「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

八ヶ岳西麓原村の春

2008-04-30 22:42:38 | 環境・土地


久しぶりに八ヶ岳西麓(長野県諏訪郡原村)の標高1600mの高地にある我が山荘を訪れた。3ヶ月ぶりである。ゴールデン・ウィークとは言え、まだ寒い。4月26日、27日あたりは気温が上がらなかった。最低気温が3~4度。最高でも10度くらいだっただろうか。周囲にある山荘の北側で一日中日が当らないところは、少しではあるが雪が残っていた。滞在中日を重ねるにつれて徐々に気温が上がり、本日午後には気温が20度近くまで上昇した。間もなく雪も完全になくなるだろう。



この画像はタラの芽。我が山荘の敷地にもタラの木がある。芽は天ぷらにするとおいしい。山菜好きが目の色変えてこれを追いかけている。ところが多く取っても、そんなにたくさん食べられるものではない。まだ芽が固いようだ。もうちょっと待たないと食べられない。



この画像は唐松の芽吹き。日本の森林政策の過去の失敗の象徴のひとつが、唐松ばかりの林である。八ヶ岳西麓も唐松が多い。我が敷地には桜やナラやモミジなどの広葉樹もあるが、多いのはこの唐松と白樺で、残念ながら植生的にはあまり豊かな感じはないのである。

どの画像もここ数日で撮影したもので、この地の寒さがご理解頂けよう。春爛漫という感じにはまだ時間がかかるのである。桜のつぼみなどまだ固くて固くて・・・。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(6)

2008-04-24 18:49:57 | 環境・土地

画像は当住宅地内にある遊歩道である。「緑のプロムナード」という公式名称が与えられている。クルマは侵入禁止である。当住宅地の道路は悲しいくらいほとんど直線ばかりで設計されていて、この遊歩道もその例外ではない。しかしクルマが侵入禁止のわりには道幅がそれなりにあり、両側に植栽を設け、その植栽部分と歩道ブロックの部分とが曲線で仕切られている。おそらく当住宅地内で、最も豊かに見える景観を提供している所ではないだろうか。

豊かに見える理由は簡単である。私がこの「西武七里ガ浜住宅地の住民協定」で嘆いて見せた様々な事象の、おおよそ反対のことがここに集約されているからである。まず、この遊歩道に沿って土地区画の分割が見られない。分割しようにも、非常に難しいのである。なにせ区画の遊歩道側はクルマ侵入が不可であり、反対側の道路からのクルマの侵入は、分割した場合非常に難しくなるからだ。またクルマが侵入禁止であるからして、「スーパーの駐車場状態」とも描写される、クルマの一部と通路だけが見えるコンクリートで固められた風景はない。あるのは豊かな植栽と、人間が歩いてそれぞれの敷地に入る小さな出入口だけだ。大小様々な樹種が植えられ、それもよく手入れされて人々の目を楽しませてくれる。その合間合間に小さな門扉が、一定の距離を置いて見えるのである。

誰もがこの遊歩道をニコニコして通る。この静かな住宅地で、遊歩道は週末ともなれば絶えず人が往き来する。なぜだろうか。すべては環境、景観が人を呼んでいるのだろうと私は考える。

今年度自治会から協定について説明があるという。有意義な話であって欲しい。協定は「最低限これだけは」という住民の守るべきルールである。「個別の事情を斟酌して協定違反すら容認する」などということであって欲しくないと思う。出来ることなら、図々しい人達が協定違反することが無いよう、法律に順ずる地区計画を定めて欲しい。

協定の存在について説明を省略した、あるいはそれを無視した不動産業者や工務店と契約したため、協定の条件を満たさない土地建物を購入してすでに当住宅地に住んでいる人にとって、これまでの私の主張は不愉快な部分を含むかもしれない。実は私も、以前住んでいた住宅地で同じ経験を持つのだ。

昔々の話である。私はある住宅地に土地を買って家を建てたが、その家はその住宅地にあった協定の基準を満たさないものだった。うかつにも、そのことを私は家を建てた後で知った。さらにその後、不安定な協定を止めて法律に順ずる地区計画をその住宅地でも制定しようということになった。私は自分の家がその地区計画の基準を満たさないものの、その制定には同意した。地区計画は、制定以後は基準を満たさない建築や土地の分割を認めないが、制定以前のものについてはあるがままの状態でそのまま認める、というものであったからだ。また地区計画は住宅地の環境保全にも役に立つと思われたからでもある。こうして協定の基準を満たさなかった家に住む私も、地区計画を受け入れ、その住宅地で長年協定を遵守して来た周囲の住民の皆さんの環境保全の努力の結果から、恩恵を十分に受けるようになったのである。

