たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



昼夜、寝食を惜しんで読書する。なぜ?旅行に、たくさんの本を持ってきたからである。読まずに、本に旅行だけをさせるということをしたくないからである。そのための読書になっている。なんだか不条理な気がする。いや、そうではないかもしれない。国内にいるときには、400ページにわたってぎっしり書かれた本を、一日と一晩で読んで、さらには、次の本を読み進むというようなことは、絶対にできない。

さて、チリの小説家・イサベル・アジェンデの『精霊たちの家(木村榮一訳、1989年、国書刊行会)を読んだ。それは、バージェ家からトゥルエバ家の四代の物語。ガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に作りが似ている。「精霊たちの家」というタイトルがついているわりには、こちらのほうが、魔術的リアリズムの要素が抑えられているような気がする。

この世のものと思えない美貌の持ち主であるローサに恋をし、フィアンセになったエステーバン・トゥルエバは、ローサを幸せにするために鉱山に働きに行き、大儲けの見通しがついた瞬間に、ローサの死の報を受ける。その傷心から立ち直るために、エステーバンは、ラス・トレス・マリーアスという父が残した農地の開拓に精を出す。「以後十年のあいだにエステーバン・トゥルエバはあのあたりでもっとも畏敬される地主になった・・・その一方で彼の猟色ぶりも度を過ごすようになった。少女から一人前に成長するまでのあいだに、女たちはひとり残らず森の中や川岸、あるいは鉄製のベッドの上で処女を奪われた」。

他方、ローサの妹クラーラは、毒物を飲まされて死亡した姉の解剖現場をのぞき見し、助手のみだらな行為を目の当たりにした後に、エステーバンに求婚されることを直観的に知るまでの間の九年間、一言も口をきかなかった。クラーラには、生まれつき、不思議な千里眼的能力が備わっていたのである。「クラーラができたのは夢占いだけではなかった。未来の出来事を予言したり、人が心の奥に秘めている考えや生涯大切に守り通し、年とともにいっそう磨きがかけられていった美徳を見抜くことができた・・・クラーラには手で触れなくても物体を動かすことができる力が備わっていた・・・」。このクラーラのシャーマニックな能力が、『精霊たちの家』というタイトルになっているようである(しかし、その精霊たちがどういう存在であるのかについては、この本には、具体的な描写はほとんどない。全体をつうじて、目に見えない世界につうじるクラーラを介して巻き起こる人間側の事実に焦点があてられる)。

やがて、クラーラは、ブランカという娘、ハイメとニコラスという双子の男の子の母となる。ブランカは、ラス・トレス・マリーアスの幼なじみのペドロ・テルセーロと恋仲になる。父親のエステーバンは、地主として、社会主義運動に熱中するペドロ・テルセーロを憎んでおり、自分の娘との逢引の通報を受けたエステーバンは、ペドロ・テルセーロを銃で撃ち殺そうとするが、指を切り落としただけで、ペドロ・テルセーロを農場から追い出してしまう。その後、ブランカによって生み落とされた娘には、アルバという名が付けられ、かつてのような精力はないが、依然として頑ななエステーバンの愛情が一心に注がれる。話は、それ以降、保守派の国会議員となったエステーバン・トゥルエバと、孫娘アルバと恋仲にある共産主義ゲリラのミゲルとの確執を描きながら、より広い社会的文脈で、選挙における社会主義政党の勝利と軍によるその政権の転覆という非常事態のなかで、トゥルエバ家の人たちが巻き込まれてゆく運命がたどられてゆく。

約百年近い年月にわたる一家四世代のクロニクル。
圧倒的に面白いのは、クラーラの千里眼的な能力をちりばめながら、家族のなかで、さまざなな事柄が生起する中盤までである(後半の政治事件に翻弄される人びとのありようは、政争の描写に重点が置かれているため、精彩を欠いているように思われる)。よろこびや悲しみ、怒りをともなって、ときには激烈に、ときには密やかに、人びとの生きざまが描かれており、そのことが、全体的には、ことのほか、気鬱を感じさせるのである。人は、内面に深い孤独を抱えているがゆえに、人は互いに関わろうとするのではないか、助けを求めざるをえないのではないか。さらには、そうした思いを実らせるために、人は深い業にさいなまれるのではないか。そんなことを感じた。



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