山上と麓にお城があった宮崎市の砂土原城。城主は代々変わって島津氏から家康の部下庄田氏が明治まで続いた。
江戸時代の屏風には、山上の天守に三重櫓が書かれていて、発掘の結果、天守台跡から金箔瓦が出土したそうだ。三重の天守、あっんだろうね。
大手道から山城に登るも、半分ほどで通行止め。山城はこれがあるからね。
(山城を見上げる)
(ここから大手道)
(大手道を登っていく)
(ここで通行止め)
下に戻り、麓の遺跡を見学。役所の跡だ。
(中の道というもう一本の道、こちらも通行止め)
しようがない、麓の鶴松館を見学、館のパンフフレットに、鯱を載せた三重の天守の描かれた絵があった。そして金箔の破片を顕微鏡で見れた。
この砂土原城は、明治維新後、西南戦争で、西郷軍へ多くの若者が参加したそうだ。そうか、西郷軍だったか。しかし、南九州は、山城多いね。平城が懐かしくなってきた。次はようやく、平山城の延岡城だ。