「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

7軒の家(19)両親の家

2008-01-26 12:12:38 | 家の遍歴

神奈川県逗子市小坪(自宅)⇒長野県東筑摩郡麻績村(山荘)⇒神奈川県津久井郡相模湖町(自宅)⇒神奈川県逗子市沼間(自宅)⇒長野県諏訪郡原村(山荘)と私は5軒の家を建てて来た。今度は私にとって6軒目の家で、両親の家の話である。

両親が新しい家に移り住みたいと思っていることを知り、最初私は八ヶ岳山麓だけでなく、伊豆や箱根の別荘地でも土地を探した。2001年のことだった。伊豆などかなり地価が高いの驚いた。伊豆では私が買える土地というと、狭い土地であることが多かった。湘南の住宅街とたいして変わらない、狭苦しい別荘地も多かった。

伊豆・箱根、あるいは八ヶ岳山麓でいくつか候補になるところがあったが、いずれも一長一短。やがて適当なところが見つかった。長野県西麓、茅野市の標高1250m。大手ゼネコンが開発した巨大別荘地の中の一区画である。私の山荘からもすぐのところにあった。

面積は400坪弱。きわめてフラットな土地で、道路からはわずかに上がる。南面道路は二車線のアスファルト舗装。しかし別荘地でも端っこに位置することからクルマの往来はほとんどない。山の中というのに上下水道が備わっていた。自宅も含めてその土地も抵当に入れて、その上に両親の家を建てるからお金貸してくれる?と自宅のローンを借りているメガバンクに申し込んだら、あっさり通ってしまった。

その時点で両親は三重県の山林の中に住んでいた。母が打ち込んでいた陶芸の釜やその作業場や展示室やジャグジー風呂も備えた大きな家で、平成不況の真っ只中、そこを売却することはかなり困難と思われた。実際売りに出してみると、まったく売れそうになかった。見に来る人さえいなかった。10年近く前の購入価格の4分の1まで下げても売れなかった。

結局新しく購入する両親のための土地、およびそこに建てる建物のローン全部を、私が背負うことになった。涙のローン返済人生である。一方で自宅のローンもまだまだたくさん残っていたのである。
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7軒の家(18)八ヶ岳西麓

2008-01-19 15:29:30 | 家の遍歴

ブレイスの丸山さんとの楽しいプランニング作業が続いた。自分としてはなんとしても実現したい部分と、コストダウンのためにここは譲ってもよいという部分があった。そして自分が支払えるギリギリのところに、価格を持って行く作業が続いた。

丸山さんは私の細かいリクエストに応えてくれた。そして1999年6月になった。近隣の山荘と比較して、小さめの建物が完成した。建物の中にいるのも楽しいし、そこを拠点に原村の周囲を車で走り回ることも楽しかった。

画像は建物の内部である。太い柱の上にもっと太い桁や梁が載る。吹き抜けの天井部、屋根を支える登り梁が気持ちが良い。珪藻土の壁もとても気に入っている。垂直の構造材と水平のそれとを斜めにつなぐ、ブーメランのようで筋交いのような部分がブレイスである。これが丸山さんが主宰する建築集団「ブレイス」の名前の由来である。

建物が完成した直後の夏休み。私の両親が泊まりに来た。母が原村を見て「このあたりに住みたい!」と言い出したが、父は嫌がった。「こんな寒いとこ住めるか!」と。しかし父は戦前の満州育ち。アイスホッケーの選手だったのである。その時点で両親は、なぜか地縁血縁のない三重県の山の中の集落に住んでいた。父の退職後、陶芸が好きだった母が、それに本格的に取り組むため移り住んだ山里だった。そこが両親とも嫌になったのである。息子だけでなく、両親も移り気なのだった。

しかし父の説得には2年を要した。「足りない資金はボクが出すから」と私は言って、父を説得した。私のこの言葉は後に私に災厄をもたらすことになる。ある時父がその気になった。時は2年後、2001年のことだった。
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7軒の家(17)八ヶ岳西麓

