kenroのミニコミ

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「都市の祝祭」は定着するか   愛知トリエンナーレ

2010-09-26 | 美術
今年の夏は猛暑であったので美術散策するにはよい季節になった。特に愛知トリエンナーレのように会場がいくつも分かれており、屋外を歩き回らなければならない展覧会ではなおさらである。
日本では数年に一度の美術展の古参である横浜トリエンナーレや2007年に始まった神戸ビエンナーレはほとんどの展示が屋内であり、会場も大きく離れているわけではない。本来2年に一度、3年に一度の大美術展は一箇所の会場で収まるようなものではないのであろう。しかし、そうであればこそ、移動に難をきたす人に対する対応も必要ではないか。今回愛知の会場の一つに繊維問屋街の古いビルをいくつもの展示場にした試みがある。町をアートに巻き込む、それも古い場所に現代アートをという試みそれ自体は意欲的で、面白い。しかし、古い建物ゆえ、段差も多く、5階建てでもエレベーターもない。階段も急で狭い。健常者でもひやひやするところさえあった。
展示自体は、それら古い建物にあわせるかのような面白い作品が多かった。小栗沙弥子のガムの包み紙を張り巡らした作品(旧玉屋ビル)など、作品解説があればもっとその面白さを感じられる作品は多かったように思う。現代美術はえてして解説がないと何を表しているのか分からないものが多い。ただ、今回もオーディオガイドを借りたのだが、現代美術作品でよく見られる一辺倒な解説  社会と個人との関係を表している(もしくは「模索している」)  ばかりで少しうんざりしたのも事実である。見ただけではすぐには意味の理解できない現代美術作品の多くは、なんらかの「社会と個人(人間)との関係」を表しているのは当たり前であって、その「関係」がなんであるのか、どのようなものであるのか、それは変わりゆくものであるのか、変わらないものであるのか、そこを知りたいのである。
現代美術で「現代」を象徴するキーワードは、大衆、情報、消費、戦争、飢餓、貧困、差別、ハイテクノロジーなどである。ここでは、写真を除いて造形としての美術(ビデオインスタレーションを含む)は先進国の都市で描かれる、創作されることが多い。そこでこの作品が「社会と個人の関係」をたとえば「戦争」を考える、表すものとして描こうとすると、直截的な表現を用いられることはなく、いわばメタファーと化している。そのメタファーを読み解く能力がこちらにないのは置いておくとしても、多くの人にとって何の説明もなければ、そのメタファーが「社会と個人の関係」に思いを馳せ、「戦争」を考える題材となっていることなど分かりようがない。
上記のような社会問題にまみえる題材を持っていない現代美術は、社会を無化させた美術としてトリエンナーレのような国際美術展では必ずしも主流ではない。しかし一方で、ビデオ、CGを駆使し、いったいどうやって描いているんだろうと鑑賞者を驚嘆させる技術が前面に出た作品も多い。いずれにしても、大上段に理念を振りかざすのではなく、作家個人の趣味や嗜好によって、作品の奥にある、あるいはない意図を「社会と個人の関係」とひと括りにする安易さが、現代美術の解説として貧しいのである。
草間彌生や蔡國強などの「大物」も出品しているが、これらはいわば「祝祭」(「アートは都市の「祝祭」」=総合芸術監督建畠晢の言葉)としてのトリエンナーレの看板見世物であって、本当に面白い、考えさせられる作品はほかに多いのだろう。
名古屋という東京でも大阪でも地方でもない中途半端な街で、国際美術展が成功、定着するか。ひとむかし前、文化はハコモノと、巨大建設だの、なにやらメッセだのと見栄えに走った時代があった。そうではなく、現代美術が「現代」とは特に意識されずに私たちの生活の一部になりえるか、主催者、作家、鑑賞者すべてが問われている愛知トリエンナーレであった。(蔡國強「美人魚」制作風景)
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