さて、当住宅地の住民の皆さんはどうお考えなのだろうか。「環境などどうでも良いことだ」とは誰も思っていないだろう。もしそうであるならば、是非住民全員で当住宅地の今後の環境の劣化の防止、出来ることならその向上に力を合わせたいものである。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(5)

2008-04-23 21:55:44 | 環境・土地

協定違反が頻発する背景について、前回私は3つのポイントを挙げたが、そのうち最後のものは書けず終いである。それについてここで説明したい。それは、我々が「景観の公共性」という概念をあまり持ち合わせていないということだ。

以前このブログで英国のチャールズ皇太子の著書「A Vision of Britain」を紹介した。大胆に意訳してしまえば、全編に流れるその主張はおおよそこんな内容だ。『建物は周囲の建物や環境と調和することが大事である。建物が高さ、様式、デザイン、材質、色彩等においてその調和を失うと、周囲の景観は品格を失う。歴史的連続性や伝統を失うと、建物はその魂を失う』

前回このブログで掲げた画像にあるコッツウォルズ地方の家々の風景は、正にこのチャールズ皇太子の主張を体現しているかのようである。街でも郊外の住宅地でも、ある建物はそれひとつだけで存在しているのではなく、周囲の建物を含む近隣の環境と溶け合って大きなひとつの景観を形成している。生活環境という意味でも、経済的資産としても、ある住民が所有する土地建物とその近隣住民の土地建物は、相互に大きな影響を及ぼしあう関係にある。

然るに日本では、自分の土地をどうしようがそれは土地所有者の自由であるとの考え方が支配的だ。「土地を分割して売却しようが、そこにどんな建物をいくつ建てようが私の勝手だろう!」という傲慢な主張が当然の如くなされるのである。行政もそれを是認している。これは先進国では今や稀に見る野蛮な発想であり、我が国の街や郊外の住宅地の景観が、いつまで経っても三流に留まっていることの原因のひとつとなっている。

たいていの人は自分の土地建物を、自分の生活環境および経済的資産としてかけがえの無いものと考えているであろう。常識的な人なら「自分がもしそう考えるならば近隣の他の住民もそう考えているはずだ」ということに思い至るはずである。景観の公共性、つまり景観における自他の相互作用を慎重に考慮して、我々は行動すべきではないだろうか。ましてや当住宅地は多くの住宅が近接して建ち並んでいるのであり、さらには住民全員が守るべきルールとして住民協定まであるのだ。簡単に「自分の土地だから」と好き勝手なやり方で売却など行うべきでないことを我々住民は理解せねばなるまい。「全体から見れば小さなこと。事情があるんだから、協定には反するがこの土地は私の好きにさせてくれ」といった言い訳が許されるものではない。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(4)

2008-04-20 04:51:10 | 環境・土地
(画像はCotswold-Gallery(UK)から頂いた)

次になぜこうした問題が頻発するかを考えたい。これは我が住宅地固有の問題ではなく、日本国内に広く見られるものであろう。つまり住宅環境に関する国民的感度の低さ、あるいはそうならざるを得なかった歴史に起因するのではないだろうか。私は概ね次の3つの原因があると思っている。

①短い住宅の建替えサイクル
②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
③希薄な「景観の公共性」という概念

今回はこのうち最初の2つだけについて書いてみたい。

①短い住宅の建替えサイクル
我が国の住宅は次々と壊されて建替えられてしまう。確かに高度成長期に建てられた一般の住宅など、今見るとあまりに低質なデザインかつ素材感覚のモノが多い。木造でも鉄筋コンクリート製でもだ。ではすべての住宅がそうかというと、そうではない。江戸時代の豪農の木造家屋の中には今も立派に残っていて、ますます貫禄というか、歴史の重みを感じさせたりする建物がある。ということは方法(素材選びと美的センスとその後のメンテナンス)さえ間違えなければ、日本の住宅ももっと長く使われるだけの価値あるモノになるのだろう。ところが実際にはどんどん建替えられ、築40年の住宅が売却されその後50年使われました、などという話はほとんど聞かない。

