じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「スターリングラード」を観た

2017-10-29 22:32:18 | Weblog
☆ 映画「スターリングラード」(2001年)を観た。

☆ ドイツ軍に包囲されたスターリングラードを舞台に、スナイパーとスナイパーの攻防が見どころ。

☆ ドイツ人対ロシア人。どちらも英語を話しているのに少し違和感を感じた。
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「更級日記」を読む

2017-10-29 19:06:21 | Weblog
☆ 菅原孝標の娘作「更級日記」を読んだ。

☆ 平安時代の話。文学を愛する夢見る少女が、人々との出会いや別れを経験し、ひっそりと年老いでいく自伝的物語である。

☆ 晩年、過ぎ去った日々を回顧しながら書かれたものであるが、最初の「あこがれの京へ」などは、13歳の少女の鼓動が聞こえそうな初々しさがある。父親の任地であった東国から京への旅路は、紀行文のようだ。京での生活、ずっと読みたいと思っていた源氏物語を全巻手に入れた時の喜びは、1000年後の私にも伝わってくる。「転生の猫」「姉の死」などは今日の小説のモチーフにもなりそうだ。

☆ 「ゆかしき人の思い出」では作者のほのかな恋が描かれている。「初瀬詣で」では長谷寺へ行く途中、私が住む宇治を通ったことが書かれている。「殿の御領所の宇治殿」(今の平等院)に入って、源氏物語の世界を想像している姿が印象的だった。

☆ 姉、父、夫と身近な人々を見送りながら自らも老いていく。「世の中に、とにかくに心のみつくす(この世を生きていくのにあれこれ苦労ばかりかり重ねてきた)」と振り返る。そして晩年、老いた自分に会いに来る人も少ないと、寂しい日々を綴っている。「更級」という題には「姨捨」という意味が込められているという。

☆ 現代文であれば、1000年の年月を感じさせない面白さだった。

☆ 鈴木由次著「更級日記」(旺文社)参照。
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秋の長雨

2017-10-29 12:55:19 | Weblog
☆ 地区の運動会中止の回覧板が回ってきた。週末の雨はこれで何回目だろうか。

☆ 今年の天候は異常だ。京都の10月の天気、1日中雨の日が今日を入れて7日、半日雨の日が9日。29日の内16日も雨が降ったことになる。

☆ 昨年(2016年)は、1日中雨の日が1日、半日雨の日が1日、2015年は、1日中雨が0日、半日雨の日が1日だから、その異常さは顕著だ。

☆ 1日中雨の日は、2004年に4日というのはあるが、2000年以降だいたい2日以下だ。

☆ 時代まつりをはじめ多くの行事が中止になった。観光への打撃が大きい。野菜の値段はどうだろうか。

☆ 洗濯物が悩みの種だ。
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不審死

2017-10-29 12:36:51 | Weblog
☆ 陸上自衛隊の隊員が訓練中に失踪し、遺体で発見された件。

☆ 自殺とも考えられるが、どうして訓練中だったのだろうか。

☆ 不審に思うのは、テレビドラマの見過ぎだろうか。
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「スタンダード」漬け

2017-10-29 10:57:15 | Weblog
☆ 朝日新聞、10月29日の朝刊「教育面」、「学校現場に広がるスタンダード」の記事を読んだ。

☆ 記事では主に学力向上のために、教育委員会が生徒の学習姿勢など細かい項目について「スタンダード」を定めていることを紹介していた。どこまで現場で徹底されているのか、また現場教員がどこまで真剣に捉えているのかはわからないが、あまり「スタンダード」が徹底されると抵抗を感じる。

☆ 学力の向上は生活習慣の改善からという意図はわからなくもない。ただ陳腐な言い方をすれば、生徒は工業製品ではないし、学校は工場ではない。教員にも「スタンダード」が求められているというが、マニュアル通りの対応をするファーストフード店ならいざ知らず、高い創造性、柔軟性が求められる教員の仕事がマニュアル通りにできるとも思えない。

☆ 「教育」という営みが「医学」などと違って、個々の教育実践やそこから得られた知見が学問体系として集積されていないのが残念だ。医学の処方は経験と科学的研究の結果を根拠としている。それは「スタンダード」であり、大概はそれで対応できる。また「スタンダード」から外れたり、新たな知見が得られれば、その「スタンダード」は書き換えられる。

☆ それに比較して、教育で言われる「スタンダード」は上からの管理強化か、百歩譲って、余計なお節介に思えてならない。

☆ 公権力がサービスや福祉の名のもとに家庭に過度に干渉することにも抵抗を感じる。確かに子どもの生活の乱れは家庭の問題に起因する場合が多い。時には、個々の生徒の発達上の問題や身体的なハンディキャップなどによることもあろう。それは個別に対応すればよいのではなかろうか。

☆ 教育委員会が推奨する「生活リズムチェックシート」には、ここまでやるかというほど細かく記述させるものがある。ほとんどの生徒は大雑把に書いて済ませているであろうが、神経質な親子や律儀すぎる教員がこのツールを扱えば、極めて窮屈な事態が生まれそうだ。強迫神経症になりそうだ。

☆ 国・文科省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→単位学校→教員→児童・生徒という流れの中で、大綱的な基準がノルマに変身してしまう。

☆ 時代は脱近代化に向かっている。時代は新たな創造性を求めている。規格品を再生する教育はもはや時代遅れだ。「生きる力」であったり「新しい学力観」というのは、そうした新しい時代・社会に生き抜ける人材を養成しようとしていたのではなかろうか。従来の常識を覆しあるいは超越する規格外の人材こそが求められる。教員にも想定外のことが頻発する教育現場で臨機応変に対応できる資質・力量が求められる。

☆ 「スタンダード」は各学校で吟味され教員同士で課題が共有されてこそ価値がある。(ここでも教員の多忙が問題になるが)「管理しやすさ」だけでは時間とエネルギーの浪費に終わると思う。 
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