たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



ガルシア・マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出(新潮社)は、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝にしようと考えた」という、ぶっ飛んだ書き出しから始まる。

男は、娼館の女将に与えられた15歳の娘には、最初の夜に、まったく手を出さない。全編をつうじて、淫らな性行為の描写はないので、じつは、そのあたりの詳細については分からない。九十歳の男によって、デルガディーナと名づけられた娘をめぐる記述が、全体に薄い。それは、男の内面描写に読者の注意を喚起するために、必要な手立てであったように思われる。日本語訳のなかに、文章表現のひとつひとつが、つぶつぶと輝いているように思われる。

忠実なお手伝い、ダミアーナとの性関係をめぐる描写。

ふと見ると、彼女が洗濯場で前かがみになって洗濯していたが、スカートが短かったので、むっちりとした膕(ひかがみ)がむき出しになっていた。それを見て我慢できなくなった私は、背後からスカートを捲くり上げ、パンツを膝のところまで下し、うしろから行為におよんだ。ああ、だんな様、と彼女はくぐもったようなうめき声をあげながら言った。そこは入り口ではなく、出口です・・・

「老い」という主題が、あちこちで顔を出す。

いったいいつ頃から老いを意識するようになったのか思い返してみたが、どうもあの日のほんの少し前だったような気がする。四十二歳のとき息もできないほど背中が痛くなったので、医者のもとに駆けつけた。医者は心配いりませんという顔をして、あなたくらいの年齢になればごく普通のことですと言った。「すると」と私は言った。「普通でないのは年齢のほうなんですね」

唯一頭痛の種が猫だった。食欲がなくなり、人を寄せ付けなくなった上に、丸二日間お気に入りの場所でぐったりしていた。柳の籠に入れて、ダミアーナに獣医のところへ連れて行ってもらおうとしたが、傷ついた野獣のように引っかいてきた。言うことを聞かなかったが、暴れるのをかまわず麻袋に詰めて、運んでもらった。しばらくすると、ダミアーナが飼育場から電話をかけてきて、処分するしかないそうで、その許可をもらいたいとのことですと連絡してきた。どうしてだ?年をとっているからだそうです、とダミアーナが答えた。自分もいずれ猫を焼却する炉で焼き殺されるかもしれない。そう考えると無性に腹が立ってきた。どうしていいか分からず、無力感にうちひしがれた。結局猫を愛することができなかったのだが、その一方で年をとっているという理由だけで処分するのに同意する勇気もなかった・・・

これまでの人生において、誰も愛したことがなかった九十歳の男は、出会いの初めから、思い入れのみで、
デルガディーナを愛するようになる。

いとしいデルガディーナ、と切ない思いで彼女に呼びかけた。デルガディーナ。彼女はくぐもったようなうめき声を上げると、私の脚から逃れて背を向け、カタツムリが殻に閉じこもるように身体を丸くした。

自らの思い入れによって手に入れた愛によって、男は、自分自身の本当の姿に向き合う。想定上、百年近く生き抜いた男の独白は、以下のように、慧眼である。

彼女のおかげで、九十年の人生ではじめて自分自身の真の姿と向き合うことになった。私は、事物には本来あるべき位置が決まっており、個々の問題には処理すべきときがあり、ひとつひとつの単語にはそれがぴったりとはまる文体があると思い込んでいたが、そうした妄想が、明晰な頭脳のもたらす褒賞などではなく、逆に自分の支離滅裂な性質を覆い隠すためにまやかしの体系であることに気がづいた。教育を受けたちゃんとした人間のように見せかけているのは、なげやりで怠惰な人間であることに対する反動でしかなく、度量の小さい人間であることを隠すために寛大な振りをしているに過ぎず、何事によらず慎重なのは、ひねくれた考え方をしているからであり、時間を厳守するのは、人の時間などどうでもいいと考えていることを悟られないためだということに気がついた。そして最後に、恋というのは魂の状態ではなく、十二宮の星宮の位置によるものだということを発見した。



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たて続けに、ラテンアメリカ文学の大作を2冊読み、とりわけ、ガルシア・マルケスの作品を読んで、ふたたび、わたしは、そのざわめき立つような彼の文学世界に深く感応し始めている。『コレラ時代の愛』のなかには抑えられているが、ガルシア・マルケスの小説の随所に見られる現実のなかにふと立ち現われる幻想(非現実)の描写に、強く惹かれる。それは、ラテンアメリカ文学の際立った特徴とされる「呪術的(魔術的)リアリズム」にほかならない。