②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
おまけに我が国は少数の巨大ハウス・メーカーが住宅市場のかなりのシェアを握るという変わった国である。そうしたメーカーはクルマ等工業製品の如く住宅の新モデルを発表する。「●●モデル-A」とか「▲▲シリーズ-II」などと、スタイルや構法の違い(実は根本的には同じ)を強調して、次々に最新スタイルの「製品を発売」する。独立系工務店も後からそれについて行く感じだ。設計事務所は最近がんばっているが、なんとも自分勝手なフォルムを強調したデザインが多い。今となっては何が本来あるべき建築様式かわからず、我が国それぞれの地方に存在したはずの古典的なスタイルの建築を施主が求めようとすると、かなり高額な出費を迫られる。結局古い家並みを維持しようというカルチャーは消え失せ、全く異なる様式の住宅が隣り合って次々と建って行き、さらにそれがまた別のものに建替えられて行くというのが、我が国の多くの住宅街の混迷した状況である。

こうして我々は我々を取り巻く景色がどんどん変化することに慣らされて行く。その変化が周囲の現況と対比していかに突飛なものであろうと、以前と歴史的つながりを持たないものであろうと、整然とした分譲地においてある1区画が分割され景観のリズムが損なわれようと、緑が無くなろうと、平気になってしまうのである。

上に掲げた画像をご覧頂きたい。最近日本でも人気のイングランド・コッツウォルズ地方の景色である。何もコッツウォルズ地方だけではない。彼の国ではこうした風景が都心から少し離れるだけで当たり前のように見られる。こうした所で家を壊して2軒の家にしたり、例え1軒でも全く異なる様式の家を建てることは、どちらも犯罪に等しい。もっともそうしたことは起こらないのである。行政がちゃんとしていて、法的に許されないからだ。日本で道路沿いによく見られるように、カーポートとして屋根と支柱をつくることや、スチール製の物置を置くことすら許されないだろう。

世紀をまたいで何年経っても同じ景色、隣家と違和感無く溶け合う家並みが保たれる。単なる建築物が、石や木等の自然物に近くなる長い長いプロセスである。しかし古いまま放ったらかしかと言うとそうではなく、きちんとメンテナンスされている。東西南北の方角とは無関係に、どの家も道路を向いてデザインを整えてあり、前庭も世話が行き届く。電柱とそこからたくさんぶら下がる電線はないし、コンクリートで固めて駐車場と建物に出入りするための通路だけが並ぶという風景もないのである。そもそも建物に年月が醸し出す風情がある。こうしたところに暮らせば、自ずと考え方も違って来るらしい。やはり民度と歴史と行政に違いがあるようだ。

こういうことを私が言うと「日本は地価が高いから仕方が無いのだ」という人がいまだにいるが、その人には考えを改めてもらわねばならない。日本が停滞し地価が20年間下がり続けている間に、彼の国は経済がV字型に回復して1人当りGDPは日本を抜き、地価はほぼ上がり続けていまや逆転している。インターネットで、ド田舎であるコッツウォルズ地方の不動産価格を調べてみれば、驚かれることであろう。それでもここまで環境が保たれることに我々は敬意を払い、ものの考え方や制度を見習うべきだろう。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(3)

2008-04-19 09:28:27 | 環境・土地

「不公平な結果を生む住民協定を廃止すべきではないだろうか。協定を遵守している真面目な住民がバカを見るだけではないだろうか」と私は理事達に言ってみた。しかし協定の廃止はまた別の問題を生んでしまうようだ。

協定違反が起こりそうになる度、理事達は問題を引き起こす住民や業者に対し、協定を守ることの意義を諭して必死の説得を試みているというのが、当住宅地の現状である。もしここで協定を廃止しそうした大変な努力も中止してしまえば、急速に当住宅地の状況は悪化する可能性が高い。住民の中にはこうした理事達の苦労を知らない人も多いことだろう。

協定違反の土地分割等で今の住処の売却を行い、自分だけさっさとこの住宅地を出て行こうとする住民の皆さんに申し上げたい。よく考えてもらえないだろうか。どれだけのエネルギーと時間を自治会理事達が費やし、どれだけの精神的苦痛をあとに残される近隣の人々が被ることになるかを。

土地が分割されて困る理由は、ズバリ!住宅地の景観の劣化である。住民のセンス、心がけ、豊かさを感じさせ、多くの人が「あの辺りは高級」と思う住宅地は、程度の差は大きいが、どこも緑が多い。

当住宅地は「高級」と呼ぶにはあまりにも庶民的であるが、東京への通勤圏の住宅地としては緑は多い方だ。画像に見られるように、当住宅地は多少の起伏があり、それが景観に変化を与えている。古い地区なので起伏をならすのに大谷石が積まれ、そこに風情のある門構え、生垣、道路にまで枝を伸ばす大きな庭木が見える。そして住宅地の向こうに鎌倉山や稲村ガ崎につながる小高い山々が見えて景色が完結する。

