立春も過ぎて暦どおりの穏やかな日となった遠野地方、遠野プロガーの中には春の先取りやら小さな春を探した方々もおられたようですが、先日の積雪がまだまだ融けずに残されている我家近辺、小さな春探しはもう少しだけ先になりそうです。
ということで、柔らかな日差しに誘われて菩提寺福泉寺を散策、参道~本堂~お稲荷さん~大観音~白衣観音~五重塔~仁王門と約1時間、前半は登りも含め少し汗ばむくらい、足腰に負荷もかかり、平地の散歩よりは筋力保持や強化にはもってこいでもありますし、何といっても積雪があるので、いつもよりはきつい行程でもあります。
大観音堂・・・閉山中(3月末まで)

一明院、白山、山神を祀るお堂


○一明院
寛永4年(1624)八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部家)と共に大慈寺も遠野入り、大慈寺は駒木村海上の廃寺に入ったと伝えられ、後に光興寺へ移り、さらに城下へと移りますが、海上の大慈寺跡には山伏の一明院が入ったと伝えられる。
一明院三代といわれ、後に空家となるも、中野に住まいする松兵衛の家が野火により全焼したため、一明院跡の家に入ったと伝えられている。
この家は屋号「坊さま」といい、山伏、修験者は坊様と昔は呼ばれていた。
大正時代以降、敷地にあった一明院の墓石を開山した福泉寺に移した。
一明院之墓

以前にも記しておりますが・・・墓石には・・・
「権大僧都前一明院宣恒
「権大僧都前一明院音寛 安永三甲午年 三月初八日」

別資料には・・・
大徳院
駒木村一明院由緒
初代 一明院栄宥
土淵村喜楽院の次男。父より継法長円坊と名乗る。
万治元年 一明院と名乗り駒木村海上の地、大慈寺跡に小庵を建て住す。
宝永元年甲申7月13日死去
二代 一明院宥観
栄宥の嫡子。長円坊と名乗る。
正徳元年 一明院と名改。
享保9年12月15日病死
三代 一明院普観
宥観の嫡子。
享保9年2月坊跡相続。享保9年11月多宝院弟子に罷成、明徳坊と名乗る。
享保15年發丑9月一明院と名改。
ということが遠野南部修験関連の資料に記されていたが、どうもイマイチ理解できないといいますか、この分野、靄がかかったかのような状態であり、喜楽院に大徳院、本山派に羽黒派・・・笛吹童子氏の「遠野なんだりかんだり」に数多く登場する内容ではあるので、彼のブログにて修験として記されたところを何度も読み返したが、それでも解消されたわけではない。
江戸期の遠野における修験の対立構造があったことは、少し理解できたが・・・おおよそ・・・大徳院を代表とする本山派と慈聖院や善行院を代表とする羽黒派が霞場争いを含めて争っていた・・・これは理解できるが、一明院由緒には大徳院とあり、さらに羽黒派と思しき喜楽院の子であるという・・・・いずれ笛吹童子氏にこれらのまとめ、特に本山派と羽黒派の争いの図式と共に両者の修験者名とかご教授いただかなければと思っております。
当方もみた資料を書き写したに過ぎず、大徳院の文字の前に「同派」とあったような・・・この派とはなんであったか再度確認したいと考えております。
それと一明院は3代であったという伝承はその通りであるが、中野集落の大火、これは明治初年或いは幕末の話といわれ、松兵衛が一明院跡に移ってきたのは、幕末~明治初年ということになり、世話人は駒木村の判四郎とされる。
また墓石には2代のみが刻まれており3代目は他所へ移ったとみるべきではないのか?享保年間以降間もなく3代目一明院は当地を去ったものなのか?
疑問や謎ばかり増えますので、このことはまた折あれば・・・ということにして・・・。
海上

土淵方面を霞場としていた喜楽院は駒木方面までその管轄としていたようでもあり、駒木も喜楽院に連なる名が見えてもおかしくはない。
また小生から数えて7代前の先祖が俗別当として名を残す愛宕社、これらとの関連はいかに・・・?
愛宕大権現・・・福泉寺境内

