(画像は
Cotswold-Gallery(UK)から頂いた)
次になぜこうした問題が頻発するかを考えたい。これは我が住宅地固有の問題ではなく、日本国内に広く見られるものであろう。つまり住宅環境に関する国民的感度の低さ、あるいはそうならざるを得なかった歴史に起因するのではないだろうか。私は概ね次の3つの原因があると思っている。
①短い住宅の建替えサイクル
②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
③希薄な「景観の公共性」という概念
今回はこのうち最初の2つだけについて書いてみたい。
①短い住宅の建替えサイクル
我が国の住宅は次々と壊されて建替えられてしまう。確かに高度成長期に建てられた一般の住宅など、今見るとあまりに低質なデザインかつ素材感覚のモノが多い。木造でも鉄筋コンクリート製でもだ。ではすべての住宅がそうかというと、そうではない。江戸時代の豪農の木造家屋の中には今も立派に残っていて、ますます貫禄というか、歴史の重みを感じさせたりする建物がある。ということは方法(素材選びと美的センスとその後のメンテナンス)さえ間違えなければ、日本の住宅ももっと長く使われるだけの価値あるモノになるのだろう。ところが実際にはどんどん建替えられ、築40年の住宅が売却されその後50年使われました、などという話はほとんど聞かない。
②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
おまけに我が国は少数の巨大ハウス・メーカーが住宅市場のかなりのシェアを握るという変わった国である。そうしたメーカーはクルマ等工業製品の如く住宅の新モデルを発表する。「●●モデル-A」とか「▲▲シリーズ-II」などと、スタイルや構法の違い(実は根本的には同じ)を強調して、次々に最新スタイルの「製品を発売」する。独立系工務店も後からそれについて行く感じだ。設計事務所は最近がんばっているが、なんとも自分勝手なフォルムを強調したデザインが多い。今となっては何が本来あるべき建築様式かわからず、我が国それぞれの地方に存在したはずの古典的なスタイルの建築を施主が求めようとすると、かなり高額な出費を迫られる。結局古い家並みを維持しようというカルチャーは消え失せ、全く異なる様式の住宅が隣り合って次々と建って行き、さらにそれがまた別のものに建替えられて行くというのが、我が国の多くの住宅街の混迷した状況である。
こうして我々は我々を取り巻く景色がどんどん変化することに慣らされて行く。その変化が周囲の現況と対比していかに突飛なものであろうと、以前と歴史的つながりを持たないものであろうと、整然とした分譲地においてある1区画が分割され景観のリズムが損なわれようと、緑が無くなろうと、平気になってしまうのである。
上に掲げた画像をご覧頂きたい。最近日本でも人気のイングランド・コッツウォルズ地方の景色である。何もコッツウォルズ地方だけではない。彼の国ではこうした風景が都心から少し離れるだけで当たり前のように見られる。こうした所で家を壊して2軒の家にしたり、例え1軒でも全く異なる様式の家を建てることは、どちらも犯罪に等しい。もっともそうしたことは起こらないのである。行政がちゃんとしていて、法的に許されないからだ。日本で道路沿いによく見られるように、カーポートとして屋根と支柱をつくることや、スチール製の物置を置くことすら許されないだろう。
世紀をまたいで何年経っても同じ景色、隣家と違和感無く溶け合う家並みが保たれる。単なる建築物が、石や木等の自然物に近くなる長い長いプロセスである。しかし古いまま放ったらかしかと言うとそうではなく、きちんとメンテナンスされている。東西南北の方角とは無関係に、どの家も道路を向いてデザインを整えてあり、前庭も世話が行き届く。電柱とそこからたくさんぶら下がる電線はないし、コンクリートで固めて駐車場と建物に出入りするための通路だけが並ぶという風景もないのである。そもそも建物に年月が醸し出す風情がある。こうしたところに暮らせば、自ずと考え方も違って来るらしい。やはり民度と歴史と行政に違いがあるようだ。
こういうことを私が言うと「日本は地価が高いから仕方が無いのだ」という人がいまだにいるが、その人には考えを改めてもらわねばならない。日本が停滞し地価が20年間下がり続けている間に、彼の国は経済がV字型に回復して1人当りGDPは日本を抜き、地価はほぼ上がり続けていまや逆転している。インターネットで、ド田舎であるコッツウォルズ地方の不動産価格を調べてみれば、驚かれることであろう。それでもここまで環境が保たれることに我々は敬意を払い、ものの考え方や制度を見習うべきだろう。