「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

交換レンズ

2009-02-12 18:37:01 | その他
 3年前、ダブルズームセット(標準レンズ、望遠レンズの2本付)のオリンパス一眼デジを購入した。
 カメラの知識は皆無でフィルムカメラでもバカちょんカメラといわれるコンパクトカメラ1台持っていたすぎず、またデジカメは当初、ネオ一眼といわれるフジのカメラを持ってはいたが、ただ撮ればそれなりに写る機、さらにコンデジ一機が小生の今までのカメラ経歴である。

 さて、一眼デジ、なんの知識もなかったもので、ただ撮ればスカッとすばらしい画像が撮れるとばかり思っていたが、当初はコンデジ画像とさほど変わらず・・・汗・・・八戸の藤九郎さんやカメラに少し詳しい職場の先輩から色々とご教授いただき、少しだけ、ほんの少しだけ取扱い等が理解できるといった段階になったと思っております。

 決して安い買物ではなかったが、それでもランクからいえば初級レベルの代物、レンズ2本付いての値段を考えれば、安い部類だったのは間違いないと思っている。


ダブルズームセットでのレンズ


標準レンズ・ZUIKOU DIGITAL 14-45 f3.5-5.6
望遠レンズ・ZUIKOU DIGITAL 40-150 f3.5-4.5

14㎜から150㎜まで2本でカバーということで、初心者には申し分ないと考えていたが、ここが小生のアホなところ・・・汗・・・その時々にレンズ交換して楽しむのも一眼デジの特性、これが面倒臭いと思うようになってしまい、標準域から望遠まで有した1本のレンズで済まないものか・・・なんて本気で考えておりました。


後に追加の交換レンズ


中央 ZUIKOU DIGITAL 18-180 f3.5-6.3
左  ZUIKOU DIGITAL ED70-300 f4.0-5.6
右  ZUIKOU DIGITAL 35 f3.5

 広域にカバーできる18-180㎜を購入したことにより、キットレンズ2本の出番は皆無となりまさに御蔵入り・・・18-180㎜レンズは城館跡探訪では特に重宝され、少し離れた遺構やら突然出会った日本カモシカ等の動物の撮影にも効力が発揮され、この分野では満足いくものでした。

 しかし、人間の欲といいますか、上を向いたらキリがない、今度は180㎜では望遠が物足りなく感じてしまう・・・そこで70-300㎜の超望遠レンズを導入、35㎜換算でオリンパスのレンズは倍の最大600㎜に相当するとかで、自分的には最高のラインナップと信じてやまなかった。
 さらにマクロレンズも追加して、後は広角レンズか・・・なんて、今後の追加計画なんかも練っておりました。





 まっ、素人としてはこんなものか?と考えておりましたが、コレは・・・と思うような画像がなかなか撮れない、そして露出補正等色々と変えながらも、どうも全体的に暗い画像が多い、無論腕が悪いとか知識が乏しいはその通りながらも、それでもイマイチ画像が多い・・・・。

 そんな時、ネツトやらカメラ雑誌を漁っていると、レンズのランクに松・竹・梅とあって、買いやすいとばかりに追加していたレンズは全て梅レンズと呼ばれるモノばかり・・・確かにちょっとやそっとで手が出せない高額なレンズがカタログには掲載されていたが、中間クラスの竹クラスでも、梅クラスの2~3本分の価格であったことを思い出す・・・。

 何が違うのか?作りもそうだけどf値、すなわちレンズの明るさがあるらしい、さらにAFでのピント合わせが高速とか・・・無論、写り具合もシャープであったり程良いボケ具合とか、色合いとか・・・こんな知識もなくただ漠然とカメラを触っていたことが恥ずかしいのですが、このことを知ったからにはとにかく竹クラスのレンズがほしい・・・なんとしても手に入れたいと思うのは当然の成り行き・・・しかし、新品では最安値のネットショップでも当分は手が出ない価格帯、そこで新製品ではなくかなり前から発売され、しかも中古品の程度の良いものが出てくるのを一ヶ月程待ちますと・・・本来ほしいと思ったレンズではありませんでしたが、それに近い性能で口コミでも評判の良い標準レンズをゲットできました。