ところが土地が分割され始めると景色は一変するのである。1区画が2区画になる。すると道路に面した部分は、駐車場と建物に出入りするための通路スペースでもう一杯だ。余裕がないため生垣、大木、門扉、積まれた大谷石が全部取り払われて土が掘られて無残にコンクリートで固められる。緑は無くなるのである。そして道路に沿って駐車場と通路スペースだけが繰り返す風景が誕生する。そうした区画がいくつも連続した場合、道路に立って眺めることの出来る景観は、コンクリートの合間からクルマ1~3台が顔をのぞかせる区画の連続となり、スーパーの駐車場を見ているかの如くになろう。そうした風景を敢えて選好する人はいるまい。ところがそうした風景が当住宅地に出現し始めているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(2)

2008-04-13 10:11:43 | 環境・土地

初めて私は自治会館に足を踏み入れた。会館で昨年度の担当だった自治会理事3人と私の面談が始まり、私は説明を受けた。理事達は住民協定や地区計画に係るこれまでの経緯を親切に説明して下さった。私が長々と手紙で指摘したようなポイントは、ほとんどすべて理事会によりとっくの昔に検討済みであり、一部は実施済みであった。理事達も試行錯誤し、悩んで来られたのである。

説明を聞いて、問題の究極的な原因はやはり住民自身にあると感じた。協定に違反する土地取引の仲介や建築工事の請負を行う不動産会社や工務店が悪いのは確かで、そこにも問題の原因の一端はある。然しながら、土地を売却しようとする住民や建替工事を行う住民、または土地を買って新たに住民になろうとする人々に、協定を遵守しようとする強い意志があれば、問題の多くは解決する。ところが住民の多くにその意志がないとしか思えない実情を、説明を聞いていて感じ取ることが出来た。強制力のない住民協定だからとそれを無視する取引が発生する都度、それをなんとか阻止して環境を維持しようとする、自治会理事達のなんとも大変なご苦労が続いているのである。

理事の一人が平成18年度のアンケート結果を説明してくれた。七里ガ浜東4丁目自治会員のうち回答のあった318家庭の意見の集計である。

Q1: 土地の分割は住民協定に基づきすべきでない。
A1: すべきでない185票 分割は構わない41票 どちらでもない・無回答92票

Q2: 土地の分割を望む人の事情を斟酌すべきである。
A2: 斟酌すべき150票 斟酌すべきでない74票 どちらでもない・無回答94票

これは私には驚きであった。これでは法的強制力のある地区計画はおろか、住民協定も成立しないであろう。なんのための住民協定であろうか。住民協定は住民が守るべき最低限のルールである。それを遵守させる役割を担うべき自治会がアンケートで「事情を斟酌し、場合によっては協定破り容認も仕方ないでしょうか?」と住民にわざわざ尋ねるという、この設問者の意図が私にはよくわからない。「斟酌すべき」と答える人が出て来てしまうのが当然だろう。まあいろいろとアンケート作成時の「事情」があったのだろうが。それは兎も角、個々人の事情など斟酌していたらルールなど成り立たないのである。私はこの「事情を斟酌する」ことを正しくないと考える。理由は以下の3つである。

① 個別の事情を公平に斟酌することなど出来ない
住宅地を売却して出て行く住民の個別の事情を、公平に斟酌することなど何人にも出来ない。事情は家庭ごとに千差万別である。「子供の教育費が要る」、「事業に失敗した」、「転居により買い換えざるを得ない」、「家族構成が変化したから家を売りたい」、「老人ホームに行きたいから」、「相続があるから」・・・。すべて同じで、結局は「より早く、より大きな資金を得たい」というだけのことだ。誰もがそれぞれの事情を抱えている。どのような事情なら斟酌すべきで、どういう事情なら斟酌すべきではない、などと第三者がいちいち公平に判断出来る物ではないのである。さらに例えば「事業に失敗して金が要る」という売主がいたとして、その人が本当にどの程度困窮していて、売却資金がいくらで、そのうちどの程度が借金の返済に充てられるか、誰がチェックして判断するのか。そもそも金が要る理由は本当に「事業の失敗」なのか。あるいはまた「老人ホームに入りたい」という売主がいたとする。売却資金はいくらで、そのうちいくらが老人ホームの入居費に充てられるのか、いくら手元に残そうとしているのか、ひょっとして別の資金使途もかなり含まれるのではないか・・・。それらすべてを仔細に公平にチェックして「この事情では致し方あるまい」とか「この事情では受け入れられない」と判断出来るなら良いが、そうではあるまい。判断出来ないなら「事情の斟酌」など、不公平になるだけだ。

