な変化が起きた。第一次と第二次の臨時政府を率いてきたリヴォフ首相がついに辞任し、代わって第二次政府から軍事相として軍を掌握して影響力を強めていたケレンスキーが首相に就くことになったのである。こうしてレーニン起訴の三日後の7月24日にケレンスキー首班の臨時政府が発足する。
 偶然にもケレンスキーはレーニンと同じシンビルスク生まれで、彼の父がレーニン在籍当時のシンビルスク古典中学校長であったことは、第1章でも触れた。しかも、ケレンスキーの「本業」も同じく弁護士であった。しかし同じなのはそこまでで、ケレンスキーは初めエス・エル党から分かれた穏健なトルードヴィキ所属の帝政ロシア時代の国会議員として頭角を現した。そして2月革命後はペトログラード・ソヴィエト副議長から臨時政府に入閣し、法相、軍事相を歴任して、ついに首相に上りつめたのである。
 レーニンより一回り年下でまだ30代の若き首相は一応「社会主義者」を標榜していたが、実際のところはナポレオンを気取った権力志向の野心家で、軍事相時代に足場を築いた軍を権力基盤に強力な政府を作って革命を収束させようとしていた。そのためにも、レーニンとボリシェヴィキは何としても潰しておく必要があった。
 潜伏中のレーニンは、彼がボナパルティストとみなすケレンスキーの政権掌握という新局面を見て、天秤を武装蜂起のほうへ傾け始めた。彼は7月の出来事とケレンスキー政権の登場をもって従来の並行権力の時期は事実上終わったと分析した。臨時政府は反動化し、メンシェヴィキとエス・エルが支配するソヴィエトも反動化した臨時政府の事実上の与党になり下がってしまった。代わって、ブルジョワ軍事独裁の危険が立ち現れたと考えたのである。
 こうした情勢の下では、平和的な方法で全権力をソヴィエトへ移すことは不可能であって、武装蜂起によってブルジョワ独裁権力の打倒を目指さざるを得ないということが新方針となった。レーニンはラズリフ湖畔に潜伏していた時にこうした方針を固め、この頃台頭しつつあった若手のスターリンら身柄が自由な党幹部を通じて指導していった。
 しかし、8月に入るとロシア国内での潜伏は危なくなり、前述のような007張りの方法でフィンランドへ逃亡しなければならなくなった。二度目となるフィンランド潜伏はレーニンが最も強く暗殺を意識した時期であった。実際、彼はこの時期に執筆した『国家と革命』の原稿を万一に備えて死後出版できるようカーメネフに託したほどだった。
 『資本主義の最高段階としての帝国主義』と並んでレーニンの二大著作とされるこの政治理論書がいつになく教科書的な書きぶりとなっているのも、この時期の彼がこの書を後世への一種の遺言として書き残そうとしていたからかもしれない。
 しかし、事態はまたしてもレーニンにとって有利な方向に動き始めた。きっかけは8月末、ケレンスキーから軍最高総司令官に任命されていたコルニーロフ将軍が軍事クーデターを企てたことであった。帝政ロシアのエリート軍人としては珍しくコサック出身であった将軍は、無秩序状態を終わらせることのできない臨時政府に代えて軍事政権を樹立して秩序回復を目指す考えを持っており、ブルジョワ保守層の間で期待を集めていた。
 しかし、コルニーロフ将軍のクーデター計画は事前にケレンスキー首相に知られるところとなり、将軍は解任された。しかし、将軍はコサック師団を動員して軍事反乱を起こす企てに走る。これは2月革命以来最大規模の反革命反乱であったが、軍人でないケレンスキーは政府軍を掌握し切れておらず、自力では反乱に対処できなかった。
 ここに至り、ソヴィエトは臨時政府を守るため、メンシェヴィキ、エス・エルに非合法化されたばかりのボリシェヴィキも加えた「反革命に対する人民闘争委員会」を組織し、反革命反乱軍に対抗する労働者民兵組織(赤衛軍)も結成する。革命の一大危機を前に、革命諸派が2月革命後初めて団結したのであった。
 中でもボリシェヴィキの活躍はめざましく、反乱軍と果敢に交戦したほか、巧みな宣伝活動を通じて、反乱軍のペトログラード進軍を阻止するための妨害・説得工作に一般市民を動員することにも成功した。こうして首都への進軍を阻まれた反乱軍内部では命令拒否などの背信的な動きが広がり、反乱はあえなく瓦解、コルニーロフ将軍の逮捕をもって鎮圧された。
 このように民衆が体を張って「保守派」のクーデターを阻止するという経験を、ロシア人はその74年後のソ連邦末期に今度は全く正反対の形でもう一度持つことになる。
 ともあれ、コルニーロフ反乱は「革命を救った」ボリシェヴィキの声望をいまだかつてなく高めた。10月革命で政権を追われることになるケレンスキーは後年、「コルニーロフのクーデターがなければ、レーニンの時代は来なかっただろう」と述懐している。まことに、レーニン最大の“恩人”は反革命派コルニーロフ将軍であったのだ。
 8月末から9月初めにかけて、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトは相次いで、ブルジョワ勢力との協力関係を断ち、革命的プロレタリアートと農民の協力を構築することを求めるボリシェヴィキ提案を賛成多数で可決した。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長にはボリシェヴィキからトロツキーが選出されたのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« マルクス/レーニン小伝(連... | トップ | マルクス/レーニン小伝(連... »

コメントを投稿