ZUIKOU DIGITAL 14-54 f2.8-3.5

 未使用に近い最上品といったランク、本来は12-60 SWDがほしかったのですが、こちらは未だに値もほとんど下がらず・・・しかもオリンパスE-30の発売に合わせたかのように14-54 f2.8-3.5Ⅱなるレンズも新発売、いずれにしましても当分は手が出そうにない。

 ということで、今は14-54 f2.8-3.5をメインレンズとし、望遠に300㎜、さらにマクロレンズ、そして史跡探訪には18-180㎜と使い分けをしております。


 不景気の時節柄、安レンズとはいえ、それでもカメラに関わる一大財産でもあるレンズ話題やら一眼デジのこと、「気楽でいいなあ・・・」なんて感じた方々もおられるかもしれません、そうであればまことに申し訳ないです。
 あくまでも趣味のこと、当方のカメラ遍歴の恥という内容も含まれているということで、ご勘弁ください。



 
 本日の空

 我家から








薬師岳と早池峰山




望遠レンズで・・・べごっこ


 

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盛岡冷麺&プチ湯治

2009-02-10 18:15:28 | 湯っこ・鉄道・旅・・・
 お題が逆となりますが、数日前より左肩痛に見舞われ、痛み止めの薬の服用でなんとか職務やら日常生活に支障なきようしておりますが、気分的にも肩痛とかに効く温泉にでも浸かって少しでも楽になれたらと思い、丁度、嫁さんが休みということもあって雫石町の鶯宿温泉へ連れて行ってもらいました。




 遠野からは少し遠いですが、画像の温泉ホテルには嫁さんの甥っこ(えんで出身)が勤めていて、数ある温泉宿の中ですが、やはり身内がいるということで、画像の温泉ホテルといたしました。




 湯の花が湯の中で舞い、ほんのりとした温泉特有の匂い、人工温泉等の健康ランドに入ることの多い身には、たいへん効きそうな雰囲気・・・・湯加減もよく、のんびり日帰りのプチ湯治をすることができました。




 甥に会って近況の話なんかもしたかったのですが、青森方面から大型バス5台による老人会?の団体さんが入館、甥は忙しく働いており、結局、20~30秒ですかね、顔見て・・・「仕事頑張れよ」「今度また・・」・・・程度の話で我々は温泉を後にしました。
 後でゆっくり泊まりながら湯っこを堪能しつつ、甥と人生について語りたいものとつくづく思ったしだいです。



 ということで、雫石方面に来たということで、以前から気になっていた盛岡冷麺の名店に立ち寄って、遅い昼食といたしました。




○盛岡冷麺2連発


焼肉・冷麺「髭」・・・盛岡市つなぎ  つなぎ十字路(国道46号線沿)


 盛岡冷麺を紹介する口コミでは上位にランクインする味の名店、他の情報サイトやら個人的な口コミでも、ナンバー1という方々もおられるようです。

 私個人としては、かつてスキーをしていた頃、雫石スキー場だったか?網張スキー場からの帰りに一度だけ入店したことがありましたが、当時はまだ古いお店で、しかも冷麺の美味さがあまり分からなかったので、その印象は極めて薄いといったところでした。
 ただ、「髭」というなんともいえないネーミングだけは、はっきりと覚えておりました。


 ということで・・・髭の盛岡冷麺・別辛







 コクのあるスープに香ばしい胡麻、そして程良い柔らかさの味付け肉、なかなかバランスの良い冷麺といった印象・・・「ここも美味い」・・・前評判通りと納得。
 ただ、あくまでも個人的な印象ですが、辛味を効かせようと後入れしたキムチ、あまり入れすぎると少ししょっぱくなり過ぎか?・・・よくお土産用に販売されている製麺工場とかのインスタントの盛岡冷麺がありますが、あの味付けの高級なやつ・・・そんなことも感じたのも事実ですが、やはり個人的な味覚の違いやらその店に対する思い入れもあると思いますので、個々の好みのお話しということで・・・・しかし、総体的には、かなり美味しい盛岡冷麺であることは間違いないと思います。






焼肉・冷麺「大門」  花巻市下似内(国道4号線 旧道)



 こちらは、小生にとっては思い出深き冷麺の殿堂・・・笑
 
 というのも、20年近く前までは遠野で営業をしておりまして、遠野時代はよくお店に通っておりました。
 若い頃、夜食に冷麺の出前をより多く食べたのも大門、しかし、なかなかその味に馴染めずにいたのも事実、それでも数は食べた方でもありました。