② 協定を守る大多数の住民に対して不公平である
そうした個別の事情を斟酌して土地の分割を認めてしまうことは、一方でルールを粛々と守る善良な住民に対し不公平を生む。土地の売却に時間がかかり売却金額総額も少なくなるであろうことを承知で、「それがルールだから」「ルールを破っては長年お付き合いのあったご近所に迷惑になるから」と、土地分割を行わずに住まいを苦労して売却する真っ当な住民も多いのである。一方、一昨年新しくこの住宅地の住民になった私も、当初土地を選ぶ段階で不動産業者から協定の存在を知らされ「当社は協定違反の土地の仲介はしません。少々値が嵩みますが協定に合致した候補地の中から選んで下さい」と言われた。このように買い手だって仲介する不動産業者だって、協定を守って取引しようとする者が多いわけだ。「売主の事情を斟酌され」許された土地の分割は、こうした大多数の真っ当な売り手と買い手が被る不公平の犠牲によって成立している。協定は「土地建物を売ってはいけない」と言っているわけではないのである。曲りなりにも協定が存在し、それにより環境が守られ、この住宅地の地価が決まり、この住宅地の流動性の高さ(売り出されると買手が比較的早くつく)につながっている。これまで住民だった者は協定というルールから、環境、地価、流動性等で恩恵を受けているのだから、同様にそのルールを守って土地建物を売却し、出て行けば良いだけのことだ。それが筋というものだろう。分割による土地売却は、フリーライダー(最近私が遠ざかっている経済学の用語・・・にあったと思う。他人の負担にタダ乗りして経済的恩恵を受ける人を指す)と言える行動である。

③ 仮に法に触れなくとも道徳的観点から良くないことはすべきでない
協定のあるこの住宅地に長年暮らしたが、自分が出て行くこととなり、法に触れないからと言って「後はどうなってもいい」とばかりの行動をとることは、あまりに道徳観の無い行動であると言えよう。建蔽率や容積率といった法的強制力のある建築法規はもちろんだが、「毎週何曜日は燃えるゴミで、何曜日は燃えないゴミ」と言ったゴミ出しのルールも、もしそれを守らない人がいたら、どんな「事情」があれ通常隣人から非難されよう。土地の分割はほとんど永久に元には戻らないという意味で、近隣に対してもっと大きくネガティブな影響を与える行為であるのに「事情を斟酌されれば」許されるのだろうか。一見尤もらしい「事情」を抱えはいても、道徳的観点からは、その売主はそうした取引を強引に進める不動産業者と五十歩百歩であると言えよう。

私は一切の土地分割を認めていないわけではない。皆が同意出来る1区画の最低面積をなんらかの形で明示できるならばそれでも良い。それを定めて皆で遵守すれば良いと思う。またその新ルールが定められるまでは、現行の協定を皆が遵守すべきであろう。協定違反はもちろん良くないし、「事情を斟酌」する必要などないと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(1)

2008-04-12 13:17:14 | 環境・土地

私は今年1月、昨年度選出の七里ガ浜自治会理事会宛てに手紙を出した。手紙の内容はおおよそ以下の通りである:

●この住宅地における土地区画の売買や建築については住民協定があり、その看板も住宅地内のあちこちに立っている(画像)のに、その定めを逸脱した土地の売買契約や建築工事が行われているこの住宅地の惨状について、新参の住民として質問したい。
●協定に合致しない建物を建てている多くの工務店の中には、この住宅地内にオフィスを構えながら、そうした工事を次々と請け負っている業者もいる。どういうセンスの持ち主なのか。これら建築業者の存在を自治会は住民に知らしめ、猛然と業者に抗議すべきではないか。
●建物についてはまだなんとかなる。永久的なものではないからだ。どうしようもないのは、土地の分割である。これをしてしまうと区画の大きさはほとんどの場合元へ戻らない。こうした強引な土地取引を売主に勧めてしまうような不動産業者についても、自治会として抗議すべきだと思う。
●しかし残念ながらこれらの業者に抗議してもほとんど何も改善しないだろう。そもそも住民協定に強制力がないからだ。彼らはそれをわかっていて、こうした強引な行動に出ているのだ。自治会では協定を改め、法的強制力のある地区計画を立ち上げてしまったらどうだろうか。どうしてそれを今まで試みなかったのか。

