kenroのミニコミ

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スイス美術館紀行1 パウル・クレー・センター

2008-09-12 | 美術
スイス美術紀行1
 今回の旅行の目的の一つはフランスはコルマールに行くこと(後述)。もう一つは2005年6月に開館したベルン郊外のパウル・クレー・センター(Zentrum Paul Klee)を訪れることだ。ZPKには日本人の学芸員がおり、紹介してくださる方があり、お会いでき、そして展示を解説して頂いた。
 奥田修さんはZPKが開館するに伴い、ベルン美術館から移った方でそれまでベルン美術館の学芸員であった。ベルン美術館は世界最大のクレーのコレクションを有していたが、スイスの最大画家クレーコレクションのための美術館構想が立ち上がり、それまで2000点を有していたベルン美術館にクレー家などから寄託された作品も含め4000点を有するセンターとして開館したものだ。奥田さんによると、「センター」になったのは、クレー芸術を中心に複合施設として開館することになったからという。そのとおりZPKはクレーの展示室以外に企画展示室、コンサートホール、会議やレセプションにも対応でき、子どもの教育施設として、また広い年齢層に対する絵画教室としても機能している。奥田さんは「ベルン市民はこんな遠いところには来ないよ(ベルン中央駅からバスで20分ほどだが)。でも企業が会議など催しに使ってくれてなんとかやっている」と話されていた。
ZPKは、ベルン旧市街を抜けた少し高台にあり、高速道路がそばに通っているものの、牧場などに囲まれたのどかな地勢。地元のお金持ちがぽんと土地を提供してくれ、土地を探す必要がなくなったこと、クレー家をはじめ「寄託」という形で作品を提供してくれたため収集費用が多額にはならなかったことなど美術館大国スイスの面目躍如たる偶然が重なり実現したのがZPKなのだ。もちろん、センターという多角性がなければ実現しなかった企画であり、「こんな総合芸術企画でなく、クレー美術館の門番として過ごしたかったのに」と冗談めかして話す奥田さん。
 案内していただいた時のクレー作品展はクレーが小さいときから植物に興味があり、それらのスケッチを重ねてやがてあの独特の色彩世界、フォルムにつながるというもの。驚かされたのはクレーが子どもの頃から集めた植物の標本が完全な形で残っていること。120年前の押し花(ではないが)が見事に残っているのは感嘆ものである。これはクレー家が保存よく残していたこと、第2次大戦時にもナチスドイツの略奪を許さなかった中立国スイスであったためなど幸運な要因が重なったためと考えられる。しかしバウハウスで教鞭をとったクレーはナチスから「ユダヤ人」との攻撃を受け、退廃芸術の烙印を押されたが、故郷スイスに亡命し晩年を過ごした。
 壁のないだだっ広いZPKの展示室はパネルで仕切られ、どこからどこへでも漂うように見渡すことができる。4000点を超えるクレーの作品群を常時展示しているわけではない。だから、今回はクレーの植物への興味の延長線上に置きにくい作品(というか、そう展示側が企図したもの)は除かれているので、著名な「赤のフーガ」や「死と火」は展示されていなかったように思うが(少なくとも筆者が訪れたときは)、それでもクレーの想像力、好奇心、博学さには驚かされるばかりの世界が広がっている。植物が好きであったくらいだから理系への興味が強かったクレーだが、バイオリンの名手であり(妻もピアニスト。画家として売れるまでは演奏家として小銭を稼いでいたという)、哲学にも造形深く、バウハウスでは造形学や色彩論(バウハウスではこの分野の第一人者ヨハネス・イッテンもいた)、製本、形態の実技まで持っていたというのであるから、いやはや万能の哲人とまでは言わないでせよ飛び抜けて多芸多才であったことが伺われる。
 スイスに戻ったクレーは病魔とたたかいながら多くの作品を残した。ペン画で描かれた天使のシリーズもこのころの作品。クレーの全容を知るためには(できはしないが)、ZPKに通い続け、企画展示の全てを見尽くさなければならない。植物を採取していた子どものころから、チュニジア旅行で色彩に目覚め、バウハウスで教鞭をとりながら抽象的構図の理論を高めていたとき、そして線画。画家は若死にかとても長生きという感じがしていたが、60歳で亡くなったクレー。戦後も生きていたらどんな不思議な色や造形を生み出していただろう。
 クレーを楽しみ探す旅は始まったばかりである。
コメント
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