kenroのミニコミ

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この爽快感が現実になれば  マラソン

2005-07-10 | 映画
一時期日本のテレビドラマで「障害者もの」が流行った。しかし、自閉症をあつかった作品はなかったのではないか。また、映画でも聾唖の忍足亜希子さんがあの美しいスマイルでいくつか出演している。でも、知的障害をあつかったものはやはり少ない。アメリカでは古くは「レインマン」 。ショーン・ペンの「アイ アム サム」もある。実際にダウン症の人が演じた「8日目」もあった。難しいのだろう。健常者が演じるのは。しかし、チョ・スンウはすごかった。
体は大人であるのに、幼児の心を持ったままの演技とはどのようなものか。脚本/監督のチョン・ユンチョルは、言う。「自閉症児は無愛想だと思われがちですが、実はそうではありません。正直で、気ままに行動する、天真爛漫な子どもとして、はつらつと描こうと思った」。そう、養護学校や職業訓練校が近い地域でや車内やホームでいろいろな障害児/者に会っているはずだ。しかし、「障害児/者」は皆同じだと、決まりきったパターンがあって、変化に乏しいと思ってはいなかったか。
主人公のチョウォンは走ることが好きだ。しかし、母親はこの子に何かひたむきになることを、「普通に」できることを見つけてやりたいという一心でマラソンを押し付けたのではないかと苦悩する。母親の願いは一つ「この子より一歳長生きすること」は悲痛だ。社会適応が困難な障害児/者の世話はたいていの場合母親が一手に引き受ける。映画でも父親は逃げ腰だった。しかし、その母子密着は母親の老い、死とともに残された障害者を独りぼっちにしてしまうという危険性を常に内包している。障害のある人が社会の中で、家族の中に閉じてしまわずに、生活していくというのは言葉では簡単であるが、現実では難しい。何せ、韓国でも自閉症児に対する特別な施療/策が社会的に講じられてまだ5年ほどというのであるから。そして、この日本でも障害児/者に対する目はとてつもなく冷たい。
母親だけに背負わせてはならない。チョウォンのようにマラソンを見つけられた人は幸せな方で、多くの人は差別を含む社会的困難さの中で日々生活を送っている。しかし、幸せなチョウォンの物語は悲壮感なく描かれていて、本作のさわやかな魅力を生み出しているのが救い。そして、本作は実際、自閉症児でありながら、3時間を切るマラソンレコードを出し、トライアスロンまで制覇した実在のペ・ヒョンジンさんの話がベースとなっているから嘘っぽくもない。
知的障害ではないが、「オアシス」でムン・ソリが演じたCP(脳性麻痺)患者の演技もすばらしかった。韓国映画の元気さは、イケメンスターのかっこ良い役だけで成り立っているのではない。それにしても、チョ・スンウのあの美しい瞳がうらやましい。
コメント
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