2008-01-13 14:29:25 | 家の遍歴

順序が逆になった。勝手な都合により資金計画の話は前回のところで書いた。それより先に、私は丸山さんと八ヶ岳西麓の山荘について、プランを練り始めていたのだ(画像はその山荘ではない。私の両親の家の作成途中の平面図だ)。私にとっては逗子市小坪(自宅)、長野県東筑摩郡麻績村(山荘)、神奈川県津久井郡相模湖町(自宅)、逗子市沼間(自宅)に続いて5軒目の家となる。

私にも標高の高い土地に建つ建物の理想がある。小さい山荘になるだろうが、自分なりにいろいろ考えてはいたのだ。鉛筆で書いた絵を丸山さんに示した。ティンバー・フレーム構造の家である。ラフな外観図、平面図はもちろんのこと、中にダグラス・ファー(米松)の構造材を組んだ複雑さを見せること、玄関ドアはオーク製、それ以外の建具はヘム・ロック、窓は最初の山荘と逗子市沼間の自宅で慣れ親しんだマーヴィン社製、採光は絞り気味、床はパイン材、外壁(藁を刻んでモルタルと混ぜるような感じ)、薪ストーブのモデル(ドイツ製)、キッチンのカルチャード・ブリック、内壁の一部はペイント、それ以外は珪藻土に色付け、キッチン収納の部材はオークで、屋根はここは吹き抜けで、全体に天井の登り梁をぐっと太めに、塗装はこんな感じで等々。具体的に丸山さんに相談し、リクエストしたのである。

丸山さんはベテランである。いろいろリクエストに応えてくれた。控えめだが、正直で的確なアドバイスがもらえる。あくまで施主の希望を優先する。しかし無理なことは無理だし、良くないことは良くないと教えてもらえる。施主のコストダウン要請には、具体的に「コレをアレにすればいくら下がるし、ソレにすればさらに下がっていくらになる」と答えてくれる。施主の無意味で傲慢な値下げ要求は不要だ。そもそも家ってそれなりの価格がつくものだ。高いことをすれば高くつくし、安く仕上げれば安くなる。安くても基本的要件を満たせば、それで問題はない。どんな構法だって、ちゃんと建てれば地震でも大丈夫。施主が素人なりに鑑識眼を持ち、まともな建築家を選べば、そこからは先はどう仕上げようが施主の努力と責任である。ちゃんとした注文の出来る施主になることだ。

丸山さんにはモデル・ハウスもないし、「これがモデル・プラン!」というモノもない。もちろん丸山さんおよびブレイスの仲間が、すでに建てた建物の現物は見ることが出来る。でもそれはいわゆるモデル・ハウスではない。施主の希望はなんでもありで、施主の希望を可能な限りかなえて行くというスタイルである。構法はログ・ハウスだろうが、ティンバー・フレームだろうが、在来木造軸組構法だろうがなんでもOKである。私もいろいろリクエストをしたし、丸山さんから学ぶところも多かった。
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7軒の家(16)八ヶ岳西麓

2008-01-12 11:08:14 | 家の遍歴

今回はあるメガバンクからお金を借りる話である。結局、私は八ヶ岳西麓に新たに建てる山荘を、ブレイスの丸山さんに建ててもらうことに決めたのだった。そしていつも私についてまわるのが資金繰りの問題だ。ローンを利用する場合、普通は【家のプランの相談】→【設計図面作成】→【建築工事請負契約】(ここまでは設計士、工務店、ハウスメーカーなどと)→【完成した契約書、図面等の書面を持って借金の相談に行く】(最後のプロセスは銀行と)といった順序を経る。しかしここでは都合上、最後の部分、つまり銀行との交渉を先に書く。