 そんな青春の思い出のひとつが遠野から去り、花巻に開店という風の噂を聞きながらも、なかなかお邪魔する機会もなかったのですが、ようやくここ数年、年に数回食べに行くようになっております。

 ということで・・・・やはり別辛を注文



 やや甘めのスッキリとしたスープ、食べやすい麺、辛味のキムチはまさに絶品、辛さと甘味のコラボレーション・・・スープとの相性はバッチリで、かなり美味しい・・・遠野時代もこんな味だったのか?・・・辛味のキムチをひと壺入れたが、さほど辛くもなく、辛味の追加・・・気分的には大辛といった雰囲気ですが、それでも自分的にはそんなに辛くはなかった。
 しかし、自分的にはたいへん美味しい冷麺と今回感じました。
 自分の中のベスト1か?とにかく盛岡冷麺の中では食べやすく、しかも美味い、盛岡冷麺初心者にもお勧めの味かもしれません。





 口コミ等での評判では、高いというイメージがあるそうですが、冷麺に関しては、今回、ランチメニューでのミニビビンバと普通盛の冷麺にコーヒーがついて900円でおつりがくる値段、冷麺とカルビとの組み合わせでもほほ同様でもあり、リーズナブルではないでしょうか。
 ここの味は決して裏切りませんので、是非一度お試しを・・・・。


 大門さんへは肩痛で通院した2月7日にお邪魔いたしました。





 口直しに・・・・



 プリン大福・かぼちゃ大福・イチゴ大福・・・花巻産直「案山子」

 特に有名であるプリン大福はお奨めです。







おまけ


 NHK総合で放送された例の番組での舞台



 遠野プロガーの間では「ぶきみーワンダーランド」と呼んでいるが、それでも皆さん取り上げるほど親しみも感じる場所でもある。
 全国放送で紹介いうこともあり、今後、遠野迷所?として春の観光シーズンから大ブレークするかもしれませんね・・・笑


 ということで、放送の続編もあって2月16日 20時~20時45分

NHK総合テレビ「鶴瓶の家族に乾杯」
http://www.nhk.or.jp/kanpai/


 是非にお見逃しなく・・・。
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戦力外通告?

2009-02-07 17:58:13 | その他
 昨年11月頃より腰痛と左肩痛を若干感じていたが、当直の夜に左肩が疼きはじめ結局一睡もできずに朝を迎えました。
 左肩の痛み、左下腕のしびれ、その痛みと違和感が尋常でなくて、土曜日に診療してくれる整形外科の医療機関を探し、なんとか花巻市内の某整形外科医院へ行って来ました。
 当初は50肩だろうと自己診断しておりましたが、石灰質なんとかかんたら・・・という診断でもあり、直に治るというものではないとのことですが、しばらくは肩を酷使するような行動は慎むようにとのこと、仕事柄、現場活動での内容が本来の姿でもあり、自分的には戦力外通告を受けたようなもの、また逆に同僚や後輩達にあまり当にならないぞ・・・とアピールも必要でまさにこちらでも戦力外通告であります。





 なんとか車の運転は可能ながら、長距離運転は無理に感じられ急きょ、嫁さんに仕事を休んでもらい医療機関に連れて行ってもらいました。

 鎮痛剤でなんとか痛みは一時的に和らぎましたが、本日(7日)開演の遠野郷八幡宮での黒森神楽の公演は見送りました。
 昨年、一昨年と勤務で観れなくて今回の公演は何としてでも・・・と密かに楽しみにしておりましたが、まことに残念です・・・涙

 また、PCでの両手打ちができず、皆さまのブログ巡回は滞りなくできますが、コメントを入れることに難儀しそうですので、しばらく・・・ほんの数日ですが、ご遠慮させていただきます・・・謝



  
 おまけ

 ネネのお友達訪問



 二女撮影


 友達というより、我家一帯を縄張りとするボス猫です・・・笑
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一明院之墓

2009-02-05 18:24:40 | 歴史・民俗
 立春も過ぎて暦どおりの穏やかな日となった遠野地方、遠野プロガーの中には春の先取りやら小さな春を探した方々もおられたようですが、先日の積雪がまだまだ融けずに残されている我家近辺、小さな春探しはもう少しだけ先になりそうです。

