たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『箱男』

2010年10月04日 07時46分40秒 | 文学作品

昔、『箱男』はぶっ飛んでいると聞いたことがある。一読して、たしかに、そうだと思った。しかも、とびっきりの問題作だ。

箱をかぶって暮らす男、箱男。彼は、市民社会の価値体系のなかで周縁化された乞食や浮浪者とは異なる。箱男は、自発的に、市民社会の価値体系から離脱する存在であり、都市空間を浮遊する。箱男が絶望的な思いを寄せる看護婦や、彼女の内縁の夫である偽医者(=贋箱男)とのやり取り、その背景にある、偽医者と彼のかつての上司・軍医殿との関係、軍医殿の麻薬中毒と死などが語られる。

面白いのは、<見ること>と<見られること>をめぐる安部公房の洞察である。

安部によれば、露出狂は過剰性欲ではなく、むしろ抑制された性表現だという。露出狂者は、実在する個々の異性に対しては、病的な羞恥心を抱く。逆に言えば、醜さの自覚である。露出行為によってオルガスムに達するには、相手が自分の性器を覗くことによって、性的な刺激を受けていると想像することが必要である。嫌悪を示されるのも興ざめだが、好奇心をむき出しにされるのも腹立たしい、見て見ぬふりをされるのがなによりのはげましになるのだという。相手が視姦者として、自分の露出行為に加担してくれることへの願望があるという。安部は、露出症は、鏡に映した視姦行為だという。

自らのどうしようもない醜さへの羞恥心をバネにして、日常空間において、そこに居る人びとのうち、それとなく試みが成功しそうな相手を探し出し、ひそかに、性器を含めて、自らの全てをさらけ出す。嫌悪され、見ぬふりをされる一方で、見られることに加わってもらっていることを強烈に意識することによって、露出狂者は、絶頂に達するのだ。人の心理のなんと複雑で、過剰なことか!(わたしは、一度、露出症の女に会ったことがある)

逆に、《Dの場合》と題する章では、少年Dがアングルスコープで、女教師のトイレを覗こうとして本人に見つかり、親に通報すると脅され、真っ裸になるように命じられて、部屋にひとり残される場面がある。
少年Dは、「観念した。自分の醜さに耐えながら、上衣をとり、シャツを脱ぎ、ズボンを下して裸になった。勃起した。だのに、なんの反応もなかった。ドアの向うはしんと静まりかえっているのだ。鍵穴から視線が黒い光になって突き刺さってくる。視界から色が消えて、明暗だけになる。足の裏から感覚が消えた。よろけそうになったはずみに、小便をもらしかける。小便ではなく、射精だった。途中でこらえることは出来なかった」。女教師は、部屋を出て、鍵穴からその様子を覗いていたのだ。

少年Dは、みじめな部分をさらけ出すことによって、女教師のトイレの覗き未遂事件に対する
お仕置きを受けたのだろうか?いや、少年Dは、その「お仕置き」によって、見ることよりも見られることのほうが、絶頂の度合いが高いことを、思い知ったのではないだろうか。

箱男は、ダンボールの前面に空けられた覗き窓から、世間を覗きみる。視覚が、箱男にとって許された唯一の、
すべての感覚だ。感覚の一点への集中といってもいいかもしれない。だから、「眼から唾が出る。他人に毀される前に、自分の手で毀してやろうと、つい気負いこんでしまうのだ。上下の瞼には歯が生える。彼女を齧る妄想で、ぼくの眼球は火照り、勃起してしまうのだ」。眼から唾が出て、眼球が勃起する。視覚は、味覚に近いものを感じ、身体反応を起こす。

Aは、最初、アパートの下にいた箱男が目障りでたまらず、空気銃で脅して、見事、箱男を退散させることに成功した。しかし、その後、彼が冷蔵庫を買ったときに出たダンボールの箱に入ってみると、ひどく懐かしく感じられたのだ。その後、Aは箱をかぶって、町へ出て、アパートへは戻らなかった。箱男となったのだ。箱は、日常の秩序やルールや人間関係から生じるストレスなどを遮断する。箱男は、その後、箱の内側で、新たな、居心地のいい、
自己の世界を築き上げるのかもしれない。

ウェブ上には、京都の
箱男の体験記が紹介されている。
http://yattemiyou.net/archive/hakootoko.html

安部公房『箱男』、新潮文庫 ★★★★★(2010-36)


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