見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

愛の行方/映画・KCIA 南山の部長たち

2021-03-09 22:45:12 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇ウ・ミンホ監督・脚本『KCIA 南山の部長たち』(2020年)

 週末に見た映画の2本目。1979年10月26日の朴正煕射殺事件を、事件の40日前から説き起こす。当時、韓国はパク大統領の絶対的な支配下にあり、大統領直属の諜報機関であるKCIAは「南山(ナムサン)」の通称で恐れられていた。ところが、元KCIA部長パク・ヨンガクはアメリカに亡命し、米国議会において「コリアゲート事件」の証言に立って、パク大統領の腐敗を告発しようとした。パク大統領は、現KCIAのキム・ギュピョン部長をアメリカに派遣し、パク元部長が出版しようとしている回顧録の原稿を手に入れることを命じる。パク元部長は、旧友・キム部長の説得に応じて原稿を渡し、一件落着したかに見えた。

 キム部長が帰国して間もなく、クァク・サンチョン警護室長が大統領官邸でアメリカCIAの盗聴器を発見する。激怒するパク大統領。無能と罵られ、アメリカとの親密な関係を疑われるキム部長。警護室長とキム部長の溝は深まっていく。その後、日本の週刊誌にパク大統領を告発する記事が掲載された。大統領は、パリに逃れたパク元部長の抹殺を指示。キム部長は、これを阻止しようと動くが、力及ばず、パク元部長は永遠に地上から葬り去られた。

 10月16日、野党総裁キム・ヨンサムの議員職除名案を引き金として、釜山と馬山で大規模な民衆デモが発生する(釜馬民主抗争)。強硬派のクァク警護室長は、空挺部隊の投入を主張。デモがソウルに飛び火すれば、民衆を戦車で轢き殺すことも辞さないとうそぶく。キム部長は、必死で融和的な収拾策を提案し「あなたが漢江を渡ったのは、民衆を轢き殺すためですか」(5.16軍事クーデターのこと)と大統領に詰め寄るが、取り合ってもらえない。

 10月26日、パク大統領は、ヘリコプターで公務に向かうが、出発直前、警護室長は大統領に何かささやいた後、キム部長に向かって「お前は来なくてよい」と告げる。ヘリポートに取り残されたキム部長の胸の中でひとつの決意が固まる。その晩、宮井洞の秘密宴会場(畳敷きの和室!)では大統領を囲む、親密な宴会が開催された。銃を携えて乗り込んだキム部長は、亡きパク元部長に酒杯を捧げると、警護室長と大統領を射殺。腹心の部下たちとともに参謀総長を拘束し、南山に向かおうとする。しかし、参謀総長から「事態を収拾したいなら陸軍本部に向かうべき」と請われて、車の行き先を変える。ドラマはここで終わり、その後の顛末は、実際の写真と字幕で淡々と示された。キム部長は逮捕され、裁判を経て処刑されたこと、全斗煥政権が誕生したこと、キム部長のモデルである金載圭は、自分は権力のためでなく、民主化のために大統領を殺害したと証言していたこと。

 全編、重たいドラマだった。政治的な史実が重たいこともあるのだが、登場人物たちは、家族とか学生時代の友人とかが一切描かれず、金や女など欲望の描写も淡泊で、ただ終始一貫して、ホモソーシャルな人間関係に絡めとられている。キム部長役のイ・ビョンホンは、髪をオールバックに固め、レンズの上辺の縁だけ太い眼鏡で表情を隠し、思慮深く、正義感が強すぎて不器用な中年男を好演していた。それ以上に印象的だったのは、パク大統領を演じたイ・ソンミン。『工作』で北朝鮮のリ所長を演じた俳優さんか! 強圧的で冷酷で強欲(元部下が持ち逃げした金の行方だけを気にしている)な独裁者だが、かすかに漂う孤独の影が色っぽい。キム部長とは戦友で、二人でマッサ(マッコリのサイダー割)を飲みながら「あの頃はよかった」(日本語!)と懐旧の情にふけったりする。人々が宴会に集まってくるのを待ちながら、ひとりで古い歌を低く口ずさんでいたり(それを壁越しに聞くキム部長)。

 キム部長の大統領殺害は、政治的な壮挙というより、痴情のもつれみたいな甘美な印象を拭い切れない。昨年の大河ドラマのせいではないが、織田信長と明智光秀の関係もこんなふうだったかもしれない、と想像した。なお、あくまでフィクションであることを示すためか、登場人物の名前は、史実から少し変えてある。

