廃城になった原城にキリシタンたちが立て籠もった島原の乱、最後は一揆勢は全滅、城主の松倉親子、親の重政は戦死、子の勝家は、乱の責任を取らされ、斬首(罪人)となった、悲劇の城だ。原因は、豪華な島原城の築城と、それに伴う重税、キリシタンの弾圧であった。
まずは三の丸跡、一揆勢3,500人が守りを固めた場所。
今は何もない場所。車道に車がひっきりなしに通り、ちょっと危険。
二の丸跡、ここには一揆勢5,700人が守りを固めた。
二の丸そばには、大きな堀切かな。
本丸跡が見えてきた。それにしても広い、一揆勢二万数千人が立て籠ったことだけある。
本丸跡に到着。夕方のため、閉店しない前に、管理事務所でスタンプをゲット。
本丸正門と枡形虎口の跡だ。
天草四郎の像だ。青白い優男のイメージと、ちょっと違うな。
百名城スタンプにもなってる三体の像。海方向を向いている。
池尻口門跡、ここ、ブラタモリでタモリが来たそうだが、私は見てない。
原城は乱が終わったと、破城された、しかし、石垣は少し残っている。
下層の大石は、乱の前からのもの、上層の小石は、立て籠った女子供が乗せたものらしい。
ガイドさんがいろいろ説明している途中、同じツアーのあるじいさんが、割って入って、文句を垂れる。天草四郎は、実際いなかったんだとかなんとか。その説は聞いたことがあるが、この場で言うことでもない。このじいさん、今回のツアーで、時々場違いな講釈をする、迷惑なじいさんだ、なるべく話をしないようにする。