kenroのミニコミ

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アニメで描く「記憶の成功」   戦場でワルツを

2009-12-27 | 映画
レバノンはイスラム教徒とキリスト教徒が混在するモザイク国家であり、対イスラエルの前哨基地としてシリアやPLOなどが要衝地と位置づけて覇権を争っていたのは知っていたが、82年のサブラ・シャティーラの虐殺は当時は新聞で読んだりしたかもしれないが、恥ずかしながら覚えていなかった。80年の光州事件での犠牲者が当時2000人と言われ(その後検証により500人~800人と言われる)、その2年後の本事件も3000人が殺されたとされるが、真相はいまだ不明であるという。
だが、明らかなことは非戦闘員であるパレスチナ難民を直接殺したのがキリスト教系のファランヘ党であること、西ベイルートに勢力を拡大していたPLOを排するためにイスラエルがファランヘ党に肩入れしていたこと。そしてファランヘ党の指導者バシールが、大統領に就任しようとしたのはイスラエルの強い支持、後ろ押しがあったことである。だからファランヘ党の民兵がパレスチナ難民キャンプに入り込み、その目的が虐殺であることを知っていたにもかかわらずそれを放置した。あまつさえ、ファランヘ党民兵に武器を与え、夜半の虐殺に資するよう照明弾を打ち上げていた。ファランヘ党の難民キャンプへ「掃討」理由はパレスチナ「テロリスト」やその支援者を焙り出すためであった。30年近く前すでに「テロリスト」探しを理由にした無差別殺戮がなされていたこと、それが今日のアメリカのアフガニスタンやイラク攻撃という形で世界の非難を浴びていることと陸続きにあることに驚かされる。いや、82年という時代に筆者が若かったせいではない、知ろうとしなかったことと情報が伝わらなかったことの両方がいわば「罪」である。
「戦場でワルツを」はかなり異色作品である。重いテーマ、背景説明がないと理解しがたい展開、にもかかわらずアニメーションでノンフィクションを語る意外さ、そして、サブラ・シャティーラの虐殺の責任があるイスラエルの作品であるという不可思議さ。ただ、本作がイスラエル映画であるということと、各地の映画祭で高い評価を得ていること、日本でも反発なく喝采の上、上映が実現していることになんとなくわかる気がした。それは、パンフレットに記載されたイスラエル建国の説明括弧書きに「日本は紀元前660年とされる」という記述があったからである。紀元前660年といえば縄文時代。日本の「建国」がその時代にあったなど今やおおかたの右翼でさえも主張しない笑話(しょうわ)である。そのような立場に立ってのイスラエル視とあれば、本作の評価はそれを前提にしないといけないであろう。
ただ、客観的に見ればアニメーション技法でのイスラエル兵のPTSDにせまる手法はかなり成功しているし、実写ではない分、多くのことを想像させてくれたのは秀逸である。戦争後の兵士のPTSD、イラク戦争帰還兵の3分の一が何らかの心の病、自殺者も多いとされる現在(自衛隊も「非戦闘地域」に展開し、一度の戦闘も経験しなかったが、それでも自殺者は「多い」。)、イスラエルの初年兵もパレスチナの民が殺されることになんの痛痒も感じないロボットではないし、ましてや、戦争という極限状態は人を忘却の渦に誘い込む。本作の主人公が虐殺を全然覚えていなかったという自己防衛の「乖離」はPTSDの主要反応の一つである。
そして「テロリスト」掃討のためとか、平和をつくるために戦争が必要であるとの言説を垂れる人物は決まって戦争の現場には行かない。それを確認するとともに、さらに今回あらためて思い出す。
中東の平和の前提としてPLOとの「和平」を推し進めた後に首相になるペレスはサブラ・シャティーラの虐殺の時、当時のシャロン大統領下の閣僚であった。佐藤栄作は米軍の核政策の中、沖縄を売り飛ばした。そしてオバマ大統領は、平和のための戦争も必要と明言した。この3人の共通点は? そうノーベル平和賞受賞者である
戦争で傷つき、死んでいくのは見知らぬ他者だけではない。それを見て見ぬふりをした者、その傍観的地位にあった者も逃れられない。本作の希望はその点である。

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