キューバの作家アレッホ・カルペンティエルは、ラテンアメリカにおいては現実そのものが驚異的なので、シュルレアリストのように人工的に驚異を作り出す必要がないとのべている・・・考えてみれば、2メートルのミミズにせよ、無数の蝶にすっぽり包まれた女性にせよ、われわれにとっては驚きであっても、そこに住んでいる人たちにとっては、ごくあたりまえの日常的なことでしかない・・・ガルシア・マルケスは、驚異的な出来事や桁外れの人間の行動や生き様を、彼一流の物語的な文体を通して巧みに語ることで、ラテンアメリカの現実と驚異をあざやかに描き出している(G・ガルシア・マルケス『エレンディラ』の木村榮一による「訳者あとがき」より)

呪術的リアリズムは、現実にもとづいて生み出される幻想によって成り立っている。科学的・合理的思考になれた
わたしたちにとって幻想的に見えるものは、じつは、彼ら(=ラテンアメリカの人たち)にとっての日常的現実であるという理解は、意外と正しいのかもしれない。わたしはいま、ラテンアメリカ人をボルネオの狩猟民プナンに置き換えて、自然と神を含む、彼らが見ている、きっちりと切り分けられることがない世界を、ガブリエル(・ガルシア・マルケス)の魂に導かれながら、描述することができはしないかと、考えたりしている。

『百年の孤独』について、そういえば比較的最近読み直したことがあるなと思い出して、mixi の日記(
2006年02月12日22:54)から、ひっぱり出してきた。4年前も、今と同じようなことを言っている。ということは、その後ほとんど進展はないということであるが、『百年の孤独』の簡単なレヴューとして、 とりあえず再録しておきたい。

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わたしは、日本社会の愚薄さに早々と居心地の悪さを感じ、20歳のときに、メキシコのシエラ・マードレ山脈の深くのインディオ・テペワノ族の村を旅したことがある。それは、いま思うと、私の現在へとつながる<生>の原点の旅であった。ハポネス(日本人)がいると聞いて、白昼、ベサメ(私にキスして)!と言いながら寄ってくる美しき女たちが、彼女の舌を私の舌に絡みつかせてくるという、<熱情>に支配されたかとしか思えないメキシコ国の片隅で、ガブリエル・ガルシア・マルケスのCIEN ANOS DE SOLEDA『百年の孤独』が、話題になっているのを知った。インディオの村を単独で旅した勇猛と知恵に深く自己満足し、日本へとたどり着いたわたしは、その勢いをそのままに、スペイン語で、20世紀最高の文学と誉れの高いその著書を読もうと試みた。しかし、スペイン語の能力不足は、その原著購読をすぐにあきらめさせたのだが、その後、しばらくして、その日本語訳を読んだ。20ほど年前のことである。魂を、大きく揺すぶられたように覚えている。その後、ラテンアメリカ文学に没入したわたしは、カルペンティエル、リョサ、プイグ、フェンテスなどを読み漁り、一時期、文学者を志したこともあった。

先日、新宿の紀伊國屋に立ち寄って、手ぶらで帰りかけたところ、文学のコーナーに『百年の孤独(全面改訳新装版)』が、表紙をこちらに向けて、棚一杯に置かれているのに気づいた。買ったのではない、わたしに買われるのを、そのうちの一つが待っていたのではあるまいか。この3日間、その新装版『百年の孤独』を読み耽った。読み進むうちに、読書は、戦いへと変じた。20年後の再読。マコンドという架空の町の建設とブエンディーア家の百年のリニアーな歴史を綴った稀有な文学書は、激烈なかたちで、人類学者=文筆家の端くれであるわたしに、人間の理解と表現の拙劣、理想の欠乏を思い知らせてくれたように思う。わずか33歳の若き著者が、驚嘆すべき物語を完成させとは。20年前には思いもよらなかったが、私は、とうにその齢を越えてしまっているのだ。

