白い雲と青空がほど良い感じの日中、心持ち立春に近づき陽差しも少し柔らかくなったかな?・・・と、ぺっこばり感じる一日でもありました。
○ 遠野町裏町遊郭・・・遠野新聞(明治39年・40年)について掲載の「遠野物語研究第6号」から一部引用
明治44年発行の「遠野案内」には・・・
当時の賃座敷(遊郭)は、「紫明館」「旭楼」「幸寿楼」「福田楼」 「寿楼」・・・の5軒があったと記されている。
「世の中には、どんな不景気な風が吹いても、この一廓だけは別世界でいつでも春風駘蕩てな具合」とある。
ちなみに同年6月の旅館(宿泊)一ケ月の売上が4百円に対し、遊郭に落ちた金額すなわち放蕩費は6百円44銭とあり、しかも利用客は地元の人達であるという。
遠野の町の旅館は、「村千代」「高善」「角清」「菊勇」「増田」「村秀」「千葉」「大久田」等10軒の旅館があったようです。
町民の不景気で四苦八苦している時になんたることか・・・伊能嘉矩は嘆いたとされる。
明治初年の遠野城下地図
さて、裏町とは何処を指すのか?・・・大体は現在の中央通り仲町のことらしいが、在郷育ちで街場のこと、その古地名は疎いのが現状であるので、図書館に行って調べようと思うも、本日は月曜日で休館日、・・・仕方ないので手持ちの書籍にての古地図を掲載したが、文字が小さくて見え難たい・・・汗・・・しかも明治初年の内容で遠野士族達の屋敷や寺院が主で参考とはならない。
なんとか虫眼鏡を使ってみると・・・。
やはり仲町界隈が裏町のようだ。
遠野城下は、江戸時代、南部藩領内では盛岡に次ぐ繁華な町で、遠野南部1万2千7百石の城下町、明治の世になっても内陸と海岸を結ぶ要衝の地と栄えた歴史がある。
大正9年の数値であるが、遠野町には6千余人の人口があり、宮守町を除く周辺7つの村々の人口を合わせると2万4千人余である。
こういったことから、遊郭も衰えることなく営業を続けてこれた原因は、遠野外からの客以上に地元からの利用客が多く存在したことが伺い知ることができるのではないでしょうか。
単に遠野の男どもが好きもの・・・ということではない・・・汗
現在の世でも、学校とかの近くに風俗関連の建物を建てようとする場合や営業する場合はその施設の直径○○○メートル以内は許可されない。
また、ギリギリの線とか通学路沿いに、そんなものを建てようものなら住民運動が巻き起こってたいへんな騒ぎになるものですが、明治40年3月5日付の遠野新聞に・・・・。
抜粋
「娼妓公認制度の良し悪しは別として、店舗の並んでいる町の真ん中で貸座敷業が営業していることは望ましくない。
各府県では早くから一区域に設けて移転させて風紀の粛清を図りつつあるのに、我遠野は悪習を改めようともせず、妓楼は町の中央にあり、若者達よ裏町辺りを歩いてみるがいい・・・妖婦が客の袖をひき、色っぽい態度で口を利き、下品でみだらな行動をみるだろう・・・・。
寺の鐘が夜10時を告げる頃、町民が眠りに就こうとする時、三味線、笛太鼓の音、歌に踊りが響き渡る。
辺りの安眠の妨げのみではなく有為の青年の前途を誤らせ子女の品性に悪影響を与えかねない
今、大運動により遠野に県立中学校の創立をみた、しかし何故、青年が最も陥たりやすい娼楼を中学校とあまり離れてない場所で営業させるのか・・・一刻も早く町の外、遠く離れた場所に退去させなければならない・・・。」
しかし、裏町の遊郭は太平洋戦争後まであったといわれる。
正しくは1956年の売春防止法の制定、2年後の赤線廃止による消滅だったものと思われる。
ということで、まだまだこの分野、調べれば色々と出てきそうな雰囲気ですし、こういった裏の歴史といった内容を伝えるということも大事ではないのか?とも思いますが、これらは男達からみた世界が主であり、在郷には馴染みの遊郭に通い詰めてその遊郭名を屋号としたとか、身代を全てつぎ込んでしまったという逸話等も残されておりますが、江戸時代から昭和30年代前半まで、遠野の遊郭には何百、いやっ何千という遊女がいたこと、そしてこれらの遊女達は名もなく、また多くは語られることなく死んでいったという悲しい歴史が大半だったものと推測されます。
こういった話は、やはりタブーなんですかね?触れられないこと、触れてはいけないものなのですかね・・・この分野、嫌いではないので、立派なことは言えませんが、よくよく考えてみれば、やはり悲しい歴史が隠れているようで、今は静かに自分なりの調べを今後できたらと考えているところです。
