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マルクス/レーニン小伝(連載第53回)

2013-01-24 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

革命の成功
 コルニーロフ将軍の反乱の結果生じたボリシェヴィキにとっていまだかつてない有利な状況の下、レーニンは初めて武装蜂起にゴーサインを出す。「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」というそのものずばりの論説がそれである。同論説で、彼は冒頭、「ボリシェヴィキは二つの首都の労働者・兵士代表ソヴィエトで多数派となった以上、国家権力をその手に掌握できるし、また掌握しなければならない」と定言的に言明している。
 彼はボリシェヴィキが全国のソヴィエトの中で形式上(数字上)の多数派を占めていなくとも武装蜂起すべきだと主張するのである。
 このように先を急ごうとするレーニンの念頭には、ケレンスキー側の動向があった。ケレンスキーはコルニーロフ反乱の鎮圧でボリシェヴィキに借りを作ったとはいえ、ボリシェヴィキに妥協するつもりはなかった。むしろ「ボリシェヴィキの人質」という風評を払拭するためにも、臨時政府が3月に公約していた制憲会議選挙の準備を急いでいたのである。その第一歩として、彼は9月1日には「共和国宣言」を発し、ボリシェヴィキの手に落ちつつあるソヴィエトに代わる予備議会として「共和国評議会」の設置を決めていた。
 レーニンの新たな方針に対しては、またしても慎重なカーメネフが異論を提起したため、党議決定が進まなかった。カーメネフの意見は、10月20日に予定されている第二回全ロシア・ソヴィエト大会でボリシェヴィキは多数派を形成する公算が高い以上、武装蜂起せずとも平和的に全権力をソヴィエトへ移すことは可能であるという楽観的なもので、この時点では党中央委員会の多数の支持を得ており、レーニンは孤立していた。
 しかし、彼は持ち前の粘り腰で自説を主張し続け、中央委員辞任までちらつかせて説得を試みた。その結果、10月10日にヴィボルグ区の隠れ家で21人の中央委員中12人だけ集めて開かれた党中央委員会の秘密会議では、ついに10対2の票決で武装蜂起が採択されたのである。
 ちなみに、この時二票の反対票を投じたのは、カーメネフと後に彼とともにスターリンによって粛清されるグレゴリー・ジノヴィエフであった。二人は16日の党中央委員会会議で改めて巻き返しに出る。彼らは、党下部組織からの報告によると兵士は疲弊し、労働者の士気も落ちており、ソヴィエト大会前に蜂起できる情勢にはないと主張し、蜂起の延期を求める動議を提出した。この動議は否決されたものの、今度は全21人の出席者中6人の賛同者を出した。
 カーメネフは中央委員を辞任したうえ、ゴーリキーが発行していた新聞紙上でボリシェヴィキの武装蜂起計画を暴露した。これにより計画が公になってしまったため、レーニンは激怒し、カーメネフとジノヴィエフの除名を口走ったが、二人の排除はさしあたりスターリン時代まで持ち越される。
 レーニンは9月に武装蜂起の方針を決めた際に書いた手紙形式の論説の一つ「マルクス主義と蜂起」の中で、蜂起をマルクスにならって「戦闘術」として性格づけたうえ、10月8日に書いた同じく手紙形式の「一欠席者の助言」では、この「戦闘術」について、マルクスをまるで軍事戦略家のように扱いつつ、マルクスが武装蜂起の要諦に関して述べた「法則」を引きながら、蜂起の実際を事細かに指示している。
 このように、10月革命蜂起はレーニンとボリシェヴィキ党によって綿密に企画された軍事蜂起であり、その司令部として10月12日にはペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会が設置された。これは形式上ソヴィエトの機関でありながら、事実上はボリシェヴィキの軍事指導機関であり、その下に赤衛隊が組織された。
 先述のように、すでに蜂起の計画がカーメネフによって暴露されて一般紙上でも取り沙汰されるようになっていたことは、蜂起を遅らせるどころか、もはや決定的なものとした。第二回ソヴィエト大会は5日延期されて25日招集の予定となっていたから、この日が目標期限に設定された。
 対するケレンスキー政権側はすでに報道からボリシェヴィキの武装蜂起計画を察知していたが、ボリシェヴィキの能力を見くびっていたため、積極的な未然防止措置に出ず、蜂起したボリシェヴィキを難なく粉砕できると楽観視していたのだった。政権側はようやく24日になってボリシェヴィキの新聞発行所を強制閉鎖し、中央機関紙の発行停止を命じた。
 ボリシェヴィキにとっては、これが軍事行動開始の合図となった。24日夜から25日にかけてボリシェヴィキ側が次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧した。翌26日には前日のうちに首都を脱出していたケレンスキーを除く臨時政府閣僚が士官学校候補生や女性突撃隊などわずかな非正規部隊によって警護されながら立てこもっていた冬宮も制圧され、閣僚らは逮捕された。
 同日、第二回ソヴィエト大会は臨時政府が打倒されたことを告げるレーニンの有名な檄文「労働者、兵士、農民諸君へ!」をほぼ全会一致で採択するとともに、レーニンを首班とする新たな政府・人民委員会議を設立した。
 直後、首都を脱出していたケレンスキーが一部の旧政府軍残党の支持を取りつけて反撃に出る。彼の部隊は28日には首都から25キロ地点まで迫り、これに呼応する反乱がモスクワやペトログラードでも起きたが、間もなく鎮圧された。ケレンスキーは配下のコサック部隊にも裏切られ、ほうほうのていで逃亡し、ひとまずフランスへ亡命していった。
 こうして10月25日にほぼ帰趨を決した10月革命は、ボリシェヴィキの完勝に終わったのである。2月革命からわずか8か月、電光石火の「第二革命」であった。


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