 大統領が殺され、キム部長が去ったあと、官邸でひとり不敵な笑みを浮かべる若い軍人の姿が挿入される。確か警護室長に可愛がられていたチョン(中佐?)という名前だったことは覚えていたが、あれが全斗煥だということは、wikiを見るまで気づかなかった。序盤でパク元部長が、大統領には真の右腕である「イアーゴ」という男がいるらしい、と話していたのも彼のことなのか。しかし右腕に「イアーゴ」(オテロの)と名づける大統領も倒錯している。もうひとつ、在米の韓国系ロビイストが「姓が変わるだけよ」と発言するところがあって、易姓革命のことだとすれば、独裁者・朴正煕のあとを、また別の独裁者・全斗煥が襲うという韓国の歴史を予言する発言だと思うのだが、分かりにくい。

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中国アニメ映画初視聴/映画・羅小黒戦記

2021-03-07 23:13:05 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇MTJJ監督・脚本『羅小黒戦記(ロシャオヘイせんき):ぼくが選ぶ未来』(2019年)

 評判を聞いて気になっていた中国のアニメ映画を見てきた。主人公の小黒(シャオヘイ)は黒猫の妖精で、人間の子どもの姿になることもできる。深い森の中で平和に暮らしていたが、人間に森林を奪われ、街に出てノラ猫に交じって食べものを漁らなくてはならなくなった。

 ある時、人間に襲われかけた小黒は、同族の妖精である風息(フーシー)に助けられ、小さな無人島に連れていかれ、風息の仲間の妖精たちに暖かく迎えられる。居場所と仲間が見つかったことを喜ぶ小黒。しかし、風息たちの対抗勢力「館(やかた)」の執行人で、人間でありながら妖精以上の戦闘能力を持つ無限(ムゲン)が現れ、風息たちは島を逃げ出す。無限は、取り残された小黒を縛り上げ、館に連れていくことにする。二人は小さな筏で海へ乗り出す。

 船旅の間に、二人の関係に少しずつ変化が生じ始める。やがて筏は福蘭省(福建あたりのイメージ?)に到着。無限は、知り合いの妖精たちにお金を借りて、スクーターを買い、ハンバーガーショップに寄ったり、安宿に泊まったりしながら、龍游と呼ばれる都会を目指す。しかし、そこにはすでに風息と仲間たちが待ち構えており、無限から小黒を拉致する。小黒は、なつかしい風息たちに会えて喜んだのもつかの間、風息が人間を皆殺しにして妖精の楽園を取り戻そうとしており、そのために小黒の潜在能力を求めていたことを知る。風息に手を貸すことを拒絶する小黒。風息は怒りを爆発させ、小黒の潜在能力(領界)を強奪する。

 突如、龍游の都市の大半を、正体不明の黒い球体が覆いつくす。風息が小黒から奪った領界で、この中では風息は無敵のはずだった。無限は、息を吹き返した小黒とともに風息に戦いを挑み、ついに勝利する。樹木の性の妖精である風息は、巨木に姿を変えて消えた。平和の戻った龍游で、小黒は妖精の館で暮らすことを勧められるが、小黒は師匠の無限に着いていくことを選択する。そしてまた二人の旅が始まる。

 いや~面白かった! 私はむかしの日本のアニメ映画しか知らないので、時代錯誤な感想かもしれないが、自然な色彩、滑らかな動き、場面転換の軽快なテンポなど、文句のつけようがない極上のアニメーションだった。黒猫モードのシャオヘイは、マンガっぽくデフォルメした顔つきなのだが、猫らしい体の柔らかさが丁寧に表現されていた。後半の風息と無限の戦いは、都市の現実感がちゃんと出ていて、SF映画大作のようだった。言葉数の少ないムゲンのクールなかっこよさと、シャオヘイの弾けるような子供らしさ。美味しいものや楽しいこと、そして人の温かさには素直に反応し、嫌なことは全力で拒否するシャオヘイが可愛くて、ずっと目を離せない。笑えるシーンもたくさんある。食べものがすべてリアルで美味しそうなのもポイントが高い。敢えて難点をいえば、元来ウェブ上で28話まで公開されている本編があって、その前日譚として作られているため、この作品内で活かし切れていないキャラクターがいることだろうか。

 物語の大きなテーマは、異なる者の共存である。妖精には、長年暮らしてきた自然の洞窟を人間に奪われて、嘆いている者もいる。宅地造成で破壊されるだけでなく、入場料の要る観光資源になってしまったというのが現代的でリアル。一方で、さまざまな人間の発明(スマホとか)を面白がっている妖精もいる。結局、人間にも妖精にも、いい奴もいれば悪い奴もいるので、人間と妖精は共存していくしかないんじゃないか、と館の妖精たちは思っている。実は龍游には、たくさんの妖精が人間に交じって暮らしており、地下鉄に乗ったり、花屋でバイトをしていたりする(多くの人間は気づいていないのかもしれないが)。このゆるい共存関係は理想的に思える。

