たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

鮭塚

2008年02月03日 10時50分18秒 | 人間と動物

先週の金曜日、鮭塚を見に出かけた。ひとつには、人間と動物の関わりのありようの探究の一環として。ひとつには、なぜ、横浜に鮭の墓があるのかということを知りたくて。JR磯子駅から歩いて15分くらいの場所に、金蔵院があった。その駐車場の一角にそびえる巨大ないしぶみ(写真)。石碑の裏には、いまから79年前にこの碑が建立された云われが記してあった。

建碑擔當者 組合長 畑川大作
      
副組合長 中田伴平
曠古の盛儀を挙けさせ給ふ今年は偶本組合の設立弐拾周年に相當せり隆運に會いし協和協和輯穆各志を伸へ業務の順調なるは幸慶禁ナる能はさるなり仍て同志相議り建碑を企て盬魚中最も重要品たる鮭の名に因みて鮭塚を命し以って一は記念となし一は一層結束を固うするの資となさんとせるか幸いに有吉横濱水産會長の揮毫を辱うしたるは本組合の幸榮之に過ぎたるはなし乃ち之か由来を記して他日に傳ふと云爾

昭和三年十一月
横濱市盬魚商組合
陸前石巻 石井敬三郎

これを読むと、水産組合二十周年を記念して(明治期末に設立のようである)、その間業務も順調であり、取り扱い品目のうち、最も重要な鮭の名にちなんで記念碑を建てて、組合の結束を固め、さらなる発展を祈るというようなものであったように思われる。どうやら、鮭や魚に対する供養のためというよりも、大正・昭和期の産業の発展を背景として、組合の振興を記念し、さらなる発展を祈願するための碑であったような印象を受ける。その並外れた大きさを誇るいしぶみは、当時の水産業の勢いのようなものを示しているように感じられる。

しかし、その石碑は、最初からそこにあったのではない。それ
は、新杉田にある牛頭山(ごづさん)妙法寺にあったものが、建立50周年を機に、現在の金蔵院に移設されてきたらしい。石碑の向かって右前にある、小さな石碑の裏面に、その旨が記してあった。「魚塚(鮭塚)の由来」が書かれた小さな石碑は、写真では、右前の灯篭の後ろに隠れてみえない。その大きさのちがいは、水産組合の財力=勢力の変遷を示しているように感じられる。以下は、その小さなほうの石碑に書かれていた文言である。

魚塚(鮭塚)の由来
この題字は当時の市長有吉忠一氏の揮毫になるもので昭和三年塩干商業組合が牛頭山妙法寺の中央小島に建立し爾来五十年の永きに亘り業界発展の願いを込めて毎年十一月に供養を続けて来た
大戦後は中央市場水産部自治会が此の碑の維持管理に当たって来たが此の度建立五十周年を期し当海向山金蔵院の境内に移転改修をすることとした
爾今は魚類全般の象徴として子々孫々魚介類の供養を行い水産関係者の繁栄を祈願する
昭和五十年十一月
横浜市中央卸売市場
本場水産部自治会
南部水産部自治会


最後の文に、「爾今は魚類全般の象徴として子々孫々魚介類の供養を行」うとある。爾今=今から後には、鮭塚は、魚類全般の象徴となり、それゆえに、鮭塚は魚塚でもあるということだろうか。さらには、その魚塚(鮭塚)をつうじて、それ以後、
魚介類の供養を行うということではないか。そこには、思想の転換みたいなものがあったようにも感じられる。この石碑に限っていうならば、魚類の供養というのは、組合の隆盛に煽られて、横浜市長の肝いりで碑が建てられた半世紀の後に、新たに出てきた考え方であるようにも思える。そのことが正しいのかどうか分からない。もしそうだとすれば、その背景には、いったい何があったのだろうか。謎は深まるばかりである。何ゆえ、石碑を移設したのだろうか。毎年11月に供養祭が開かれるという。そういった機会に出かけていって、考えてみたいと思っている。


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
鮭塚 (まき)
2009-09-29 06:04:09
こんにちは

中田伴平、この人私の曾おじいさんです。
明治時代に横浜で乾物屋をしていて
その当時は鮭が沢山獲れて、
かなり繁盛したそうです。
その感謝の意味をこめて
鮭塚を建てたんだよ、
と私のお祖母ちゃんが話していました。
私も一度だけ鮭塚に行った記憶があります。
とても懐かしいです。
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