福泉寺が開山以前は、本堂が開かれた場所の大杉の根に祠が立て掛けられた状態であったという。
後に祠ごと本堂に納められたようです。現在は画像のように立派なお堂となっております。
ということで、柔らかな日差しに誘われて菩提寺福泉寺を散策、参道~本堂~お稲荷さん~大観音~白衣観音~五重塔~仁王門と約1時間、前半は登りも含め少し汗ばむくらい、足腰に負荷もかかり、平地の散歩よりは筋力保持や強化にはもってこいでもありますし、何といっても積雪があるので、いつもよりはきつい行程でもあります。
大観音堂・・・閉山中(3月末まで)

一明院、白山、山神を祀るお堂


○一明院
寛永4年(1624)八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部家)と共に大慈寺も遠野入り、大慈寺は駒木村海上の廃寺に入ったと伝えられ、後に光興寺へ移り、さらに城下へと移りますが、海上の大慈寺跡には山伏の一明院が入ったと伝えられる。
一明院三代といわれ、後に空家となるも、中野に住まいする松兵衛の家が野火により全焼したため、一明院跡の家に入ったと伝えられている。
この家は屋号「坊さま」といい、山伏、修験者は坊様と昔は呼ばれていた。
大正時代以降、敷地にあった一明院の墓石を開山した福泉寺に移した。
一明院之墓

以前にも記しておりますが・・・墓石には・・・
「権大僧都前一明院宣恒
「権大僧都前一明院音寛 安永三甲午年 三月初八日」

別資料には・・・
大徳院
駒木村一明院由緒
初代 一明院栄宥
土淵村喜楽院の次男。父より継法長円坊と名乗る。
万治元年 一明院と名乗り駒木村海上の地、大慈寺跡に小庵を建て住す。
宝永元年甲申7月13日死去
二代 一明院宥観
栄宥の嫡子。長円坊と名乗る。
正徳元年 一明院と名改。
享保9年12月15日病死
三代 一明院普観
宥観の嫡子。
享保9年2月坊跡相続。享保9年11月多宝院弟子に罷成、明徳坊と名乗る。
享保15年發丑9月一明院と名改。
ということが遠野南部修験関連の資料に記されていたが、どうもイマイチ理解できないといいますか、この分野、靄がかかったかのような状態であり、喜楽院に大徳院、本山派に羽黒派・・・笛吹童子氏の「遠野なんだりかんだり」に数多く登場する内容ではあるので、彼のブログにて修験として記されたところを何度も読み返したが、それでも解消されたわけではない。
江戸期の遠野における修験の対立構造があったことは、少し理解できたが・・・おおよそ・・・大徳院を代表とする本山派と慈聖院や善行院を代表とする羽黒派が霞場争いを含めて争っていた・・・これは理解できるが、一明院由緒には大徳院とあり、さらに羽黒派と思しき喜楽院の子であるという・・・・いずれ笛吹童子氏にこれらのまとめ、特に本山派と羽黒派の争いの図式と共に両者の修験者名とかご教授いただかなければと思っております。
当方もみた資料を書き写したに過ぎず、大徳院の文字の前に「同派」とあったような・・・この派とはなんであったか再度確認したいと考えております。
それと一明院は3代であったという伝承はその通りであるが、中野集落の大火、これは明治初年或いは幕末の話といわれ、松兵衛が一明院跡に移ってきたのは、幕末~明治初年ということになり、世話人は駒木村の判四郎とされる。
また墓石には2代のみが刻まれており3代目は他所へ移ったとみるべきではないのか?享保年間以降間もなく3代目一明院は当地を去ったものなのか?
疑問や謎ばかり増えますので、このことはまた折あれば・・・ということにして・・・。
海上

土淵方面を霞場としていた喜楽院は駒木方面までその管轄としていたようでもあり、駒木も喜楽院に連なる名が見えてもおかしくはない。
また小生から数えて7代前の先祖が俗別当として名を残す愛宕社、これらとの関連はいかに・・・?
愛宕大権現・・・福泉寺境内

福泉寺が開山以前は、本堂が開かれた場所の大杉の根に祠が立て掛けられた状態であったという。
後に祠ごと本堂に納められたようです。現在は画像のように立派なお堂となっております。