じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「死者の奢り」

2017-10-18 21:10:27 | Weblog
☆ 大江健三郎さんの「死者の奢り」(新潮文庫)を読んだ。

☆ 死体処理室のアルバイトに従事する主人公の視点から見た「人間」のあり方が書かれてあったように思う。

☆ 小林秀雄は「無常という事」(角川文庫)の中で、「死んでしまった人間というものはたいしたものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(62頁)と書いている。

☆ 「死者の奢り」は、主人公の「僕」たちがもはや「物」となった死体に対峙し、妙な親近感を抱く。死体は何も語らず、冷徹なまでに沈黙を保つが、そのことが多くを語っている。

☆ 思いが揺れ動き、気持ちが錯綜しお互いに理解しあえず、まさに無常の象徴であるかのような「人間」。それを「物」と化した死体が絶対的な冷ややかさで観察しているような気がする。

☆ 死体を「物」としてトラックに運ぶ「作業」は、アウシュビッツを思い起こさせる。

☆ 普通「して」と表記する所を「し」と表現しているのが印象的だった。
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校内パワハラ

2017-10-18 09:37:28 | Weblog
☆ 福井県の中学校で生徒が自殺した事件。第三者機関の報告書がでたようだが、担任、副担任はもとより、校長など管理職もひどいねぇ。

☆ 「死ぬとは思わなかった」とでもいうのだろうか。それとも「死んでも仕方がない」とでも思っていたのだろうか。担任の怒声や副担任の叱責から、生徒を育てようという思いが伝わってこない。

☆ 企業のパワハラなら、その会社を辞めれば一応逃げられる。ただ学校という強制された環境の中で、教員(もはや教員とも思えないが)から一方的に責められる生徒の気持ちを考えると痛ましい。

☆ 教員とは言え生徒との相性はある。教育という営みには時には叱ることも必要だ。しかしそれは教員のイライラの憂さ晴らしであってはならない。手を焼く生徒でもそれを教え育てるのがプロではないか。また一人一人の教員の個性、能力を生かすのが学校経営であり、校長や教頭の職責ではないか。

☆ 全校生徒が50人ほどの中学校である。校長や教頭は一人一人の顔と名前を覚え、その一人一人への指導を掌握しているのが普通ではないか。教員はわずかに20人足らずだという。どうしてこれが管理、経営できないのか。全く職責が果たされていない。

☆ その上、管理職の能力を把握したうえでその職に配していたならそれは教育委員会の責任だ。能力を把握していなければ、それは職務怠慢だ。どうもそれぞれが自分の責任回避を考え、亡くなった生徒のことを慮っていないような気がする。

☆ 私の経験からして、怒声を発する教員は下の下だ。それは叱るではなく感情的な怒りでしかない。生徒はいろいろな課題を抱えている。成長段階からくる課題、家庭の問題、友人関係の問題、学業成績の問題、発達の障害など。それらが罵声によって解決できるならこんな簡単なことはない。大人から見れば些細なことでも子どもにとっては命にかかわることもある。子どもの課題を見極め、その解決に向けて子どもに寄り添ってこそのプロだと思う。

☆ 自分勝手な教員。驕り高ぶった教員。上にはへいこら下には厳しい教員。パワハラ教員。モンスターティチャー。案外多いような気がする。

☆ そして、管理・指導ができない管理職。上意下達だけの管理職。見て見ぬふりの管理職。教員につきあげられておろおろばかりの管理職。こうした人々も案外多いように思う。

☆ そうした教員や管理職の学校に通う生徒たちはかわいそうだ。やはり学校の閉鎖性が問題なのだろうか。
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