「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

7軒の家(4)麻績村

2007-10-30 12:51:59 | 家の遍歴

麻績村に土地を買う作業と同時に、建物を建ててくれるビルダー探しが始まった。どんな建物にするかでずいぶん悩んだが、当時爆発的ブームを迎えつつあったハンド・カットのログハウスに決めた。直径30cmくらいあるダグラスファー(米松)の皮を剥き、横倒しに組み合わせて積み上げる構法だ(画像のとおり。この画像は私が当時建ててもらったもの・・・ではなくて、山梨県のビルダー、ブレイスさんのHPから頂いたもの)。

1990年に土地を買うと同時に、建物工事も契約した。山梨県八ヶ岳南麓にサイトを持つK氏が率いるS社に建築をお願いした。K氏は多才な方だった。単にログ・ビルダーというだけでなく、都会人が憧れるカッコいい田舎暮らしを実践した人だった。元コピー・ライターで、著書も多数出版されていた。S社はどんどん発展してあらゆる構法のログを建築し、それを反映して社屋も大きくなった。その後さらにイタリアン・レストランも併設するまでになった。

K氏とのおつきあいも楽しいものだったが、ログ・ハウス建築に関わることにはもうひとつのメリットがあった。今や様々な海外の建材や部品が日本に安価に大量に輸入されるし、いわゆる「輸入住宅」がやたらと建てられている。しかし当時はそうしたモノがかなり珍しかったのだ。ログ・ハウスの見た目は、建具や部材が日本風ではミスマッチである(それもたまには良いが)ことから、ログ・ハウスのビルダー達は早くから、様々な建築部材を輸入していたのだ。

今から17年前のMarvin社の木製二重サッシとの出会いは、私にとってショッキングなものだった。室内外温度差35℃以上で結露なし、気密性の高さ、木製で堅牢なスッキリしたデザイン。他にもドア、照明、階段手すり、床材、台所のシンク等、私にとっては珍しいものばかり。カッコ良く、日本製よりも質感が高く、しっかり作られていて安い。

やがて無事に「堂々たる」丸太の「小さな」ログ・ハウスが完成した。1991年の夏のことだった。私は逗子市小坪の自宅から週末ごとに時間をかけてせっせと通うこととなる。シッケンズという塗料(表面に半被膜をつくる持ちの良い木材保護塗料)を、自分でも塗ってみたりして良いメンテナンスを心がけると、なんとも愛着の湧く建物だったと思う。哀愁漂う北信州もすぐで、戸隠や鬼無里村や黒姫などを訪ね歩いたし、善光寺も大好きになった。

薪ストーブなるものも完備。斧の薪割り、チェーンソー仕事。なんでも初めてで、うれしくて仕方がなかった。4輪駆動の車も初めて所有した。雪道を行かねばならないからだ。パジェロ・ショートワゴン。2300ccのディーゼル・エンジンで、5年落ちの中古車を購入したのであるが、そのドライブは楽しかった。

この別荘も、資金の多くはローンでまかなわれていた。私はローンまみれ。自宅も含めかなりの借金。そして当時と今の大きな違いは住宅ローンの金利水準である。私が別荘のローンを借りる頃には変動金利ローンの金利が10%近いものとなっていた。今の若いサラリーマンが「家が買えない」などと言うと、私はすぐ反応してしまう。「ウソだ。買う気がないだけだ。今の貴方達は当時の私より収入が多い。今の金利は当時の半分以下で地価は3分の1だ。買えないわけがないだろ。買えないのは、貴方にとって、家よりもほかにあれこれ買いたいものがあるとだけのことさ」
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7軒の家(3)麻績村

2007-10-27 12:57:01 | 家の遍歴


(見えにくいが、画像は逗子市小坪の地図)
私はなるべく都会から離れて家を構えたかったのだ。1988年に海外から東京に戻った時、東京駅からどの方向に何10km行っても延々とごちゃごちゃした風景が続くことに嫌気がした。しかしながら東京にある会社に勤務するため、ぎりぎりのところで妥協した結果が逗子であったのだろう。

でもすぐに我慢出来なくなった。逗子市小坪も良いところだが、もっと「自分の田舎」と呼べる土地を持ちたくなった。もともと私は田舎暮らし志向なのだ。高温多湿が苦手であり、かつ関東平野から遠い場所が好ましかった。いきなりそこから別荘地探しが始まった。逗子市小坪に住み始めた翌年の1990年のことだ。短期間に長野県、山梨県の土地をたくさん見て回ったのである。

しかしそう簡単ではなかった。関東では土地価格が下がり始めたところも多かったようだが、リゾートの地価はまだ上昇しているところが多かった。「良いなぁ」と憧れた八ヶ岳山麓周辺などは地価はまだかなり強い上昇トレンドを辿っていた。ある程度広い土地が欲しい。しかし自宅さえ買うのに苦労したくらいだから、別荘にまわすお金は当然ながらない。坪10万円のリゾート地など当時はザラで、これだと100坪でも1000万円、200坪2000万円、300坪3000万円・・・。都会の人にとっては50坪の土地に建つ一戸建てが「豪邸」になったりすることもあるらしいが、50坪の土地区画がずらっと並びそれ全部に建物が建ったら、そこはもはや別荘地という感じはしなくなる。

あれこれ探してやっと見つけたのが、長野県東筑摩郡麻績村(おみむら)の聖高原の土地である。村が土地を地上権で別荘オーナーに貸す、古くからの別荘地である。オーナーは土地の借地料を村に払う必要があるが、土地に固定資産税はかからない。地上権の借地が、通常の借地(賃借権)と異なる最大のポイントは、土地に抵当権が設定出来る、つまり銀行ローンが楽に借りられるところだ(賃借権では抵当権が設定出来ないので、銀行ローンの利用に困難がともなう場合がある)。

買ったのは200坪で権利金が400万円の土地だった。ただの山の斜面。標高1050m。今から考えると環境、設備、立地、アクセス、傾斜、面積、周囲の樹木、土地の形状等あらゆる面でなんともつまらない土地だったが、当時の私にとっては小さなパラダイスのように見えた。お金をかき集めてその土地を買った。当時は中央高速道は豊科ICまでしかなく、そこから麻績村へは、一般道を小一時間行かねばたどり着けなかった。逗子市小坪の自宅から5時間くらいはかかる場所だったのである。
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7軒の家(2)逗子市小坪

2007-10-20 16:58:24 | 家の遍歴


逗子市小坪の明るい住宅地に、木造軸組構法(在来構法)のなんともローコストの家が建った。しかしそれが建つまでにはいろいろと苦労があった。苦労は、私にお金がなかったという単純でつらい事実に、多くは起因していた。お金のない(つまり信用力がない)私が家を建てるには、お金を借りなければならぬ。しかしお金を借りるには信用力が必要である。この矛盾を乗り越えなければならないのだ。

銀行からお金を借りるには、私に十分な所得があることをまず証明しなければならない。通常は前年の所得を証明するために、勤め先の会社が発行する源泉徴収票か、役所が発行する所得証明が必要だ。ところが逗子市小坪のこの物件を買った1989年の前年1988年は、私は海外に住んでいて、日本での所得はまったくなかった。これでは前年の所得を証明出来ない。

また低利固定でお金を借りるためには住宅金融公庫の利用が必至だったが、それには100平米以上の土地を買うことが条件となっていた。しかし当時のまだバカ高い土地の100平米以上とは、その頃の私にとってかなりの負担を強いるものだった。

さらに今と比べれば住宅ローンの金利はものすごく高かった。ローンの返済額は、ローン総額×金利水準で膨れ上がる。まだ年収の低い若きサラリーマンであった私にとって、月々の返済額の多さは、借りることの出来る総額の少なさを意味する。

こうした非情ともいえる条件のもと、ローンには通常掛け目というものがあった。土地と建物をローンで買ってそこに引っ越すには、土地建物の価格以外にローンの保証会社の費用、生命保険、火災保険、不動産会社の仲介手数料、外構費用、下水道などの接続費用、引越し費用等が必要になる。しばらくすると不動産取得税も支払わねばならない。一方ローンで借りることの出来る金額は、土地と建物のみを合計した金額に一定の掛け目(例えば0.8)を掛けたものだった。貯金がゼロに等しい当時の私にとって、諸費用込みで必要な資金総額の一部、例えば7掛けしかローンを借りられないということは、住宅ローンでは家を買えないということを意味した。

さらに当時は国土法というものがにらみを利かせていた。80年代の土地高騰に危機感を持った建設省(現国土交通省)が、不動産取引価格に一定の上限を設けていた。私が買おうとした土地もそれに引っ掛かり、土地の売買にストップがかかった。

お金がないうえに、法律的に売買にストップがかかったが、それでも最終的には取引が成立した。上記困難のすべてに対する解決法があり、それはすべてシッカリ者の不動産会社営業マンが解決してくれた。外見はなんとも頼りなげなのに、次々と困難を解決する営業マンに私は感心した。これなら高い仲介手数料(物件価格の3%プラス6万円。加えてその消費税)を支払っても良い、という印象だった。
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7軒の家(1)逗子市小坪 

2007-10-14 18:07:05 | 家の遍歴


私は今までに7軒の家を建てた。自分でなんと計画性のない人間なんだろうと反省する。初めて土地を買い、家を建てたのは29歳の時だった。住所は逗子市小坪。逗子の西の端で、漁港があり、有名な(?)逗子マリーナもある(画像は逗子マリーナ)。

何もわからず土地を買った。バブル経済崩壊の兆しがある頃だ。なんでもない土地だったが、不動産屋さんは「このあたりでも土地が瞬間風速1坪300万円をつけたことがあります」と言った。そして私の購入価格は坪あたり140万円ほどだった。初めてということもあって「そんな値動きの激しいものを買っていいのか?」とかなり怖かった。ちょうど100平米の土地だ。

西側が道路で長方形の土地だった。そこにあらかじめ決められた工務店で「自由に家を建てろ」と言われた。いわゆる「建築条件付土地」というやつだ。不動産屋さんに紹介された工務店の社長さんは元ロック・シンガーの明るい人。その社長さんにいろいろ教えてもらいながら、私にとって楽しい家づくりが始まった。

しかし「自由に建てろ」と言われても、これだけの土地だと駐車場をつくると残りの土地はあまりなく、したがって「自由」もあまりなかった。そこに、当時の私としてはものすごい借金をして3LDKの家を注文した。総2階で1、2階合わせて27坪ほどの建物だった。アッと言う間に家は完成し、犬も飼い始めて楽しい生活が始まった。

逗子市小坪というところもなかなか良いところだった。漁港では魚の市もあった。その家は適度に海から離れた山の斜面の途中にあり、私はそれなりに気に入っていた。
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アレックス・カー

2007-10-13 13:13:52 | 本/音楽/映画


2つ前のところで英国皇太子の著書を挙げた。日本では見かけることが稀有な本だ。でもアレックス・カーの「美しき日本の残像」なら、すでにお読みの方も多いことと思う。

カーはアメリカ人。平均的な日本人よりもはるかに日本の文化、歴史を知る人だ。日本がその伝統美、建築様式、生活習慣、環境、風景を喪失していることを、カーは嘆き、絶望する。この「美しき日本の残像」でも、彼は現代日本の風景が破壊されていること、全体的調和の無さ、歴史的連続性の無視を批判する。日本の風景にはつき物の電柱も風景の破壊者として批判の対象となっている。まだお読みでない方は、是非どうぞ。

日本では街なかでも住宅街でも、あまりにバラバラな素材、様式、色、スタイル、高さでビルや住宅が建ち、さらにそれが短期間で建て替えられる。加えて看板や設置物に対する規制や自制心もほとんどないため、景色はどこも常に不調和で猥雑に見えてしまう。しかし建物の中に入ると、状況は一転する。個性がないのである。オフィス然り。住宅然り。

日本の住宅内部は、ほとんどがクロス貼りの壁で、蛍光灯で天井から部屋全体を照らすものだ。特定のインテリア・スタイルを意識して、統一感を出すということもなく、あれこれとその時その時に気に入った家具や電化製品や置物を目一杯購入し、それらをバラバラにそのまま並べて、やがて部屋の中にモノが溢れて、なんだかインテリアとしてのスタイルのない散漫な部屋に・・・。カーの憧憬とも言える伝統的な和の生活、風景は簡素な美しさで貫かれていて、現代の日本人のそれとは異なる。カーもそれを嘆く。

状況は欧州だと逆になる。建物の外観は高さ、素材、デザインで、近隣との連続性や一体感が強く意識される。簡単に壊して建て替えられることもないので、長い間に風景がゆっくり馴染んで行く。散歩していても楽しい。しかし建物内部のインテリア・デザインは極めて個性的なことが多い。個性的ながら一定のバランス、統一感があるのだ。

いったい、この違いは何が原因なのだろうか。
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Darjeeling by Fortnum & Mason

2007-10-08 14:48:11 | 食べ物・飲み物


紅茶と言えば、私はいつもアッサムや●●ブレックファーストなどというストロング・ティーにミルクを淹れて飲む。紅茶をストレートで飲むことはあまりないのだ。先日のこと、よく行く八ヶ岳山麓の紅茶店DADAで、勧められ飲んでみたストレート・ティーがこれ。

「なぬっ!うまいな、これ・・・」と申し上げたところ、ご主人が「おほほ。フォートナム・メイソンのダージリンだよん。茶葉を多めに入れてミルク・ティーにしてもいいよ」とおっしゃった。

買ってみた。おっとっと。250gでかなりのお値段。しかしこういうのは「うまい」と思ったらすぐ買わねば、チャンスを失う。午後にちょっとお茶とか、夕食の後といった場合が、私には合いそうである。相当香しいダージリン。さすがF&M Darjeeling Fine Tippy Golden Flowery Orange Pekoe (ながッ!)。
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