初歩き(01/10)の後遺症がようやく癒えてまた歩きたくなった。
午後、藍那の田んぼからしあわせの村まで歩いた。
星和台の西を抜けると藍那の里に入る。昔は美しい棚田が広がっていたと想像される。
現在国営明石海峡公園として再開発整備工事が始まっている。
今日は人っ子一人いない山道だと思っていたが、途中で古道「徳川道」を研究している人に出会った。
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午後、藍那の田んぼからしあわせの村まで歩いた。
星和台の西を抜けると藍那の里に入る。昔は美しい棚田が広がっていたと想像される。
現在国営明石海峡公園として再開発整備工事が始まっている。
今日は人っ子一人いない山道だと思っていたが、途中で古道「徳川道」を研究している人に出会った。
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棚田に郷愁を感じます。想像しながらスライドを拝見致しました。
モノクロ写真が冬枯れの景色を如何なく醸し出しています。凄いです。
実の残った柿の木が、いかにも物悲しい感じがしますね。
さっそくご覧いただきありがとうございます。
少し陰鬱な雰囲気がしてしまったかと思います。少しでもそれを軽減するため1枚だけカラーをいれてみました。
実際の風景はもう少し明るく、私の気分も明るいものだったのに、モノクロは難しいです。まだまだ研究の余地があると思っております。
2枚目の写真でため池の向こう側は、棚田が広がっていたはずです。かつてはお百姓さん達がここで四季を通じて農業を営んでいたのですね。今はススキや熊笹、セイタカアワダチソウの原野になっています。この藍那の里では、農村と都会の交流活動が行われ、いろいろな体験学習ができるそうです。
しょうた様
さっそくご覧いただきありがとうございます。
古道「徳川道」の朽ちかけた標識がありましたがはっきりとしません。六甲山系の中ではハイキングコースとして歩いたところもあるのですが、この藍那の里付近から明石にかけては、これからテーマにして歩いてみたいと思っています。
webで「徳川道」について以下のような説明があります。
「 兵庫開港により、外国人と大名行列との衝突を避けるため、西国街道の迂回路として背山に作った道が世にいう「徳川道」です。慶応3年(1867年)に着工し、約1か月の突貫工事で完成しました。石屋川で西国街道と分かれ、今の護国神社の西から山道に入ります、杣谷から森林植物園の中を通って、小部、白川、高塚山を経て明石の大蔵谷で再び西国街道と合流します。約33キロの道で、現在、摩耶山裏の谷筋が「徳川道」のハイキングコ-スとして整備されています。」
モノクロ写真は若い頃フィルム現像からプリントも自分でやっていましたので好きです。これからもやってみたいと思っております。デジカメ画像から色情報を除くだけでは、昔のモノクロ写真のようにはならないと実感しています。それが何なのかが課題です。
nonaka様
ご覧いただき有り難うございます。nonaka様の身辺生活写真いつも拝見しております。
徳川道はそのような衝突を避けるために造られたのですか。当時の幕府がイギリスに気兼ねして、急いで造ったのですね。
そのような道が現在ハイキングコースとして現存していると言うのもなんだか考えさせられますね。まさか当時は百何十年か後には、このように利用されるとは思っていなかったことでしょう。
それにしてもあの山道を1ヶ月で完成するとは、偉いですね。しかし、翌年王政復古ですから大名行列には使われなかったのではないでしょうか。もし山道を通ったとすれば大名行列の苦労は大変なものだと思います。