 ということで、柔らかな日差しに誘われて菩提寺福泉寺を散策、参道~本堂~お稲荷さん~大観音~白衣観音~五重塔~仁王門と約1時間、前半は登りも含め少し汗ばむくらい、足腰に負荷もかかり、平地の散歩よりは筋力保持や強化にはもってこいでもありますし、何といっても積雪があるので、いつもよりはきつい行程でもあります。


大観音堂・・・閉山中(3月末まで)



一明院、白山、山神を祀るお堂







○一明院

 寛永4年(1624)八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部家)と共に大慈寺も遠野入り、大慈寺は駒木村海上の廃寺に入ったと伝えられ、後に光興寺へ移り、さらに城下へと移りますが、海上の大慈寺跡には山伏の一明院が入ったと伝えられる。
 一明院三代といわれ、後に空家となるも、中野に住まいする松兵衛の家が野火により全焼したため、一明院跡の家に入ったと伝えられている。
 この家は屋号「坊さま」といい、山伏、修験者は坊様と昔は呼ばれていた。

 大正時代以降、敷地にあった一明院の墓石を開山した福泉寺に移した。


一明院之墓


 以前にも記しておりますが・・・墓石には・・・

「権大僧都前一明院宣恒
「権大僧都前一明院音寛   安永三甲午年  三月初八日」





 別資料には・・・

 大徳院
 駒木村一明院由緒
 初代 一明院栄宥
 土淵村喜楽院の次男。父より継法長円坊と名乗る。
 万治元年 一明院と名乗り駒木村海上の地、大慈寺跡に小庵を建て住す。
 宝永元年甲申7月13日死去

 二代 一明院宥観
 栄宥の嫡子。長円坊と名乗る。
 正徳元年 一明院と名改。
 享保9年12月15日病死

 三代 一明院普観
 宥観の嫡子。
 享保9年2月坊跡相続。享保9年11月多宝院弟子に罷成、明徳坊と名乗る。
 享保15年發丑9月一明院と名改。


 ということが遠野南部修験関連の資料に記されていたが、どうもイマイチ理解できないといいますか、この分野、靄がかかったかのような状態であり、喜楽院に大徳院、本山派に羽黒派・・・笛吹童子氏の「遠野なんだりかんだり」に数多く登場する内容ではあるので、彼のブログにて修験として記されたところを何度も読み返したが、それでも解消されたわけではない。

 江戸期の遠野における修験の対立構造があったことは、少し理解できたが・・・おおよそ・・・大徳院を代表とする本山派と慈聖院や善行院を代表とする羽黒派が霞場争いを含めて争っていた・・・これは理解できるが、一明院由緒には大徳院とあり、さらに羽黒派と思しき喜楽院の子であるという・・・・いずれ笛吹童子氏にこれらのまとめ、特に本山派と羽黒派の争いの図式と共に両者の修験者名とかご教授いただかなければと思っております。

 当方もみた資料を書き写したに過ぎず、大徳院の文字の前に「同派」とあったような・・・この派とはなんであったか再度確認したいと考えております。


 それと一明院は3代であったという伝承はその通りであるが、中野集落の大火、これは明治初年或いは幕末の話といわれ、松兵衛が一明院跡に移ってきたのは、幕末~明治初年ということになり、世話人は駒木村の判四郎とされる。
 また墓石には2代のみが刻まれており3代目は他所へ移ったとみるべきではないのか?享保年間以降間もなく3代目一明院は当地を去ったものなのか?
 疑問や謎ばかり増えますので、このことはまた折あれば・・・ということにして・・・。


海上



 土淵方面を霞場としていた喜楽院は駒木方面までその管轄としていたようでもあり、駒木も喜楽院に連なる名が見えてもおかしくはない。
 また小生から数えて7代前の先祖が俗別当として名を残す愛宕社、これらとの関連はいかに・・・?
 