百年の間にあらわれる幾つもの<誕生><死><性愛><思い>・・・比喩でもなんでもなく、人は、時間の中にやってきて、そして時間からいなくなるのだということを感じる。百年ほどの歴史は、この著書の中の出来事のようなものとして、淡々と描かれるうるのではないだろうか。情事を交わす何組ものおばとおい。おばの寝床にもぐりこむおいは、おばの朝の暖かい息遣いにつつまれたいという欲望を抑えきれない。おばの指は、おいの下腹部を探る。手は軟体動物のように、おいの欲望の茂りあう水草にもぐりこむ。そのころ二人は、燃えるように愛し合っていただけではなかった。屋敷のあらゆる場所で相手の姿を追い求めたのである・・・おいは、くるぶしから、ふくらはぎへ、さらには太腿へと指を這わせていった。小鳥のように八つ裂きにされたとき、彼女はそのまま息絶そうになるのを必死にこらえた。この世に生を享けたことを神に感謝するのが精いっぱい、あとは耐え難い苦痛の中の想像を絶する愉悦に意識もうろうとして、もうもうと湯気の立つ汗の沼でもがきつづけた。繰り返される近親相姦。やがて、豚のしっぽをもつ赤子が誕生し、人喰い蟻によって、ブエンディーア家の血筋は途絶したのである。

あるとき、村に不眠症が流行し、人びとは記憶を喪失していく。物忘れしないために、<机><時計>・・・という物の名前が、墨を含ませた刷毛で書きつけられた。書かれた名前で物を確認できても、その用途を思い出せないことがある。札は、用途が書かれた長いものになっていく・・・100年間トランプ占いを続けて、占いなしで問題と解決を言いあてることができる145歳の老女がいる・・・そのような出来事や行為は、人間の力強さを示し、人間としての歪みをもつがゆえに人びとの記憶の隅に留まり、人から人へと伝承され、家族や共同体の空間に共有されつづけるのであろう。そのような肉体的・精神的なざわめきに対して、言葉や表現を与えることができないだろうか。ガルシア・マルケスが、見事に、その行間から匂い立たせたように。そのような可能性に、わたしはいま色めき、これまでにない昂ぶりを感じている。
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20歳の夏、メキシコに旅に行かなければ、わたしは、ラテンアメリカ文学には届かなかったにちがいない。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んでから、時折、ラテンアメリカ文学作品を読んできた。それは、わたしにとって、つねに、うっとりするような楽しみであった。週末から、「愛」をテーマして書かれた、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『コレラ時代の愛』(原著85年)を読んだ(どうやら映画化もされているようである)。

全編これ、愛の情動とそれをめぐる経験の記述である。フロレンティーノ・アリーサ(♂)は、フェルミーナ・ダーサ(♀)に恋をする。

平日は行き帰りがあるので、一日に四回、日曜日は荘厳ミサの帰りに一度姿を見ることができた。彼にしてみれば少女の姿を眼にするだけで十分だった。そのうち彼女を少しずつ理想化するようになり、ありえない美徳が備わっているとか、これこれの感情を抱いているだろうと空想をたくましくするようになった。二週間もすると彼女のことしか考えられなくなった・・・

フロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサからの手紙の返事を待つ間、不安と焦燥に加えて下痢と緑色の嘔吐に悩まされるようになり、方向感覚がおかしくなり、突然失神するという、コレラとそっくりの症状を示すようになる。その後、フロレンティーノ・アリーサの
愛は、受け入れられないまま、フェルミーナ・ダーサは、フナベル・ウルビーノ医学博士に言い寄られ、結婚する。

失意のどん底に陥ったフロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサのために貞節を守ることを決意するが、その後、船上であっさりと、ロサルバというどこの誰だか分からない女に童貞を奪われる。その後、彼は、フェルミーナ・ダーサを忘れるために、次から次へと女と性的遊戯にふけってゆく。しだいに、彼は、彼の愛を全うするためには、ウルビーノ博士が死ぬまで待つという強い決意をするようになる。

フロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサが数時間そこに写っていたという理由だけで、大金を支払って、鏡を手に入れる。心の底深くに、フェルミーナ・ダーサを抱いて、彼は生きてゆく。やがて、時間だけが、容赦なく、フロレンティーノ・アリーサの上に降り積もっていくのである。

彼がそれまで全力を尽くして戦いながら、ついに勝利を収めることができなかった大いなる戦闘がある。それは禿げとの戦いだった・・・それまでずっと通っていた理髪店は店主が見事な禿げ頭だったので行くのをやめ、月が満ちはじめるときにしか髪を刈らないという、新しく町にやって来たよそ者の理髪店に足を向けるようになった。新しい床屋のおかげで髪の毛が増えはじめたが、その床屋が何人もの初心な娘を犯した強姦魔で、アンティル諸島のあちこちの警察から指名手配されていることが判明し、床屋は鎖で縛られて連行された。

