kenroのミニコミ

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強いられる死  自殺者三万人超の実相   斎藤貴男著(角川学芸出版)

2009-06-03 | 書籍
年間自殺者が3万人を越えたのが1998(平成10)年。それから3万人を割ることは決してなく今日に至っている。新自由主義の競争社会が何をもたらしかを鋭く切り込んできた斎藤さんをして「仕事を引き受けたことでこれほど後悔したことはなかった」(あとがき)と言わしめるほどしんどいテーマだった自死。
この国は自殺は美しいという文化がまだ残っていて、その美意識の集結としてこれほどの人が自ら命を絶つのか、などというのんきなお話ではない。新井将敬氏や伊丹十三氏が前者の「美しい自死」であると考えていたとしたら、現実ははるかに名もなく痛みも口に出せず自ら消えていくという形の自死なのだ(もちろん、新井氏も伊丹氏も苦しみ、追い込まれたのであろうが)。
私事になるが、職場で何人かを自殺で失った。一人は顔見知りで簡単な話なら何回かしたこともある人で、職場復帰まで間もなくという直前の悲報だった。休職期間が切れる直前に人事担当者などから「本当に大丈夫か? 退職という道もある」などとプレッシャーをかけられたためではないかとの情報もあったが本当のところは分からない。言えるのは、「休む」ことと「休んだ」後のフォローがない職場という怪物が個人を押し殺したかもしれないということ。
斎藤さんの本書に出てくる例はすべて「かもしれない」ではなく「殺された」のである。超過密労働、パワハラ、民営化にともなう攻撃、多重債務、経営者そして自衛隊。そのどれもが自分と遠い世界ではないと気づかせる十分な、いつもながらの斎藤さんの丁寧な聞き書き、取材である。
そして今や自死のために他者に凶刃を振るう時代(池田小学校事件、土浦事件、秋葉原事件、難波ネットカフェ事件など)。すさまじく苦しい現状の打開策が暴発・爆発という形が自死であると、他者殺であろうと悲しく絶望の上塗りでしかない。
本書の最後に斎藤さんは派遣切りを修正したキャノンを例に取り、絶望のそのあともあると語っているが、現実は厳しいことに変わりない。
しかし知らない、見ない振りをするくらいなら見て、知って、考え、そしてあわよくば行動したほうがいい。家族の、隣の人が突然いなくなることはつらい。
コメント (2)
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