愛宕大権現・・・福泉寺境内



 福泉寺が開山以前は、本堂が開かれた場所の大杉の根に祠が立て掛けられた状態であったという。
 後に祠ごと本堂に納められたようです。現在は画像のように立派なお堂となっております。
 
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遠野金融通り(一日市)

2009-02-04 19:00:37 | 遠野
 中央通り・・・一日市から




 今も昔も一日市通りは商業を主とする遠野経済のメインストリートと認識しておりますが、近年、松崎町のバイパス沿いが急発展を遂げ、人の流れも物流も、そして経済そのものもそちらへ大きく移りつつある現状でもある。


 少し寂れた一日市ですが、金融分野では、まだまだ健在といった雰囲気で、この通りから金融関連が消えれば、それこそ街に車も人も居なくなるという場面が想定されます。











○遠野銀行の破綻・・・明治40年2月20日付 遠野新聞


 かつて、陸の穀物と海産物の集散地として栄えた遠野の経済は、交通機関の発達によりまさに黄昏の感がある。
 遠野商業の代表は呉服商と雑貨商が中心であるが、その多くは盛岡、岩谷堂、花巻等の地方問屋からの仕入であり、東京、大阪からの直接仕入はほんの僅かである。
 
 製造業も含めて製品の売り渡しも含めて中間業者の利益は膨大で遠野の営業者の利益は微々たるもので、このような状態で地方経済の発展を図ろうとすることは、木に登って魚を捕ろうとするようなもので、その原因は遠野に銀行等の金融機関がないからである。・・・・・伊能嘉矩は、銀行開設が急務であったと論評しておりますが、結論からいえば遠野経済発展を願って設立された遠野銀行は3年で破たん、銀行経営に携わった人間達は互いに責任のなすり合いとなり法廷闘争まで発展、しかし経済が麻痺状態となっている現実をみれば、そんな争いをしている場合ではなく、残った資金を再結集して新たなる地方銀行の開設が急務であると結んでいる。



・遠野銀行と銀行進出

 明治30年設立、資本金5万円(現代貨幣価値に置き換えると、何を基準にするか、その年代も加味されて一概には言えないと思いますが、当時の5万円は現代感覚で5億~10億円)

 遠野銀行は個人金融業者の不良貸付の肩代わり、巨額な不良貸付を行ったために、瞬く間に資金が枯渇して休業状態になり、明治33年破たん、翌34年解散。


 その後、盛岡銀行遠野支店、岩手銀行遠野支店が相次いで開業したが、昭和6年の銀行パニックで全て破たん、遠野経済には、なかなか厳しい時代だったようでもあります。







 ネネ・・・・今日も昼寝姿・・・汗




 
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裏町遊郭

2009-02-02 18:36:24 | 遠野
 白い雲と青空がほど良い感じの日中、心持ち立春に近づき陽差しも少し柔らかくなったかな?・・・と、ぺっこばり感じる一日でもありました。





○ 遠野町裏町遊郭・・・遠野新聞(明治39年・40年)について掲載の「遠野物語研究第6号」から一部引用


 明治44年発行の「遠野案内」には・・・
 当時の賃座敷(遊郭)は、「紫明館」「旭楼」「幸寿楼」「福田楼」 「寿楼」・・・の5軒があったと記されている。
 「世の中には、どんな不景気な風が吹いても、この一廓だけは別世界でいつでも春風駘蕩てな具合」とある。

 ちなみに同年6月の旅館(宿泊)一ケ月の売上が4百円に対し、遊郭に落ちた金額すなわち放蕩費は6百円44銭とあり、しかも利用客は地元の人達であるという。

 遠野の町の旅館は、「村千代」「高善」「角清」「菊勇」「増田」「村秀」「千葉」「大久田」等10軒の旅館があったようです。

 町民の不景気で四苦八苦している時になんたることか・・・伊能嘉矩は嘆いたとされる。



明治初年の遠野城下地図


 さて、裏町とは何処を指すのか?・・・大体は現在の中央通り仲町のことらしいが、在郷育ちで街場のこと、その古地名は疎いのが現状であるので、図書館に行って調べようと思うも、本日は月曜日で休館日、・・・仕方ないので手持ちの書籍にての古地図を掲載したが、文字が小さくて見え難たい・・・汗・・・しかも明治初年の内容で遠野士族達の屋敷や寺院が主で参考とはならない。

 なんとか虫眼鏡を使ってみると・・・。



 やはり仲町界隈が裏町のようだ。


 遠野城下は、江戸時代、南部藩領内では盛岡に次ぐ繁華な町で、遠野南部1万2千7百石の城下町、明治の世になっても内陸と海岸を結ぶ要衝の地と栄えた歴史がある。
 大正9年の数値であるが、遠野町には6千余人の人口があり、宮守町を除く周辺7つの村々の人口を合わせると2万4千人余である。

 こういったことから、遊郭も衰えることなく営業を続けてこれた原因は、遠野外からの客以上に地元からの利用客が多く存在したことが伺い知ることができるのではないでしょうか。
 単に遠野の男どもが好きもの・・・ということではない・・・汗



