goo blog サービス終了のお知らせ 

kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

茨木市・総持寺「山陰流庖丁式(やまかげりゅう ほうちょうしき)」2010年4月

2021年04月13日 | 大阪
藤原山蔭卿の御宝前で
毎年4月18日に伝統の「山蔭琉包丁式」が行われます。

※開山藤原山蔭卿は、本尊像立に際し千日間にわたり仏師に料理を
  御供えした縁により我が国包丁道の祖として祀られています。

★~ 総持寺 「山陰流庖丁式」 ~★
2010年4月18日(日) 総持寺「山陰流庖丁式」


五刀の鯉
庖丁士:塚原 巨司    後見人:高吉 政彦 ・ 藤原   潤

山陰流庖丁式  2010年4月18日
第58代、光孝天皇の頃、四条山陰中納言藤原政朝郷がそれまでの
宮中料理の諸作法を一つの方式に整えられ四条流庖丁式と命名されました。

その始祖である山陰中納言を日本料理の祖神として崇敬するところから山陰流が誕生しました。 古式によりますと来賓の前に俎(まないた)を持ち出して主人、又は調理に秀でた物が右手に庖丁、左手に真名箸を持ち、魚には手を触れずに目の前で調理する事を庖丁式と言い、これを饗応の第一としたものでした。

山蔭中納言が創建した「総持寺」(西国二十二番札所)が
大阪府茨木市にあり、当時奥の院にその御霊がまつられている処から
ここに庖丁式を修行する道場があります。

現在では京繁協友会の修行を得たものが毎年、山蔭公の命日である四月十八日の御祭儀式に庖丁式を奉納し、その免許の許し状が当時より授与されています。
(総持寺のご住職様から頂いた資料より抜粋させて頂きました。)

※現在行われている包丁式の形体は室町時代からとも伝えられています。

=======================================

ご住職様のお言葉から
魚も牛も豚も、お野菜も命があるのです。殺生がなければ生きていけませんので、その生きている命を頂いているのですから感謝しましょう。ゴキブリを殺す時には「ゴメンと言いましょう。」(^^ゞ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・造幣局の通り抜け「2015年 夜桜見物」

2021年03月25日 | 大阪
福島県で3月25日から始まる聖火リレーは、浜通りを走るコースで
サッカーの聖地・Jヴィレッジからスタートして、27日までの3日間行われます。

今朝のニュースで「これまでにない急上昇カーブの感染者数」がありました。
東京は3月の最多420人、大阪では宣言解除後の最多262人です。

2021年「造幣局の通り抜け」が気になって検索すると
※ 2021年の開催は郵便による事前申込制。
(事前申込期間:2020 年12月9日(水)~2021年3年1月8日(金)(消印有効)
事前申込は終わってました・・・(^^ゞ


造幣局通り抜け 2015年4月12日 日曜日

造幣局南門(通り抜けの入口)を入ったすぐのところです。
「立ち止まらないで、前に進んでください。」の声が聞こえてきます。


祇王寺祇女桜


珍しい桜「大手毬」が満開です。(^з^)-☆


姫路城もそうでしたが、外国からの観光客がとても多いです。


夜桜ならではですね。

造幣博物館

明治44年(1911年)に建てられた火力発電所を、昔の面影を残す外壁の赤いレンガ壁に改装したものです。内外の貨幣をはじめ、大判・小判や勲章・オリンピック入賞メダルなどの金属工芸品等、約4,000点が展示されています。

「2015年の花 一葉 (いちよう)」

造幣局では、数多くの桜の品種から一種を毎年「今年の花」として選びます。
「一葉」は 通り抜け最後の北門出口の手前と、 その左側にありました。


「一葉」は、東京荒川堤にあった里桜で特徴の花芯から1本の葉化した
雌しべが出ていることから「一葉」と呼ばれているそうです。
花は淡紅色で、花弁数は25枚程あり満開時には白味がかります。


