かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

根岸競馬場跡(日本初の近代競馬場)

2006年01月15日 | Yokohama ( Japan )
横浜の競馬場跡が、現在根岸の森林公園になっているのは、結構知られている。公園の説明書きによると、経緯は以下のとおりらしい。
最初の洋式競馬は、1862年(文久2年)山下町付近で、行われた。この根岸競馬場ができたのは、1866年(慶応2年)。1周1.5kmで、最初のグランドスタンドは、W.A.ドーソンにより設計された。1867年(慶応3年)に、第一回競馬会が開催された(まだ、大政奉還前!!)。
明治に入り、明治8年に西郷従道が日本人最初の会員となり、愛馬”ミカン”に乗り、見事優勝。その後管理は、外国人から日本政府に移り、春秋二回レースが開催された。1930年(昭和5年)に、J.H.モーガン設計により、新スタンドが完成したが、1942年(昭和17年)のレースを最後に、日本海軍の管理になり、終戦後の昭和22年より米軍が使用。昭和44年に一部日本に返還され、根岸森林公園となり、昭和57年にスタンドが返還され、横浜市の管理になった。

ちょっと長い要約になったが、驚くべきは、外国人が日本に入って来て3年後にはもう競馬を始めているということと、昭和17年以降、なぜか軍の管理下になり、戦後も米軍に長く接収されていたことである。米軍の接収は、実は今も続いており、住宅地と根岸森林公園に挟まれた地区に米軍の施設がまだ残っていて、”Y”で始まるナンバーの車が行きかっている。競馬がすぐ催されたのは、よっぽど当時の外国人が遊び好きだったか、よっぽど当時の日本が退屈だったかのどちらかだろう。この歴史を見ても、いかにも横浜らしいところなのである。
一番感銘を受けたのは、1930年にできたスタンドが、立ち入り禁止ながら、まだ残っていたことだ。廃墟にまではなっていないが、巨大で、蔦が絡まる異様な建造物は、絵になる。
この立派な建物をどうにかうまく活用できないか。たぶん誰か考えてくれてるかな。

ついでながら、馬の博物館では、”古代中国・馬と人間の歴史”という展示をやっています。杏葉(ぎょうよう)なるものを、生まれて初めて見ました(昔、馬の顔につけていた金属製(または皮製)の飾りのようです)。西安で見た秦の時代の銅馬車の複製品が展示されていますが、これは、出来が悪く、やや興冷めです。
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