 私は中国語音声を聴きたかったので字幕版を見てきた。「館(やかた)」と字幕が出ていたのは、原語では妖霊会館という。かつて中国の主要都市に商人たちが業種ごとや出身地ごとに建てた「会館」(さまざまな機能を備えた互助組織)のイメージなのかな、と思った。あと、最後にシャオヘイがムゲンを呼ぶときの字幕は「師匠」なのだが、原音は中国ドラマで聞き慣れた「師父(しーふ)」呼びで、これはどちらも好き。

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科学と技術と文部省/科学技術政策(鈴木淳)

2021-03-04 23:06:12 | 読んだもの(書籍)

〇鈴木淳『科学技術政策』(日本史リブレット100) 山川出版社 2010.6

 昨年、日本学術会議の任命問題が世間を騒がせたとき、日本の科学技術政策を歴史的視点で考えるならまずこの本、という誰かのつぶやきを見て、読んでみた。本書は、明治初年に「科学」「技術」という言葉ができてから、我々になじみのある科学技術政策が発足するまでの歴史的過程をたどったものである。

 明治3年(1870)明治政府に設置された工部省は、製鉄、鉄道、電信などの工業を所管するとともに、工部大学校における研究と教育など、工業技術振興の幅広い権限を与えられる。明治6年(1873)に設置された内務省の勧業寮は、勧業・勧農事業を所管し、工業試験事業も開始する。明治14年(1881)には農商務省が誕生し、農商工諸産業を管轄することになった。この乱立状態に文部省が登場し、工部大学校、駒場農学校を帝国大学に編入し、東京職工学校(のちの東工大)を開設する。文部省は、あらゆる分野の学校教育を自省の管轄に収めることに熱心だった。確かにそのほうが、教育事業としては効率的だが、現場の技術から切り離された大学は、科学の担い手の色彩を強めたと著者は指摘する。

 大正年間、科学の産業利用を目指した科学者たちの建議と運動によって、大正5年(1916)理化学研究所が発足する。しかし、基礎研究を推進する役割は果たしたものの、国内産業への貢献では、工業試験場に及ばなかったという。なかなか現実は厳しい。

 東京学士会院は、先進国のアカデミーを模して明治12年(1879)に発足していたが、大正8年(1919)文部省の管轄のもとに設置されたのが学術研究会議である。初代会長は土木学者の古市公威で、政府が新たに研究所・試験所等を設置する際は、無益な重複を避けるため、あらかじめ学術研究会議に諮詢するよう求めたという。ああ、現在の「マスタープラン」の淵源だな、と思った。しかし「(第一次)大戦後の財政事情が悪化する時期にあたり、実効は乏しかった」「経費節減のなかで国家的に重要な研究課題を選択し、研究を統制することがめざされた」という当時の状況は、あまりにも今と似ている。この頃、研究奨励費の削減を挽回するために設立されたのが日本学術振興会。

 日中戦争開始後、国防のための「科学動員」を積極的に打ち出したのが企画院で、これに刺激された文部省は、学術会議の会長である平賀譲(帝大総長)を軸に、科学振興に大きく踏み出す。昭和15年(1940)には「科学技術新体制」の名の下に技術院が発足し、昭和17年(1942)科学技術審議会が設置される。しかし、技術院は、在来の官庁を刺激し、科学技術への取り組みを積極的にさせた効果はあったものの、それ以上の成果は生み出せなかった。戦後、人々は「合理的な体制」の不備に戦争の敗因を求めたが、「単一な指揮系統で総動員ができたとしても、当時の日本の資源や科学技術の限界から、それほど結果は変わらなかったと思われる」という、実に身も蓋もない指摘こそが、真実のように思われる。

 しかし「科学」は希望の言葉となり、GHQ科学技術課の支援のもと、日本学術会議が発足する。1956年には科学技術庁が発足し、科学・技術政策の立案・調整と、原子力、航空、のちに宇宙開発という国家的な大規模技術開発を担うことになる。初代長官は正力松太郎なのかー。学術会議は、科技庁が原子力行政を担当することに反対したというのはなぜなんだろう。このへん、もう少し詳しく知りたい。宇宙開発をめぐっても、科技庁と文部省・大学の対立があって、1968年には科学技術基本法案が廃案になっているという。今では想像がつかないが、当時の文科省は大学と歩調を合わせていたということか。

 1995年に科学技術基本法が成立し、5年ごとに科学技術基本計画が策定されることになった。2013年には科学技術イノベーション総合戦略が決定し、以後、国の施策では「科学技術」に「イノベーション」を添えるのが定番となった。著者は「科学技術政策はイノベーション政策のなかに埋没しつつあるかのようだ」と批判的である。明治以来の「科学」と「技術」の主役争いが落着し、両者が一体化したところで、新たに出現した「イノベーション」という異分子。果たしてこれも一体化していくのか、それとも一時の流行に終わるのか分からないが、言葉の物珍しさに騙されないよう気をつけたい。