通り抜けは、桜ノ宮橋の見える北門までですが
北門(通り抜け出口)を出ないで桜門から公園に・・・


通り抜けの楽しみの一つになっている
美味しそうなサザエとおでんにビールです。


天満橋まで、沢山の人で賑わってました。

2021年の花「楊貴妃(ようきひ)」

江戸時代初期から名前を知られている名木です。写真はお借りしました。

サトザクラの仲間で、花色は淡紅色でとても綺麗です。
八重咲きで花弁の先端に細かい切れ込みが入るのが特徴です。

今年は、事前申込の人だけの「造幣局の通り抜け」になるので
雰囲気をチョッと味わってみたい気分になり再投稿します。(^^ゞ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・住吉さんの「御田植神事(おたうえしんじ)」

2020年06月20日 | 大阪
最近、地震が多くて気になっていますが、原因不明の異臭を訴える119番通報が
三浦半島で謎の異臭 「南海トラフ地震の予兆か」の記事は・・・ こちら

「 2020年 住吉大社御田植神事」は、新型コロナウイルス感染防止のため
神職と関係者のみで神事を斎行し、行事は開催中止でした。
 
住吉大社御田植神事 2010年6月14日

大阪の住吉さんで開催される
五穀豊穣にまつわる神聖な行事「御田植神事」です。

「住吉さん」では、七五三などのお参りはさせて頂いてましたが
10年前に初めて「御田植神事」 に行ってきました。

「御田植神事」は、 当時と同じ格式を守っているお祭りとして
儀式を略することなく、重要無形民俗文化財に指定されています。

御田植神事(おたうえしんじ)は
神功皇后が田んぼを設け、御田を作らせたのが始まりだといわれています。
そして、母なる大地に植付される苗には、強力な穀霊が宿るものとして考えられ、田植えに際して音楽を奏で、歌をうたい踊りや舞を演じるのは、田や植付する苗に宿る穀物の力を増やして、物が豊かに育ち稲穂が十分に実る秋を迎えるための厳かな儀式です。

八乙女の田舞 (たまい) から始まり、神田代舞 (みとしろまい) 、鎧兜をまとった武者による風流武者行事、赤白に分かれて元気な男の子達による源平合戦が行われ、かわいい女の子達の「田植踊り」「住吉踊り」が奉納され、お田植えのお祭が無事に終わります。

私が参加しているハイキングと歴史クラブは、7月も活動中止のようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“あべの歩道橋” は 「a」 のデザイン

2020年06月16日 | 大阪
大阪・阿倍野歩道橋が40年から45年が経過して老朽化が進み、阿倍野再開発関連事業に伴い、平成21年10月15日から架け替える工事が始まりました。

2009年10月18日

チンチン電車の乗り口に通じる陸橋から
南方向の阿倍野方面を撮りました。

2010年10月11日

この時は、まだ歩道橋があります。

車の中から後ろ向きに撮った阿倍野方面、チンチン電車の乗り場が見えます。
車の中から撮ったので古い写真に見えますが、10月11日に撮った写真です。

西に(写真右方向)少し見えるのは、工事中の「あべの Q’s MALL」
東に(写真左方向)あった「近鉄百貨店」の姿がありません!
 ※ 近鉄百貨店跡に、いま「あべのハルカス」が建っています。

2011年10月

1年後には、歩道橋が撤去されています。

阪堺線のチンチン電車の辺りはまだ工事中でしたが
「あべの Q’s MALL」 はできていました。

地下道にかけられていた写真

歩道橋は工事のため取り外されているので
地下道を利用すると、この写真には懐かしい近鉄百貨店がありました。


地下道を歩いていると 「Q’s MALL」 地下1階の入口があり
中央に見えているエスカレーターを上がると・・・


「Q’s MALL」 1階の入口でした。

2013年4月

2年後の平成25年4月24日(水)14時から、“あべの” の頭文字 「a」 を
イメージした歩道橋が、全面利用できることになりました。

“あべの歩道橋”は、あべのハルカスに通じる歩道橋なので
阿倍野に来られることがあれば「a」 の歩道橋を歩いて来て下さい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪 天王寺・永代供養墓の元祖「お骨仏のお寺 一心寺さん」

2020年01月30日 | 大阪
どこのお寺でも、最近は永代供養墓があるようになりましたが
その永代供養墓の元祖だといわれるのが「一心寺(いっしんじ)さん」
遺骨でつくった「納骨堂のお骨仏(おこつぼとけ)」です。

