kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ケーテ・コルヴィッツ展(姫路市立美術館)

2005-11-20 | 美術
実はベルリンに行った際にケーテ・コルヴィッツ美術館にも行ったのだが覚えていなかった。というのは、ベルリンに行った時にはケーテ・コルヴィッツのことを全然知らなかったこと、ベルリンは現代美術の発信地であり、それに惹かれて訪れたことなどが理由だ。だが、知らなかったことはやはり恥ずかしい。
ケーテ・コルヴィッツは第1次世界大戦でまだ16歳だった次男ペーターを失い、「死」を見つめた作品を生み出していく。しかし、ケーテは息子を亡くす以前から労働者の悲惨な状況を描く作品を発表しており、人の生死にまつわる制作活動を続けていた。そして農民/労働運動や労働者の悲惨な姿をありのままに描いたため、作品の発表を妨げられたりもしたが、その実力からドツ女性として初めてアカデミーの会員、教授にまでなったが、やがてドイツにはナチの影が広がり、反戦思想を持つケーテは職を追われる。70歳になったケーテはそれでも制作を止めなかった。版画家として出発、成功したケーテが彫刻に本格的に取り組むのもこの頃である。しかし、孫のペーターまでもが第2次世界大戦で戦死。その前年遺作的版画「種を粉に挽いてはならない」でどんなことがあっても子を守る大きくたくましい母親の姿を彫ったのは、ケーテなりの理不尽な死(戦争はその最たる出来事)に対する深い悲しみ、慟哭そして反旗ではなかったか。
1945年に亡くなったケーテの版画は戦後、日本共産党や労働運動の中で機関誌などの表紙絵によく使用されたと言う。ケーテ自身は反ファシズムであってもコミュニストではなかったようだが、ケーテの作品がそのような使われ方がなされたことに宜なるかなという気がすると同時に、貧しさや死に対する本源的な怒り、悲しみ、告発といったケーテのテーマは大きな母こそ踏みとどまらなければならないとする共産党などとは関係のない普遍的な価値をも見いだすことができるだろう。そうであるからこそ、銃後の母像として戦後日本の左翼陣営が使いやすかったのかもしれない。
1919年暗殺されたカール・リープクネヒトはローザ・ルクセンブルグらと社会民主党最左派として活動していた。彼の思想より人柄に惹かれたいたというケーテが制作したのが、本ブログのカット「カール・リープクネヒト追悼」である。
コメント
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