ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第49回)

2013-01-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(1)第二次革命の渦中へ(続き)

2月革命と帰国
 大戦は果たしてレーニンの期待したとおり、国内に革命的状況を引き起こした。戦争開始後連戦連敗を続け、前線の兵士を含めて反戦ムードが高まる中、労働者のストとデモの広がりに対して事態掌握力を喪失した帝政は崩壊し、ロマノフ朝の300年が終焉した。
 1917年2月23日に起きたことから「二月革命」と呼ばれるこの新たな革命の主役は―大戦中の1914年にペテルブルクから改称されていた―首都ペトログラードの労働者及び兵士であったが、革命後発足した大地主の自由主義者ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府は、エス・エル系のアレクサンドル・ケレンスキー法相を除けばカデット系のリベラルなブルジョワ政権であった。
 一方、これに先立って労働者‐兵士の側は第一次革命の先例にならい、ソヴィエトを組織していた。その議長と副議長の一人はメンシェヴィキ系で、もう一人の副議長が先のケレンスキーであった。このように、2月革命当初のソヴィエトはメンシェヴィキとエス・エルが主導しており、レーニンのボリシェヴィキは全くの少数派だったのである。
 こうした構成を反映して、ソヴィエトの当面の方針は一挙に政権獲得に走るのでなく、まずは臨時政府の動向をウォッチしながらこれを条件付きで支持するという穏健なもので、これはプロレタリア革命を時期尚早と認識するメンシェヴィキの考えにおおむね沿っていた。こうして以後、10月革命までは臨時政府とソヴィエトの並行権力の時期を成す。
 一方、開戦後オーストリア当局に逮捕され再びスイスへ亡命していたレーニンは2月革命勃発の報に接すると、直ちに帰国の準備にとりかかった。しかし危険な革命家の通過を認める第三国はほとんどなく、帰国の方途に乏しいことが悩ましかった。
 そこで、反戦の立場では珍しく一致していたマルトフがロシアに抑留中のドイツ・オーストリア人捕虜と交換する条件で敵国ドイツを経由して帰国する方法を提案し、レーニンもこれを承諾した。こうして実現したのが、いわゆる「封印列車」による帰国である。
 レーニンは帰国直前の17年3月、手紙の形式でいくつかの論説をしたためたが、その中で早くも明確に2月革命に続く「第二の革命」―すなわち労農革命―に言及し、その準備として規律ある民兵組織とそれに依拠したソヴィエトの強化を要請している。つまり彼はこの段階で現実の権力掌握を射程に入れ始めたのだ。そしてその手段として、12年前の第一次革命でも着目していながら利用し損ねたソヴィエト組織を利用することも狙っていたのである。
 レーニンは4月3日、封印列車でペトログラードへ到着した。ボリシェヴィキは12年に「独立」した後、直後の4月にシベリアのレナ金山で起きた労働者虐殺事件を契機に再燃した労働運動の波に乗って、首都ペトログラードを中心に声望を高めていたから、レーニンもすでに有名になっており、その帰国は歓呼をもって迎えられた。大衆の間では、すでに彼は将来の国家指導者たり得る一人と想定され始めていたのだ。 
 レーニンはこの帰国に際して、さしあたりボリシェヴィキ党に向けた十項目から成る要綱を携えていた。後に「4月テーゼ」として知られるようになったこの要綱には次のような驚くべき内容が盛り込まれていた。

第一に、戦争は依然として帝国主義的なものであり、「革命的祖国防衛主義」にはいささかも譲歩しないこと。
第二に、ロシアの現状は、権力をブルジョワジーに譲り渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を引き渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期であること。
第三に、臨時政府を一切支持しないこと。
第四に、ボリシェヴィキがソヴィエト内で少数派であるという事実を認めること。ソヴィエトがブルジョワジーの影響下にある間はその誤りを大衆の現実的要求に即して説得すること。
第五に、労働者‐雇農‐農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。
第六に、すべての地主所有地の没収と土地の国有化。地方の雇農‐農民代表ソヴィエトによる土地管理。模範農場の創設等。
第七に、全銀行を単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴィエトによる統制を実施すること。
第八に、社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソヴィエトによる統制。
第九に、党の任務として党大会の招集、党綱領の改訂、党名変更。
第十に、革命的インターナショナル組織の創設。

 見てのとおり、この「テーゼ」はほとんどそのままボリシェヴィキ党の政権公約に等しいものであった。党員にとっても寝耳に水のこの「テーゼ」は、かねてよりレーニンの習慣となっていた一人で決めて通達するワンマン的手法が、現実の権力を前にはっきりと前面に姿を現したものにほかならなかった。ローザなら即座に論戦を挑んできそうであったが、彼女はこの頃、反戦運動のかどで獄中にあった。


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