その、一心寺さんが「納骨の受け入れを制限します」の新聞広告を出しました。
これまで「1万円から」という格安の費用で納骨を受けてきたが、宅配便で遺骨を勝手に送りつけてくる遺族もおり『送骨』は送り返しているが、納骨件数の急増で対応しきれなくなったそうです。

その「関西屈指の人気寺が"納骨制限"に踏み切ったワケ」の記事は・・・こちら



数年前の夏に、大阪市立美術館の帰りに「一心寺さん」へ行きたくなり
美術館の西にある美術館下のゲートから「一心寺さん」に向かいました。


突き当たりを右折(東方向)すると「一心寺坂」の名前がみえました。
少し前に天王寺七坂を歩いたばかりですが、この辺りは坂の多いところです。


ここは裏参道ですが、この時はお盆の季節だったので
お参りされる方が多いようです。


何度も来ていますが、一心寺さんの南門から入るのは初めてです。


納骨堂

一心寺さんの納骨堂には現在7体のお骨佛様がお祀りされていて、明治20年に第1体目が造立されて以来、10年ごとに開眼しているので通算では13体になるそうですが、戦前に造られた6体は残念ながら戦災で焼失したそうです。


納骨堂の横(北側)に「本堂」があります。


本堂の前で天水受けを支えている「天の邪鬼(あまのじゃく)」


本堂を正面から撮りました。
本堂の左側(南)が、納骨堂(お骨仏)になります。


山門と仁王門(仁王像は武器を持っていないそうです。)


一心寺さんは、あべのハルカスの近くにあります。

時代が変わったといっても、何でも許されるものではないと思いますが・・・
「宅配便で、お遺骨を勝手に送りつけてくる遺族」がおられるとは (~_~;)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナニコレ珍百景で紹介されたのは「見たことのある本物のベルリンの壁」

2019年10月07日 | 大阪
おはようございます。
昨夜(10月6日)ABCテレビ放送の「ナニコレ珍百景」で
“寺に世界の歴史を変えた壁”を見ていて・・・それは

2016年5月17日に、友人たちと「天王寺七坂」を目指して歩いた時に
天王寺駅から少し歩いた茶臼山町の「統国寺」の境内でみたことのある
東西ドイツ分断の象徴であった「本物の ベルリンの壁」でした。

その時の記事を転記します。

今日は友人達と「天王寺七坂」を目指して、天王寺に向かっていると
友人の一人が『天王寺にベルリンの壁があるそうです。』の情報が・・・


その情報によると、天王寺駅から少し歩いた茶臼山町にある
在日韓国寺院「統国寺」の境内にあるそうです。(撮影:5月17日)


山門を入って行くと、右手に信者より奉納され た東西ドイツ 分断の
象徴であったベルリンの壁の一部があります・・・

このベルリンの壁は崩壊前の大きさそのままの実物であり
写真の正面が西独側で、逆Lのかたちで東独側に建っていたそうです。


やっぱり、これは本物のベルリンの壁でした!


奥へ進むと、眼下に茶臼山が見えました。

ここは、茶臼山に行ったときに見えていた場所で
あの時は、この場所が何処だろうと気になっていた所だったのです。


ベルリンの壁の後ろに「あべのハルカス」が見えています。

ドイツ分断や冷戦の象徴となった、厚いベルリンの壁ですが・・・
壁そのものは、想像していたよりも意外なほど薄いように思いました。


写真ですが、本物の「ベルリンの壁」はどうでしたか?(^^ゞ
大阪市立美術館から近くなので、美術館に行かれた時は
ぜひ「本物のベルリンの壁」も見て来て下さい。(^^ゞ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった③「池田城跡公園」

2019年06月30日 | 大阪
大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった②「池田城跡公園」のつづき・・・