丸山さんに図面と契約書を用意してもらった私は、それを持って銀行へと急いだ。大手メガバンクのひとつである。逗子市沼間の自宅の土地建物もその銀行の抵当権つきである。この時点で私の所有する不動産は2つ。ひとつはそのメガバンクが抵当権を設定している私の自宅。もうひとつは長野県東筑摩郡麻績村にある私の山荘である(先述)。これは村が所有する山林の地上権(通常の借地に多い賃借権よりも強い権利で抵当権の設定も可能)の土地に建てた丸太のログハウスである。これにはローン残債はなかった。逗子市沼間に自宅を建てる際のどさくさにまぎれて、わずかな残債を返してしまっていた。

メガバンクは私に以下の3つの条件で貸すと言う:
1.新しい山荘(土地建物)に必要な総額よりかなり少ない金額しか貸さない。
2.新しい山荘に対してのみ分離して貸すのではなく、自宅と新しい山荘の両方にまたがる抵当権を設定し、その全体に対して貸す。
3.なるべく早く不要となる古い別荘を売却し、その資金で一部でも返済して欲しい。

私は唸ってしまった。2.は構わない。これは取りっぱぐれの期待値を少しでも小さくするための先方の都合だ。私は借りられさえすれば良いのだ。問題は1.である。ローン可能な金額は私が必要な金額よりかなり少なかった。これではとりあえず土地は確保出来ても、建物が完成しない。3.は実現可能かどうかわからない。時は1998年だ。平成不況がいよいよ本格化し、巨大金融機関が破綻し続けていたあの頃である。長野県の北にある中古のログハウスを買おうなんて人は、どんどん減っていた。そもそもこのログハウスの売却が簡単に適当な値段で可能になるなら苦労はないのだ。四谷にある田舎不動産取扱い専門会社に、このログハウスの売却仲介をお願いしたが、売却契約の成立はいつになるかわからない。そういう前提で新山荘建築計画を進めねばならなかった。

丸山さんに相談した。「丸山さんと契約して、銀行からお金は借りられます。原村に土地も買えます。丸山さんに工事を途中までは進めてもらえますし、そのお金は支払えます。しかし途中でそれ以上のお金が支払えなくなる可能性があります。残り工事を進めて残額すべてを支払えるかどうかは、長野県麻績村のログハウスが売却出来るか否かにかかってますが、どうですか」と。

仮にログハウスが売れず、途中で丸山さんに支払えなくなったら、その時は銀行以外のローンを利用することに決定した。私もかなり調べて、消費者金融までは行かなくても、いろいろお金を借りる手段があることがわかったのだ。それにログハウスだっていつまでも売れないわけではない。調べてだいたい相場はわかった。どれくらいまで自分の希望価格を下げれば、売却が可能かも目処が立った。売却出来なかった時はその時のこと。また考えればいいやと。とは言え、それは私の勝手な算段である。しかし丸山さんはこれに同意した。

ちなみに建築家集団ブレイスは会社形態をとらない。施主は代表者丸山さんと一対一で契約を結ぶ。「ブレイス」はお店の屋号みたいなものである。ブレイスに所属し家を建ててくれる気のいい人達は皆、丸山さんと一対一で契約している個人だ。実はこれは施主にとってはなかなか良い形態である。大手ハウスメーカー等と比べれば、様々なコストは激減する。詳しくはまたいつか書こう。

一般に施主は工事を請け負った業者が、資金を支払った後、建物完成前に、倒産しないかと心配する。いわゆる信用リスクというものだ。でも工事請負業者だって、いい加減な施主が途中で契約の履行を渋り、資金支払いをストップさせないかと、もっと心配しているのだ。この施主(私のこと)の無謀な資金計画によく同意したものだと、丸山さんに驚いたし感謝した。

