じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「沈黙ーサイレンス」を観た

2018-01-01 22:30:11 | Weblog
☆ 映画「沈黙ーサイレンス」を観た。遠藤周作原作で、原作を読んで強く印象に残っているので、ずっと観たいと思っていた。

☆ イエズス会の神父が、師の消息を訪ねて禁教の日本を訪れ、結局棄教する(ころぶ)という話。キリストを信じる人々が役人の責め苦を受けながら、信教を全うしようとする。にもかかわらず神は彼らを救おうとはしない。神はなぜ「沈黙」しているのか。神父は葛藤する。

☆ 神父の葛藤を通じて、私も「沈黙」の意味を考えさせられた。


☆ 当時の政権(幕府)や役人のように「邪宗だから」と「沈黙」を正当化するのは簡単だ。キリスト教は日本の土壌に合わないという役人の方便は、それはそれで説得力がある。一方で「真理」に土壌は関係ないとする神父の理屈も正論だ。

☆ キリスト教(中でもカトリック)がテーマになっているが、現代人にとってはそれにこだわる必要はなかろう。共産主義者やアナキストが官憲から忌み嫌われたのは、それほど遠い昔のことではない。


☆ 絵踏みにしても、侍たちは農民たちに偉そうに強要するが、もし彼らに主君の肖像を踏めと強要すればどうするか。踏むくらいならと腹を切るか。

☆ 江戸時代初期の禁教について、教科書では身分制を基調とする武士社会の理念に合わなかったこと、西洋諸国との交易によって大名などが利益を得ることを幕府が恐れたからと教える。

☆ 昨夜、映画「グローリー」を観たが、作品の中で黒人は家畜あるいは智慧のあるチンパンジーのような扱いだった。江戸初期の日本では農民も武士にとっては家畜同然で、そんなものどもがサムライ階級に歯向かうことが許せなかったのか。


☆ 「沈黙」については更に深く考慮する必要がありそうだ。原作では、カトリックの神父がクライマックスで神の声を聞く。「私を踏みなさい」と。直接神の声を聞くというのが「プロテスタントのようだ」と批判もあったようだが、その場面が強く印象に残っている。

☆ たかが絵を踏むだけなのだが、それへのこだわりをなくせば、もはや信教は成立しないのか。


☆ 映画の中で、神は「あなたとともに苦しんだ」と表現しているが、これで苦痛にさいなまれ、非業の死を遂げた人々は救われるのだろうか。神は人の苦痛や生死など問題ではなくより高い次元で見ているのか。このあたりは難しい。

☆ いろいろ考えさせられる。それが「沈黙」の魅力だ。
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明けましておめでとうございます。

2018-01-01 17:15:37 | Weblog
☆ 新年、あけましておめでとうございます。皆様にとって素晴らしい1年でありますように。

☆ さて、さすがに1月1日は休みにしました。

☆ 父親の介護を始めて17年。寝たきりになって胃ろうにしてからは6年でしょうか。時々痰の吸引も必要なので、1時間以上は家を空けることができなくなりました。

☆ 幸か不幸か、自宅で個人塾を経営していたものだから、介護をしながら仕事ができます。ちなみに、ご縁もなく独身を続けております。

☆ どうせ介護で家を空けられないならと、平日はもちろん土曜、日曜も塾を開いています。ゴールデンウィークもお盆も開けています。開ければ生徒は来るものです。授業はしなくても「自宅は誘惑が多すぎる」と塾で自習をしています。

☆ ですから、昨年は363日(1月1日、2日は休みました)塾を開けました。年中無休とまでは行きませんでしたが。

☆ 今年は1月2日から塾を開けます。受験を控える中学3年生、高校3年生がやってくる予定です。彼らはよく頑張っています。負けずに頑張らないといけません。

☆ 仕事はともかく(経営者は自分で働き方を決められるので)、介護は大変です。1年365日、それも24時間休みがありません。ご家族の介護をされている方々は本当に粉骨砕身頑張られていると思います。育児ならば子どもの成長とともにだんだん手が離れるのでしょうが、介護はむしろ手がかかるようになってきます。そしていつ訪れるかもしれない「みとり」の不安を抱きつつ日々を過ごします。

☆ 家族だから嫌みを言ったり、声を荒げることはありますが、家族だから見捨てることはできません。熱を出したと言ってはオロオロ、どこかが痛いと言ってはオロオロ。せん妄が起こった時は、こちらがおかしくなりそうです。そうかと思えば、穏やかな表情を見せる時もあり、そうなれば不安が吹っ飛びます。

☆ 介護の日々を送られている方は、お互いに頑張りましょう。「みとり」の日々にも何かきっと意味があるのだと思います。

☆ 2018年も仕事に、介護に、家事に頑張ります。本年もよろしくお願い申し上げます。
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