展望休憩舎から東門方向を見ています。
そして、排水溝跡・虎口・土塁・南門に通じる
いま通ってきた道が見えています。


2階の展望台から。。。


「東門」を通って帰ろうと思いますが
東門の前に見えるのは・・・

「てるてる坊主の照子さん」の文学碑

作詞家なかにし礼氏が書いた小説「てるてる坊主の照子さん」

池田市出身の彼の奥さん石田ゆりさんの家族(両親と4姉妹、歌手いしだあゆみは2女、石田ゆりは4女)をモデルにした小説です。2003年9月から2004年3月までNHKで連続テレビ小説「てるてる家族」が放映された記念として「てるてる記念碑」が設置されたそうです。


東門の前には木橋があり
「てるてる坊主の照子さん」の文学碑がお迎えしています。


「池田城跡公園」の西門から東門でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった②「池田城跡公園」

2019年06月29日 | 大阪
大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった①「池田城跡公園」のつづき・・・
勾配のある階段を上がった西門から入って、展望台に向かっています。


14世紀前半 建武年間に池田教依が築城したと考えられ
戦国時代末期まで摂津国で勢力を持った池田氏代々の居城でした。

発掘調査で出てきた排水溝跡の復元


1569年当時の当主であった池田勝正は摂津に侵攻した織田信長の軍門に下りました。勝正は摂津守護を任され、1570年 信長が朝倉義景に敗れた金ケ崎の戦いでは殿軍を務めるなどの活躍をしましたが、家臣の荒木村重と一族の池田知正の下剋上により城を追われてしまいました。

虎口(こぐち)

城の出入り口である城門で、築城当時の出入口はこの虎口のみだったようで
この先に空堀がありその上を木橋が渡っていたと推定されています。(復元図より)

土塁

この段差は主郭を囲む土塁の遺構です。

1578年に荒木村重が本拠地を有岡城としたことで廃城になり、荒木村重が織田信長に背いことにより起こった有岡城の戦いでは、攻城側の陣城として池田城が活用されたと考えられています。

風展望台のすぐ横にある南門

ここから空堀跡を散策することが出来ます。

展望台

展望休憩舎の前には池があり、舞台も設置されています。
毎年5月に、この舞台で「薪能」が催されるそうです。


五月山が一望できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった①「池田城跡公園」

2019年06月28日 | 大阪
池田城跡公園は、平成12年(2000年)4月にオープンしました。


府道9号線のある西側から池田城跡公園に向かうと
こんなにも勾配のある階段です・・・(^^ゞ

西門

公園には大手門、西門、北門、南門の4つの門がありますが
急な階段を上がったところが西門です。


室町時代から戦国時代にかけて、池田市域一帯などを支配していた
地方豪族池田氏の居城跡地を公園に整備されたそうです。


石橋を幾つか渡って(渡らなくても行けますが)
展望休憩舎へ向かいます。

枯山水

池田城の枯山水が発掘されています。

やぐら風展望休憩舎

天守閣みたいな展望台が良いですね。
次は、昔の様子を忍ばせる場所など紹介したいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪高槻市・田植えの季節にみる絶景の「奥の谷池と田能盆地」

2019年06月07日 | 大阪
今日はハイキングの予定でしたが、今朝からの雨で中止になりました。
梅雨入りも近く、いよいよ田植えの季節になりましたね~。

高槻市の最北端に位置する「田能の樫船神社(かしふねじんじゃ)」

樫田を見守るように鎮座する神社で大己貴命(オオナムチノミコト)を祭神とする貞応元年(1222年)に田能(たの)の村人たちの手によって造営され、神像と仏像が奉納されたといわれています。地図

名前の由来は
社殿に、木造の神像と船の模型が安置されたことが由来だそうです。

知る人ぞ知る「奥の谷池」です。

樫船神社東へ100メートルのところにあり
同じ高槻なのかと驚きますが、あまり知られていない場所です。

田能盆地

樫船神社に行く道から田能盆地が見えるすばらしい景色です! 
  
奥の谷池から一番近くのこの田んぼに水が入ってから・・・
下の田んぼへと水が入っていきます。

*明治時代の町村合併により、田能村・中畑村・出灰村・杉生村が合併し、樫田村が発足した。地域にある樫船神社の「樫」と、母体となった村の一つ・田能村の「田」を組み合わせて「樫田」の村名が名付けられたそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする