昨夜は、Nさんの家にお邪魔して、たっぷりと時間をかけて話すことができた。すぐれたオーディオ機械から響き渡るモダン・ジャズによって生み出された音の快楽空間。50年代後半に、モダン・ジャズは、その頂点をきわめた。わたしは、もう20年以上も前に、モダン・ジャズに一時期狂っていたことがあった。あちこちのディスク・ユニオンで、中古レコードを買いあさった。Nさんのコレクションに刺激されて、あぶりだされる、わたしのモダン・ジャズの記憶のかけら。ソニー・ロリンズの"Sonny Rollins"があった。A面の3曲目"How are Things in Glocca Morra(グロッカ・モラを思う)"。この曲を高く評価するジャズ批評家にお目にかかったことはなかったように、わたしは記憶している。ドナルド・バードの短いトランペットから始まり、ソニー・ロリンズが重厚なメロディーを奏でる。とろけそうだ、とでも表現できそうな、聴覚のなかに現れる触覚。ウィントン・ケリーのピアノ・ソロにつづいて、ソニー・ロリンズによるサビから、ふたたび、ドナルド・バードの絶妙な短い締めくくりへ・・・2回聴いた。いったい、なぜその時代に、ジャズは、そんな高みへとたどり着いたのだろうか。Nさんのコレクションのなかから、ふと手にした「ハーヴァード・スクウェアのリー・コニッツ」の本人によるライナー・ノーツに、その手がかりを見つけることができたように思う。4人の演奏者は、毎晩毎晩演奏しつづけて、人まねはだめだと言い合って、ようやくのことで頂上に達したのだという。そこには、妥協を許すことなく、あくことなく探究をつづける、刺激しあう仲間と空間があったのではないか。ふと思う。人類学は、ある意味、モダン・ジャズではないのかと。反省へと無限に後退し、わけが分からなくなって、しょんぼりとした学問に対する、若手の側からの内破の胎動を、最近聞きにいった社会学系の講演会で、Nさんは感じたという。そのような道行きは、われわれの「来るべき人類学」というプロジェクトに、シンクロするのではないだろうかとも思う。楽観的すぎるだろうか。話題は、プナン人が反省しないことについて。Nさんから、またしても、たくさんの貴重なヒントを与えてもらうことになった。ドゥルーズは、スピノザを再解釈して、倫理を個人の内面の問題として捉えたのだという。他方で、道徳とは、西洋哲学においては、社会が与える道筋のようなものとして捉えられてきたのだという。さらには、キリスト教を経由せずに道徳について考えようとした、ニーチェの『道徳の系譜』。キリスト教の告解は、反省であり、善悪の内面化を促した。酔っ払ったせいで、わたしの理解は、まちがっているかもしれない。いずれにせよ、それらの思考の系譜を辿りながら、反省することやしないこと、倫理や道徳という問題について考えてみたいと思っている。さらに、Nさんからは、日本の右翼思想が、アニミズム的なものに根拠を求めたということを書いている本を読んでいるということを耳にした。これは、宗教を考える上でほうっておくことができないテーマである。今後の課題として、備忘のために。家に帰って、ジャズのレコードを引っぱり出した。あった、ロリンズのブルーノート1542番が。装置が貧弱で音に迫力はないが、繰り返して聞いている。
(写真: Sonny Rollins Blue Note 1542, Recorded December 16, 1956)