実は、その後丸山さんに山荘を建ててもらっている途中で、いきなり古いログハウスが売れてしまうのである。この売却資金を得たおかげで、追加的ローンを実行する必要もなくなり、八ヶ岳西麓の山荘建築計画はあっさりと資金繰りがついてしまった。何事も事前の調査、そしてある程度のところでの思い切りが必要だと実感した。
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7軒の家(15)八ヶ岳西麓

2008-01-04 20:32:31 | 家の遍歴

原村の標高1600mにある大手ディベロッパーの分譲地の土地を予約したが、それはまだ私の物にはなっていなかった。私にお金がないからだ。まず土地だけを所有し、そこに遠い将来建てるであろう家のことを時間をかけて想像する、などという方法を、私はとらない。土地と家はいつもセットで手に入れるのである。家を建てないなら、土地にも関心もなかった。だからお金の無い私の場合、その土地を自分の物にするためには、合わせて新しい山荘計画を策定し、両方の資金繰りを同時に銀行に相談し、それでローンの内諾をとりつけるのでなければ意味がなかった。私はさっそく新山荘建築計画に取り掛かった。

ログハウスにはもはや関心がなかった。私が最初の山荘であるログハウスを長野県東筑摩郡麻績村に建てた時は、まだログハウスと言えば大口径で荒々しいハンドカットのログハウスが圧倒的に多かった。私のもそうだった。実は近年では、これはほとんど需要がない。あるとすれば工場でプレカットされたマシンカットである。多くは北欧製。一部北米製のものもある。私が新しい山荘計画に取り掛かった1998年には、すでにその傾向が顕著であった。木材を横倒しにして積み上げ、建物の内装も外装も同じログの表面という、構造的にまったくユニークで魅力的なものだ。しかしハンドカットにしろ、マシンカットにしろ、それまでの様々な経験からいろいろとやっかいなことも多いと私は考えた。

また米国式の壁組み構法(ツーバイフォー構法)も逗子市沼間の自宅で経験済みで、非常に合理的だと感じたが一回経験すれば十分で、建物としての面白みは少なかった。もう一度柱や梁を組み上げる木造軸組構法で、家を作りたくなった。出来れば古民家のように太い材を用い、屋内にその構造をそのまま見せたかった。その頃いろいろな雑誌を見ていて、ティンバー・フレーム構法を知った。日本において法律的には在来の木造軸組構法と同じ扱いになるものだ。一般の国内の木造軸組に較べれば、かなり太い材を用いることが多い。そして表面的な仕上げが少し洋風になる。

ティンバー・フレームを建築を手がける会社は少なかった。たまたまある雑誌の広告で、ティンバー・フレームを請け負っている八ヶ岳山麓の会社、ブレイスのことを知り、そこに電話をかけてみた。「はい、丸山(ブレイスの代表者)です!」という声が返って来た。ちょっと怖い声だった。怖い人なのだろうか・・・。とにかくその丸山さんという人に会うことにした。会って、その人が建てた建物を見せてもらうことにした。

ブレイスの事務所は山梨県北巨摩郡小淵沢町(現在は北杜市の一部)。中央高速で行くと小淵沢ICを出て左折し、まっすぐ5分ほど下ったところ。右側に看板(上の画像)が見える(詳しくはこのブログにあるBookmarkにリンクがあるからそこからどうぞ)。教えられたとおりに当時の愛車(デリカ・スペースギア)を運転して行ってみた。八ヶ岳山麓の別荘建築ということから想像していたのとは、ブレイスの事務所はまったく異なっていた。かなり古いスナックをそのまま建築事務所に転用したものだった。スナックとして使用されていた時のメニュー(黒板)が、なぜかまだ壁に掛かっていて、「あたりめ●●●円」などと書いてあった。雰囲気が想像していたのと異なるので調子が狂ったが、それはそれで面白かった。

丸山さんは率直で温和な感じの人だった。「まだよくわからんが、この人に建ててもらおっかなぁ~、どうしよっかなぁ~」と思いながら、私は新しい山荘計画を丸山さんに説明し始めた。
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