この私の不躾な手紙に対し、当時の自治会担当理事から丁寧なお返事の手紙を頂いた。一度お会いしましょうとおっしゃる。何度か手紙のやりとりが続き、指定された日時に私は七里ガ浜自治会館に赴いた。理事3名が私を待っておられた。今年の2月のことだった。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武園芸七里ガ浜店

2008-04-06 13:16:57 | 

本日は朝から晴天。ポカポカと暖かく、七里ガ浜は潮が引いて遠浅で、波もほとんどなし。ワカメ採りの人がいっぱい。こんな季節は住宅街のあちこちから「そろそろ花でも植え替えましょうか」と住民が動き出す。冬の間のパンジー、ビオラ、シクラメンから、春の花へ変更だ。

西武七里ガ浜住宅地の真ん中あたり、西武園芸七里ガ浜店の前を通ると、買い物客でいっぱいだった。我ら夫婦もブルーデイジーを買って帰った。こちらの店長さんにはずいぶんお世話になっている。家の生垣、芝生、植木も、すべてこちらに頼んだ。芝生のメンテナンスもお願いした。その他肥料や芝刈り、除草剤、植木の支柱、わからなくなると何でも店長に尋ねている。私達にとっては、庭に関して大切な情報源だ。おおいに助かっている。地元のお店は有難い。何かあってもすぐに教えてもらえる。

西武園芸七里ヶ浜店:
鎌倉市七里ガ浜東4-1-2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウチの犬

2008-04-05 15:25:15 | ペット

そう言えば、ウチの犬を紹介したことがなかった。香川県のイングリッシュ・セター「カイザー」の飼い主ユミさんの指摘で、それに気づいた。ウチの犬は上の画像のとおりである・・・そんなわけないだろ。これはウチの犬のおもちゃだ。なぜだかわからないが、ウチの犬の適当なデジタル画像がないのである。

ウチの犬は2004年3月31日生まれのアイリッシュ・セター(♂)で、名前は茶々之介。ネーミングは簡単。茶色いから茶々である。なぜかアイリッシュ・セターの毛色を英語ではred(赤毛)と呼ぶ。brownとは呼ばない。日本の赤=英国のredではないのである。赤<redである。

飼ってみたらわかるが、このアイリッシュ・セターという犬種は独特である。また改めてウチの犬を紹介したい。その前に画像を用意せねばならないなぁ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カイザー@鎌倉七里ガ浜

2008-04-01 22:59:39 | ペット

あのカイザーが我が家にやって来た! カイザーって何? 
私流のカイザーの定義:
香川県から鎌倉の拙宅にわざわざやって来てくれた稀少なイングリッシュ・セター。食べることが何よりも好き。おっとりしていて、尻尾をピコピコ振る傾向のある犬。白&黒のぶち(画像のとおり)。

夜中仮眠をとりながら8時間の道のりをものともせず、クルマに乗ってカイザー家(人間×4 + 犬×1)はやって来てくれた。カイザー家にとっては初の神奈川県入りとのこと。私も昨年夏に初めて香川県入りし、高松で讃岐うどんを感激しながら食べた(彼の地には犬用うどんなんてものもあるらしい)。お互い様。両者とも不慣れなよそ者だと言えよう。カイザー御一行様の我が家へのご到着は3月31日(月)の昼間のことだった。悲しい宮仕えの身分の私は当然ながら不在。残念。カイザーのファンである私はカイザーに会えなかったのだ。

代わってカイザーに拝謁したのは妻とウチの犬。当日は生憎雨だったので、我が家の中で、ウチのチョーお調子者茶々之介(アイリッシュ・セター♂)と初めてご対面となったそうだ。愛嬌たっぷりのカイザーに比較して、ウチのお調子者は冷めるのが早い。家の中だと、最初のご挨拶をクンクンと済ませると「理解した」と相手に対する興味が激減し、お調子者は早めに寝てしまう。ごめんね。でもこれがウチの犬の性格だ。外で走って遊べたら良かったのにね。また今度、八ヶ岳ででも会おうね。

カイザーをお知りになりたい方は、飼い主ユミさんのブログ「イングリッシュセター カイザーの日記」を見よう。おっとり犬のカイザーとのゆったりした生活。無愛想な当ブログとは異なり、「カイザーの日記」は思わず噴き出してしまう画像と記事でいっぱいだ。とても楽しいぞ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする