落葉松亭日記

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終戦記念日

2022年08月15日 | 歴史
77回目の終戦記念日。
終戦の直前、勝敗が見えているのに、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し数十万人虐殺した。その罪ほろぼしか、食糧その他の援助物資を敗戦日本に届けた。
当方は1944年生まれだが、物心つくころには平和になっていた。
しかし街角で白衣姿の傷痍軍人が募金に立つ姿がみられ、ラジオでは尋ね人の放送があり、海外からの引き揚げ者のニュースが続いていた。

父親(1912-1999)は二回目の応召でボルネオに行った。
昭和20年1月から終戦にかけて、所属の大隊がタワオ〜サンダカン〜ブルネイまで数百キロのジャングルを行軍した。多くの将兵が飢餓や熱病で斃れ、「サンダカン死の行軍」とも云われている。所属の大隊1007名、戦死者653名。
記録を読むと、その作戦の目的、命令下達の状況が今日でも不明という(松本国雄著「回想のキナバル」)。
幸い父は帰還したが、数年はマラリアが再発して寝込んでいたこともあった。

今年2月、ロシアがウクライナに侵攻した。
3日で終わるとプーチンは豪語していたが、既に半年が経過して、終わる気配がない。民族問題やウクライナのNATO加盟などがからみ解決の目処が立たないのだろう。ウクライナの多くの都市が瓦礫になり、ロシアが侵攻して占領したとしても人心には恨みが残り、何の意味があるだろうかと思われる。


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2 コメント

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しょうた様 (落葉松亭)
2022-08-17 18:54:20
終戦の日の宮城前広場では、しょうた様と同じように考え悩む人々が跪くシーンをニュース映画で見ましたね。
私は伊丹市におりましたが、昭和27年位まで占領軍がいたでしょうか。米の兵隊さんが我々子供相手に遊んでくれました。あれは宣撫工作の一環だったのでしょうか。親たちは苦々しく思ったことでしょう。
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Unknown (しょうた)
2022-08-17 15:03:46
終戦記念日の時やって来ると、その時のことが今でもまざまざと目に浮かびます。
当時私は、16歳になったばかりの少年でしたが、軍隊に志願して通信の仕事をしていました。
当日の昼前頃、「今日は重大放送があるから、みんな広場に集まって聞くように」と言われていたので、時間が近ずくと広場に集まりました。
「どんな放送があるのだろう?きっと、やがてアメリカの軍隊が本土へ上陸してくるから、みんな命を投げ出して敵、撃滅のために戦え!と言う放送に違いない」と思っていました。
やがて放送が始まると、私にはスピーカーから流れ出る音声が上手く聞き取れないので、やっぱり「耐えがたきを耐え忍び難きをしのんで、敵と戦え」と言うことか・・・と思って聞いていると、周囲から「戦争が終わった!」と、ざわめき出しました。「えっ、戦争が終わった?じゃあ我々はどうなるんだ?」16歳の少年は驚くと同時に大変悩みました、
8月15日が来ると、そのような当時の事が思い浮かんできます。
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