○ 遠野町裏町遊郭・・・遠野新聞(明治39年・40年)について掲載の「遠野物語研究第6号」から一部引用
明治44年発行の「遠野案内」には・・・
当時の賃座敷(遊郭)は、「紫明館」「旭楼」「幸寿楼」「福田楼」 「寿楼」・・・の5軒があったと記されている。
「世の中には、どんな不景気な風が吹いても、この一廓だけは別世界でいつでも春風駘蕩てな具合」とある。
ちなみに同年6月の旅館(宿泊)一ケ月の売上が4百円に対し、遊郭に落ちた金額すなわち放蕩費は6百円44銭とあり、しかも利用客は地元の人達であるという。
遠野の町の旅館は、「村千代」「高善」「角清」「菊勇」「増田」「村秀」「千葉」「大久田」等10軒の旅館があったようです。
町民の不景気で四苦八苦している時になんたることか・・・伊能嘉矩は嘆いたとされる。
明治初年の遠野城下地図
さて、裏町とは何処を指すのか?・・・大体は現在の中央通り仲町のことらしいが、在郷育ちで街場のこと、その古地名は疎いのが現状であるので、図書館に行って調べようと思うも、本日は月曜日で休館日、・・・仕方ないので手持ちの書籍にての古地図を掲載したが、文字が小さくて見え難たい・・・汗・・・しかも明治初年の内容で遠野士族達の屋敷や寺院が主で参考とはならない。
なんとか虫眼鏡を使ってみると・・・。
やはり仲町界隈が裏町のようだ。
遠野城下は、江戸時代、南部藩領内では盛岡に次ぐ繁華な町で、遠野南部1万2千7百石の城下町、明治の世になっても内陸と海岸を結ぶ要衝の地と栄えた歴史がある。
大正9年の数値であるが、遠野町には6千余人の人口があり、宮守町を除く周辺7つの村々の人口を合わせると2万4千人余である。
こういったことから、遊郭も衰えることなく営業を続けてこれた原因は、遠野外からの客以上に地元からの利用客が多く存在したことが伺い知ることができるのではないでしょうか。
単に遠野の男どもが好きもの・・・ということではない・・・汗
現在の世でも、学校とかの近くに風俗関連の建物を建てようとする場合や営業する場合はその施設の直径○○○メートル以内は許可されない。
また、ギリギリの線とか通学路沿いに、そんなものを建てようものなら住民運動が巻き起こってたいへんな騒ぎになるものですが、明治40年3月5日付の遠野新聞に・・・・。
抜粋
「娼妓公認制度の良し悪しは別として、店舗の並んでいる町の真ん中で貸座敷業が営業していることは望ましくない。
各府県では早くから一区域に設けて移転させて風紀の粛清を図りつつあるのに、我遠野は悪習を改めようともせず、妓楼は町の中央にあり、若者達よ裏町辺りを歩いてみるがいい・・・妖婦が客の袖をひき、色っぽい態度で口を利き、下品でみだらな行動をみるだろう・・・・。
寺の鐘が夜10時を告げる頃、町民が眠りに就こうとする時、三味線、笛太鼓の音、歌に踊りが響き渡る。
辺りの安眠の妨げのみではなく有為の青年の前途を誤らせ子女の品性に悪影響を与えかねない
今、大運動により遠野に県立中学校の創立をみた、しかし何故、青年が最も陥たりやすい娼楼を中学校とあまり離れてない場所で営業させるのか・・・一刻も早く町の外、遠く離れた場所に退去させなければならない・・・。」
しかし、裏町の遊郭は太平洋戦争後まであったといわれる。
正しくは1956年の売春防止法の制定、2年後の赤線廃止による消滅だったものと思われる。
ということで、まだまだこの分野、調べれば色々と出てきそうな雰囲気ですし、こういった裏の歴史といった内容を伝えるということも大事ではないのか?とも思いますが、これらは男達からみた世界が主であり、在郷には馴染みの遊郭に通い詰めてその遊郭名を屋号としたとか、身代を全てつぎ込んでしまったという逸話等も残されておりますが、江戸時代から昭和30年代前半まで、遠野の遊郭には何百、いやっ何千という遊女がいたこと、そしてこれらの遊女達は名もなく、また多くは語られることなく死んでいったという悲しい歴史が大半だったものと推測されます。
こういった話は、やはりタブーなんですかね?触れられないこと、触れてはいけないものなのですかね・・・この分野、嫌いではないので、立派なことは言えませんが、よくよく考えてみれば、やはり悲しい歴史が隠れているようで、今は静かに自分なりの調べを今後できたらと考えているところです。