 現在の世でも、学校とかの近くに風俗関連の建物を建てようとする場合や営業する場合はその施設の直径○○○メートル以内は許可されない。
 また、ギリギリの線とか通学路沿いに、そんなものを建てようものなら住民運動が巻き起こってたいへんな騒ぎになるものですが、明治40年3月5日付の遠野新聞に・・・・。

 抜粋

 「娼妓公認制度の良し悪しは別として、店舗の並んでいる町の真ん中で貸座敷業が営業していることは望ましくない。
 各府県では早くから一区域に設けて移転させて風紀の粛清を図りつつあるのに、我遠野は悪習を改めようともせず、妓楼は町の中央にあり、若者達よ裏町辺りを歩いてみるがいい・・・妖婦が客の袖をひき、色っぽい態度で口を利き、下品でみだらな行動をみるだろう・・・・。

 寺の鐘が夜10時を告げる頃、町民が眠りに就こうとする時、三味線、笛太鼓の音、歌に踊りが響き渡る。
 辺りの安眠の妨げのみではなく有為の青年の前途を誤らせ子女の品性に悪影響を与えかねない

 今、大運動により遠野に県立中学校の創立をみた、しかし何故、青年が最も陥たりやすい娼楼を中学校とあまり離れてない場所で営業させるのか・・・一刻も早く町の外、遠く離れた場所に退去させなければならない・・・。」



 しかし、裏町の遊郭は太平洋戦争後まであったといわれる。
 正しくは1956年の売春防止法の制定、2年後の赤線廃止による消滅だったものと思われる。



 ということで、まだまだこの分野、調べれば色々と出てきそうな雰囲気ですし、こういった裏の歴史といった内容を伝えるということも大事ではないのか?とも思いますが、これらは男達からみた世界が主であり、在郷には馴染みの遊郭に通い詰めてその遊郭名を屋号としたとか、身代を全てつぎ込んでしまったという逸話等も残されておりますが、江戸時代から昭和30年代前半まで、遠野の遊郭には何百、いやっ何千という遊女がいたこと、そしてこれらの遊女達は名もなく、また多くは語られることなく死んでいったという悲しい歴史が大半だったものと推測されます。

 こういった話は、やはりタブーなんですかね?触れられないこと、触れてはいけないものなのですかね・・・この分野、嫌いではないので、立派なことは言えませんが、よくよく考えてみれば、やはり悲しい歴史が隠れているようで、今は静かに自分なりの調べを今後できたらと考えているところです。


 
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まだ4回目

2009-02-01 19:15:51 | 遠野
 大荒れの土曜日で翌朝は職場の除雪作業となりましたが、勤務を終えて帰宅すると、職場のある松崎町白岩の3倍の積雪、同じ町内でも違うもんだな・・なんて考えながら、家族がやり残した除雪の後始末に汗を流す・・・。






 自宅のある松崎町駒木地区は、約20センチの積雪。





矢崎山


 それにしても前日とはうってかわって、なかなかすばらしい天気でありました。




 ということで、30日、職場関連での宴会がありまして、遠野が誇る某ホテルに出かけて参りました。




 地元に居ながらも、こちらでの宴会は、実は今度で4度目、出来かけの頃に結婚式2度、2年程前の遠野ブログ「遠野ぶれんど」旗揚げの際に1度、あれから2年半近くぶりということになり、小生の置かれている職業的な位置付けにおいても、極めて少ない利用といったことになると思います。








 当初は、遠野という田舎者にハイカラ過ぎる・・・とか、値段の割には品数が少ないとか、値切れないとか、さらに地元民が利用するには敷居が高いとか、色々と芳しくない噂が先行したりしておりましたが、最近は地元での利用頻度も向上して親しみやすい雰囲気になっているようです。
 今回、幹事となってましたので、その特権を生かして、早くから此処を選定、願いが叶いました・・・汗
 しかし、ほとんど料理は食べれなくて、飲んでばかり・・・でした。


 で・・・その反動で・・・汗





 2次会まで参加した後は、新年会で街場にいた嫁さんと合流して3次会、そして二人で締めのカルビ、こんな時間にカルビはダメと怒られた記憶があるが2人前をひとりで食べたようです・・・汗・・・反省・・・。
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