じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「スタンダード」漬け

2017-10-29 10:57:15 | Weblog
☆ 朝日新聞、10月29日の朝刊「教育面」、「学校現場に広がるスタンダード」の記事を読んだ。

☆ 記事では主に学力向上のために、教育委員会が生徒の学習姿勢など細かい項目について「スタンダード」を定めていることを紹介していた。どこまで現場で徹底されているのか、また現場教員がどこまで真剣に捉えているのかはわからないが、あまり「スタンダード」が徹底されると抵抗を感じる。

☆ 学力の向上は生活習慣の改善からという意図はわからなくもない。ただ陳腐な言い方をすれば、生徒は工業製品ではないし、学校は工場ではない。教員にも「スタンダード」が求められているというが、マニュアル通りの対応をするファーストフード店ならいざ知らず、高い創造性、柔軟性が求められる教員の仕事がマニュアル通りにできるとも思えない。

☆ 「教育」という営みが「医学」などと違って、個々の教育実践やそこから得られた知見が学問体系として集積されていないのが残念だ。医学の処方は経験と科学的研究の結果を根拠としている。それは「スタンダード」であり、大概はそれで対応できる。また「スタンダード」から外れたり、新たな知見が得られれば、その「スタンダード」は書き換えられる。

☆ それに比較して、教育で言われる「スタンダード」は上からの管理強化か、百歩譲って、余計なお節介に思えてならない。

☆ 公権力がサービスや福祉の名のもとに家庭に過度に干渉することにも抵抗を感じる。確かに子どもの生活の乱れは家庭の問題に起因する場合が多い。時には、個々の生徒の発達上の問題や身体的なハンディキャップなどによることもあろう。それは個別に対応すればよいのではなかろうか。

☆ 教育委員会が推奨する「生活リズムチェックシート」には、ここまでやるかというほど細かく記述させるものがある。ほとんどの生徒は大雑把に書いて済ませているであろうが、神経質な親子や律儀すぎる教員がこのツールを扱えば、極めて窮屈な事態が生まれそうだ。強迫神経症になりそうだ。

☆ 国・文科省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→単位学校→教員→児童・生徒という流れの中で、大綱的な基準がノルマに変身してしまう。

☆ 時代は脱近代化に向かっている。時代は新たな創造性を求めている。規格品を再生する教育はもはや時代遅れだ。「生きる力」であったり「新しい学力観」というのは、そうした新しい時代・社会に生き抜ける人材を養成しようとしていたのではなかろうか。従来の常識を覆しあるいは超越する規格外の人材こそが求められる。教員にも想定外のことが頻発する教育現場で臨機応変に対応できる資質・力量が求められる。

☆ 「スタンダード」は各学校で吟味され教員同士で課題が共有されてこそ価値がある。(ここでも教員の多忙が問題になるが)「管理しやすさ」だけでは時間とエネルギーの浪費に終わると思う。 
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2 コメント

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Unknown (名無しの教師)
2017-10-29 12:47:50
「スタンダード」は古典的な教育の考え方ですね。
量産型企業戦士を求めた、昭和社会の名残だと思います。
正しいかはさておき、致命的に間違っているわけでも無いので、今も根強い影響力を持つ思想です。

しかしながら、アクティブラーニングの推進や、大学入試問題の改革を考えれば、もうすぐ時代にそぐわない思想になるでしょう。

「スダンダードからの脱却」は絶対に必要になります。
でも、お上が「こうしろ」と下ろしてどうにかなる問題でも無いので、きっと現場に丸投げになることでしょう。
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Unknown (じゅくせんまさや)
2017-10-31 11:01:43
アクティブ・ラーニングを、文科省は「主体的、対話的で深い学び」と言い換えていますね。「客体的で、1人でやる浅い学び」つまり、先生の退屈な講義形式の授業に対するアンチテーゼなのでしょうか。中教審で審議している人たちのそうあって欲しいという願望だと思います。今までも発見学習とか、問題解決学習とか言ったものがありましたから、何が新しいのかはこれからの研究課題でしょうか。
構想する人は何とでも言えますが、実際に評価し評定するとなると、結局はまた「スタンダード」が登場しそうな気がします。
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