フベナル・ウルビーノ博士が、不慮の事故で死んだとき、フロレンティーノ・アリーサは、すでに76歳になっていた。川船会社の社長として裕福なフロレンティーノ・アリーサは、複数の愛人のもとに通っていたが、そのときは、そのうち、孫ほども歳の離れたアメリカ・ビクーニャとアバンチュールの最中だった。フロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサが未亡人となった最初の夜に、51年9ヶ月4日の歳月を経て、永遠の貞節と永遠の愛の誓いを繰り返すために、フェルミーナ・ダーサのもとを訪れたのである。彼女もすでに72歳となっていた。

過ぎ去った時間は、残酷なかたちで、老いというかたちで、二人の愛の上にのしかかるが、それでも、彼らは船で航海を続けようとする。船長がフロレンティーノ・アリーサに問う。『「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」フロレンティーノ・アリーサは53年7ヶ月11日前から、ちゃんと答え用意していた。「命の続く限りだ」と彼は言った」。

心の移ろいの克明な描写と圧倒的な背景の記述。わたしは、登場人物の気持ちに自らを重ね合わせて、漂白する二人にうっとりとして、ただただ物語の展開を追うだけであった。



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勤務する大学の一般入試二日目。多摩地域では、昨夜、雪が降り積もった。2年ぶりのことである(写真)。入試には、大きな影響はなかったようだ。授業期間が終わり、入試が終わると、次年度に向けての準備が本格化する。次年度だけでなく、大学、とりわけ、勤務先の大学を、今後、どうしていくのかという議論は、すでにというか、水面下で延々と続けられている。小手先だけの改革・調整案を聞くにつけ、大学とは、いったい何かという、やや根源的な問いにぶちあたる。「大学の敗北」を特集している『中央公論』2010年2月号を本屋で見つけ、読んでみる。吉見俊哉の「爆発の時代に大学の再定義は可能か」という論考が目に留まった。

中世における大学の誕生のベースには、全ヨーロッパでネットワーク化された諸都市間の人とモノの流通があった。人びとは、都市に集まって知識や情報を交換し、着想を磨いた。人とメディアを組織した草創期(中世)の大学は、近世の印刷技術の発明による知識の流通方式の変化に対応しようとしなかった。つまり、吉見は、大学は、近世になって、メディアやコミュニケーション環境と結びついて
変身することに失敗したのだと見る。大学は、知識の生産・再生産システムの重要な部分を担ってきたが、「あくまでその部分にすぎないことを自覚し、大学を同時代の知のネットワーク、コミュニケーションの重層的な編制全体の中で定義しなおすこと」が必要であると、吉見は述べている。

言っていることはよく分かるような気がする。彼の主張が、
大学が拠って立つ社会の知識の生産・再生産のありように深くリンクしながら、学問を、研究を、教育を、大学を再定義しなければならないということであるならば。ただ、それは、インターネット環境が提供する e-learning のような道具立ての上に、学問のありようを変えてゆくというような、単純なことではない。そんなことをすれば、社会のニーズに、大学を従属させることになるだけである。そういったことを、彼は言いたいのではない。

インターネットを用いてグローバルに知識や情報に容易に接近できる現状のなかで、知識と学問が、どのように方向づけられるべきかについて考えることを含めて、これまでの大学の遺産を継承し、教育と研究をどのようなものとして編制しなおすのかについて考えることは、たしかに大切なことである。吉見の論考には、近現代において、とりわけ、日本という土壌において、大学が担ってきた役割が、まったく触れられていない点が気にかかる。わたしたちの(日本の)大学について考えるには、その点が、出発点となるのではないだろうか。

そういった議論の捉えどころのなさにややモヤモヤ感を感じつつも、
わたしの関心は、いまのところ、大学における人類学という「虚学」(実学の反意)の役割と行方について、ちょっとだけ考えてみることのほうにある。



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自然と文化の問題を考える過程で、昨年の研究会のなかで話題となった、ウィリアム・ワイナー監督の映画『コレクター(1965年)を観た。

