泉鏡花の『高野聖』を、20年ぶりくらいに再読した。 それは、高野山の僧から聞かされた話として語られる。
旅の僧は、飛騨天生峠にかかる。道連れの富山の薬売りが、危険な道を辿っていったので、僧は、彼を連れ戻すために、その後を追う。やがて、僧は、深い森のなかに迷い込む。あたりには、異様なほど、山蛭が充満している。
この恐ろしい山蛭は神代の古から此処に屯をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどの位何解かの血を吸うと、其処でこの虫の望みが叶う。その時はありったけの蛭が不残吸っただけの人間の血を吐出すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかわるであろう、それと同時に此処に日の光を遮って昼もなお暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になって了うのに相違ないと、いや、全くの事で。
僧は、一気に、幽玄の世界に入り込んでゆく。 森を抜けると、日暮れ時、僧は、一軒の孤家に辿り着く。中からは、白痴の夫をもつ女が出てきて、一夜の宿の提供を承知してくれた。さらに、女は、近くの谷川で水浴びをするように、僧にすすめてきた。一晩で、匂い立つ女の艶麗さの虜になった僧は、その孤家から出発するが、「丁度私が修行に出るのを止して孤家に引き返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思」う。ちょうどそのときに、馬売りの親仁に出くわす。親仁から、その女の正体を聞かされる。
親仁は、その前の晩に、女に鎮められた馬は、あの富山の薬売りの変わり果てた姿であり、女は、道に迷った、淫欲な旅人たちを、ほしいままに畜生に変える妖怪なのだという。親仁はいう。
御坊は、孤家の周囲で、猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう。兎も蛇も皆譲様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩!
旅の僧が、妖艶な女に迷わずに助かったのは、「感心に志が堅固ぢやから」なのだと、親仁はいう。
蛇や山蛭が住む先に開かれた怪性たちの世界。日常の空間からそれ程遠くないところに、わたしたちとは異なる存在が、別の意識や思惑をもっているにちがいないという感覚が、底知れない恐怖心を呼び醒ます。
「アニミズム」を考える過程で、泉鏡花を、ふと思い出して読み直してみたが、直観的に述べるならば、この奇譚は、なにやら農耕民的であって、狩猟民的ではないような感じがする。私の経験から言うと、焼畑民カリスの社会では、往々にして、このような奇譚のようなものが語られる。他方、狩猟民プナンの社会には、このような類の語りはない。農耕民では、人と霊との関わりの背後に動物が添えられるが、狩猟民の語りには、もう少し、動物と人間との関係が濃密であるような気がするのである。
(アントロポロギ創刊号の副産物@萌えグラファー、本文とは関係ない)