前作「パラダイス・ナウ」ではいわゆる「自爆テロル」実行者に選ばれたパレスチナ青年の日常と彼らをとりまく群像劇を描いて見せた。そこでは「殉教」を選ぶ「大義」に重きが置かれていた(理想郷はそこにある パラダイス・ナウ http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B9)。しかし同時に「殉教」までせずとも、日々圧迫の元凶であるイスラエル側に一泡吹かせてやろう、一矢報いてやろうという思いは多くのパレスチナ人に共有されるものだろう。
オマールは高さ8メートルの分離壁をよじ登り、仲間と彼女に会いに行く。ふだんはパン焼職人としてなんとか食いつないでいるが、幼馴染のタレク、アムジャドと練っているのは検問所のイスラエル兵を襲うこと。タレクの妹ナディアと恋仲にあるが、タレクに結婚したいと言いだせないでいる。ある日イスラエル兵に不合理な(そもそも占領自体が不合理、非合理の極みである)仕打ちを受けたオマールは「今日、襲おう」と2人に持ち掛ける。見事アムジャドがイスラエル兵の狙撃に成功するが、秘密警察にオマールは捕まってしまう。拷問、そして「協力者」にならないかと持ち掛けられ、解き放たれるが、それ故非占領、パレスチナ人居住区で「内通者」「裏切り者」と目される。裏をかいて、取引した捜査官らの襲撃を迎え撃とうとするが。
全編緊張感にあふれている。そしてオマールとナディアとの恋の行方も見放せない。しかし、日本の作品名にある「壁」とあるように(原題は「オマール」)その壁は物質的、具体的な壁を表しているだけではない。オマールに「協力者」を持ちかけ、それ故仲間との間に生まれる「壁」、貞操と家父長制が厳しいイスラム社会でナディアとの結婚に暗雲が指す「壁」。そして、オマール自身、自身の本当の気持ちと誰を信じ、信じてはいけないのか、何を信じ、信じてはいけないのかとともに、そういった答えを欲しない、逡巡する自己内の「壁」。仲間のあいだで「こいつがスパイではないか」と疑うことは、相手もそう疑っているということだ。最初捕えられた時、オマールは「自白はしない」と言いきった。その「自白しない」言説自体が「自白」になり「懲役70年」となるから無茶苦茶だ。しかし、オマールの「(それは)変わらないのか?」の問いに弁護士は「占領が続く限り」。
「壁」は絶望の象徴である。絶望した若者は―若者に限らないけれど―なんらかで、自己の命を失うことに躊躇を覚えない。それが「自爆テロル」であったとしても。
しかし、オマールにはナディアと結婚するという夢がある。占領下の夢。これは逆説である。夢とは、自己を束縛しないことを意味するのに、さまざまな「壁」の中でも思い描く夢とは。オマールは、自分を「裏切り者」に仕立て上げ、結果的にナディアとの仲も裂き、パレスチナ社会での自分の立ち位置を貶めた狡猾なイスラエル秘密警察捜査官ラミを、射殺するが同時に抹殺される。
「壁」に明日はない。そして明日を作らない、考えさせない。けれど、生きている。佐高信は、安倍改憲政権の時代にリベラル派の「絶望」が足りないといった。「絶望」と「生きている」ことの両立が大事で、そして「オマールの壁」は観る者を奮いだたさせる。
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