テレンス・スタンプ演じる蝶の収集家であり主人公の青年男性は、恋愛感情を抱いた女性を、自らの愛を受け入れてもらうために、4週の間、地下室に軟禁する。この男は、たんに愛欲に突っ走るのではなく、彼女に敬意を払って、客として迎える。しかし、終身刑さえも覚悟したこのやり方は、その意味で熱情的であるともいえるが、どうみても、事の始めから、かなり歪んでいるように思える。

軟禁された女性の青年に対する嫌悪感が消えることがないまま、やがて二人の間に連帯感のようなものが生まれ、女は男に抱かれようとするが、男は、その行為を、女が軟禁を解かれたいための芝居だと言い張り、その「偽」の愛を拒絶する。そうした屈折した感情の表現は、女に、死んで軟禁を解かれるしかないのだという諦念を含む情動を引き起こし、男を叩きのめすための行動を取らせることになる。その事件がきっかけとなり、やがて、女は病死する。埋葬を終えた青年は、収集対象となる別の女を物色するようになる・・・

一方的な愛の感情の歪みが、映画の全編をつうじて描かれていることに強い印象を受ける。そのため、中沢新一が、『くくのち』のなかで取り上げた、レヴィ=ストロースが『構造人類学2』において明らかにした、『コレクター』をめぐる解釈を認めることには、一見すると、かなり飛躍や距離があると感じられる。

レヴィ=ストロースは、『構造人類学2』において、主人公の青年男性と軟禁される女性を一つのコントラストにおいて捉えようとしている。男は、非社会的で、倫理的に倒錯した存在として、女は、上流クラス出身の文化を体現する存在として描かれているという。映画のなかで、彼女は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の熱心な愛読者であり、ピカソのキュービズムの愛好者であるが、その嗜好を、男はクズであるとして、徹底的に忌み嫌うシーンが出てくる。

この点について確認したすぐ後に、レヴィ=ストロースは、以下のように、驚くべき見方を提示している。

健康的な態度というのは—合法か違法かはさておき—むしろ青年の側にあるのではないでしょうか。彼の情熱は、現実のものに、昆虫であれ美少女であれ、美しい現実の生き物にささげられているのです。これにたいして、人工的な現代の趣味は、画集のなかだけに生きているようなヒロインに象徴されるものになっています[Levi=Strauss, Claude Structural Anthropology 2 p.179、日本語訳は、中沢『くくのち1』p.70]。

中沢によれば、青年は、「画集のなかに切り取られた自然よりも、肌を雨がぬらし風が頬をなでていくようなじっさいの自然を、人がつくったものではなく、自然あるいは神がつくったものを深く愛している」一方で、女のほうは、「自然から切りはなされた生活と趣味をもち、自然をもともとあった場所から切りはなして、それを表現の内部で操作していく、ピカソに代表されるような高級な現代芸術の趣味を生きている」[中沢『くくのち1』p.70、74]という。

完全なる逆転。レヴィ=ストロースは、自然への愛が、青年の心にひそんでいるがゆえに、健康的なのだと言うのである。現代文明の諸々の制約のもとで、自然をめでる心が、たまたま蝶や美しい女性の収集へと向かったとでもいうのであろうか。

レヴィ=ストロースの後を追うようにして、中沢は言う。「レヴィ=ストロースはここで、現代の文化的趣味の核心部分にたいして、宣戦布告をおこなっているのだ・・・私たちは、自分を蝶のコレクターであるあの青年と同じ場所に置くことができなければ、いやしくも構造主義を理解したなどとは、とうてい言えない」[中沢『くくのち1』p. 74]。

わたしたちが美しいと感じるモノは、文化という制度・制約のなかだけでゆがめられているかもしれないという直観。それは、キュービズムの批判へと向かってゆく。ピカソが生み出す芸術に関して、レヴィ=ストロースは、以下のように述べる。

The Problem of cubism is that its nature is a nature once removed, a nature such as emerges from previous interpretations or manipulations. [Levi=Strauss, Claude Structural Anthropology 2 p.278]

キュービスムが持つ問題は、もともとのものから切り離された自然を、自然そのものとして扱っている点にある。キュービズムの自然は、前もって解釈されたり、操作されたりした後に、現れるものなのだ。

美とは何か。美を愛でるとはいかなることか。自然と文化をめぐるこうした主題に沿って、より深く考えてみなければならないのではないかと思う。



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