「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

トイレ考@七里ガ浜自宅(3) ウォシュレットとJ.スタインベック

2009-07-13 00:05:43 | 内装・インテリア
温便座やウォシュレットさらにそれに付属する高い機能のこうした普及は、日本に特異な現象と言える。例えば欧州の古い名門ホテルには、普通はない設備である。逆にあると若干品位が落ちてしまうというが、彼らの感覚であろう。ウォシュレットもあればあったで便利だが、健康上の特別な理由がなければ、それがないからと言って特に不衛生で困ることもない。「そんなもの見たこともない」という人の方が世界には圧倒的に多く、それがないことが理由で寿命が短くなるということもないのだから。

最近オフィススビルや飲食店でもウォシュレット完備のトイレをよく見かける。しかし私は外ではウォシュレットを絶対使わない。あの「ノズル」という部分が汚いからである。外のトイレではあのノズルがかなり上の方まで相当汚れているが、そうであるなら、私も利用時にノズルを汚しているのだろう。そして私がウォシュレットを利用している間、水はまず私のお尻にかかりそこからノズルに落ち、その水の一部は無数の人々が汚したノズルの上をつたって、その汚れを溶かし込みながらまた水の噴出孔そばに戻り、噴出する新たな水に混じって再び私のお尻にかかる場合もあろう・・・などと考えていると、とても外でウォシュレットを使う気に私はなれないのである。「自分のお尻はもっと汚いのだから、それはおかしい」と言う人もいるが、私は嫌である。水自体がキレイだとしても、例えば洗面所であまりに不潔で汚れたままの蛇口から出た水を使い、手を洗おうとは思わないだろう。ウォシュレットの場合は、水自体が汚い可能性もある。


<フリー画像素材より。欧州のどこかのトイレ・・・らしい>

ところが現在20代あるいはそれ以下の年齢の人に、ウォシュレットがないとトイレが出来ないという人が出始めているらしい。彼らは別に痔や便秘などの体質の問題を抱えているわけではないし、それがないと不潔だから出来ないと考えているわけではない。彼らはウォシュレットでお尻を多少刺激してもらわないと「出せない」のである。彼らは生まれた時からすでに自宅に温便座やウォシュレットがあっても不思議はない世代だ。汚れたお尻を洗うという本来の目的だけでなく、汚れてもいないお尻を最初からウォシュレットで刺激して排便するという利用方法に、小さい時から馴れてしまった世代なのである。最近のウォシュレットには「マッサージ機能」なるものがついている時代だから、それも至極当然か。

世界の多くの人はウォシュレットがないままに健全な生活を送っている。逆にいうと日本人がウォシュレットがあるからと言って、保健衛生的に他国民比優れているとは考えにくい。一方ウォシュレットがあるために、日本人若年層は「きばる力」を低下させている。長い間にはウォシュレットの普及が日本人の能力のひとつを相対的に低下させるかもしれない。


<かつての私・・・ウソ。これもフリー画像素材>

トイレに座ってこの「日本の若年層のきばり能力低下の問題」を考えていると、私は学生時代に英語のテキストとして読むことを強要されたJ.スタインベックの「アメリカとアメリカ人」のある箇所を思い出してしまう。なぜそんな大昔の本の内容を覚えているかと言うと、それがカリフォルニアの日系移民のことを書いた内容だったからだ。日系移民がアメリカで二世、三世と世代を経るにつれ、その体質、肌の色、顔つき、身長、体型がどんどん変わって来る様をスタインベックが生き生きと描いている。昨日私はインターネット上でその文章を探した。本のタイトルすら忘れていたくらいなのでかなり時間がかかったが、そのものを見つけた(末尾参照)。

かように生活環境、習慣、食べ物が変わるだけで、わずか数世代で日本人のからだが大きく変わるのだ。ウォシュレットもわずか四半世紀ほど前に生まれたひとつの生活習慣である。日本の若い世代の一部に見られる、極度のウォシュレット依存症は今後ウォシュレットのさらなる普及と高機能化につれ、ますます顕著な現象となるのではないか。そしてこのまま数世代を経たとしよう。おそらくこの習慣は欧州では永遠に普及しまい。するとその時、ウォシュレット・マニアである日本人だけが、ウォシュレットと心中しそうなくらい「きばる力」を低下させてしまっているのではないだろうか。

学生時代の読みモノを思いだしたり、日本の将来の世代の体質を憂えたり。「座りションベン」をすると、やたら長い時間「思考トリップ」に入り込み、トイレを占領してしまうのである。


J.スタインベック「アメリカとアメリカ人」

以下の文章が、スタインベックの日系移民についての記述。
The American look is not limited to people of Caucasian ancestry. In northern California, where I grew up, there was a large Japanese population, many of whom I knew well. The father and mother would be short, square, wide in the hip, and bowlegged, their heads round, the skin quite dark, the eyes almond with that fullness of the upper lid which is called Oriental. How does it happen, then, that their children and grandchildren are as much as a foot to eighteen inches taller than their parents, that their hips are narrow, their legs long and straight, the skin lighter, and the eyes, while still recognizable as Oriental, much less alinond in shape and the fleshy tipper lid much less pronounced? Furthermore, their heads are mostly long instead of round. This happens through no intermixture of other blood. It is easy to say that a change of diet has accomplished this change, but that cannot be the only factor; and it is interesting that when one of these Nisei go to Japan they are spotted immediately as Americans. These boys and girls are pureblooded Japanese-and yet they are pure Americans.

コメント (2)
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