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肉筆浮世絵の美人たち/筆魂(すみだ北斎美術館)

2021-03-03 23:32:32 | 行ったもの(美術館・見仏)

すみだ北斎美術館 特別展『筆魂 線の引力・色の魔力-又兵衛から北斎・国芳まで-』(2021年2月9日〜4月4日)

 私が、久しぶりに東京東部の住人になったのが2017年の春。すみだ北斎美術館は、2016年11月に開館した新しい美術館である。一度行ってみようと思いながら、そんなに浮世絵好きでないもので、ずっと機会を逃していた。今回は、浮世絵の中でも肉筆画に重点を置き、浮世絵の先駆とされる岩佐又兵衛の作品も展示。菱川師宣、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川国芳などの60人に及ぶ浮世絵師の肉筆画約125点を展観し、初公開作品も多数という、力の入った特別展なので、ようやく重い腰を上げて行ってみた。

 まず奇抜な美術館の外観に驚く。最近は、こういう建築が流行りなのだろうか。

 私が行ったのは前期で、又兵衛は『弄玉仙図(旧金谷屏風)』(摘水軒記念文化振興財団所蔵、寄託先の千葉市美術館でときどき見るもの)、『和漢故事説話図・浮舟』(福井県立美術館)『本間孫四郎遠矢図』(大谷美術館)を展示。最後の作品は初めて見たかもしれない。左端に描かれた馬上の武者(孫四郎)が、魚をつかんだ海鳥のミサゴを射落とす。飛矢によって、まさに片翼を引きちぎられたミサゴの姿態がストップモーションのよう。船の中で驚き呆れる武士たちの表情にも生き生きと躍動感があって面白い。

 作者不詳の『遊楽図』(個人蔵、菊や桔梗が目立つ)は、くねくねしたS字立ちのポーズ、男女とも切れ長の目が大きく、赤い唇のおちょぼ口で、無駄にセクシーな顔立ちをしている。『紅葉狩り図』(個人蔵)は武家の一行を描いており、笠をかぶった女性(?)を除く8人ほどはすべて男性だと思うが、やはり顔の描写が丁寧すぎる。髭の侍まで目がぱっちり。腐女子の需要があったのではないかと疑いたくなる雰囲気。

 そして数々の美人図。無背景に立ち姿の美人を単独で表したものは「寛文美人図」と呼ばれるが、寛文年間(1661-1673)を下り、18世紀初頭まで描き継がれている。師宣、懐月堂安度、宮川長春くらいは知っていたが、松野親信、梅翁軒永春、梅祐軒勝信、鳥居清春など、初めて聞く名前が多かった。これらの美人図、江戸中期以降の版画錦絵の、やや奇を衒い、画一化した美人画に比べると、驚くほど自然な女性の表情がとらえられている。一枚ものという特性から、万人受けを狙う必要がなく、画家が自分の好みの女性をのびのび描いていたのではないかと想像する。着物を強調した結果、身体に健康的なボリュームがあるのもよい。

 なお、川又常正『ほおずきを持つ美人』に「どこか切ないような、思い詰めたような」という解説が添えてあったが、ほおずきは堕胎薬だったことと関係していないだろうか。祇園井特の『美人図』2件が見られたり、烏山石燕の『関羽図』を見ることができたのも嬉しかった。

 18世紀末から19世紀、浮世絵美人画は格段の洗練を加える。目鼻立ちの小さいあっさり顔で、身体は棒のようにスラリとした、しかし体幹にちゃんと厚みのある、この時代の美人たち。歌麿の『夏姿美人図』好き! 黒地に絣模様の薄手の着物、草木模様の緑の帯がシックでおしゃれ。観雪斎月麿の『楊枝をくわえた美人』は後期出品で、図録で見つけた作品なのだが、コケティッシュな視線が魅力的で、浮世絵にこんな美人画があるのか!と衝撃だったので書き留めておく。鳥文斎栄之の『傾城図』も好き。

 幕末は、豊国、国芳、英泉など、私の知っている絵師が多くなる。満を持して、同館所蔵の北斎作品が登場。美人画以外にも、多様な肉筆画が展示されていて面白かった。やっぱり肉筆浮世絵はいいな、というのが今回の感想である。

 最後に常設展示室にも寄った。晩年の北斎と娘の阿栄の姿が再現展示されている。生き人形! ときどき、筆を持つ手が微妙に動いたりする。

 そして、墨田区には、生誕地である本所割下水をはじめ、北斎ゆかりの地が多数あることも知った(→ゆかりの地MAP)。やっぱり墨東は面白いな。

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燃え尽きるまで/あしたのジョー!展(世田谷文学館)

2021-03-01 22:19:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

世田谷文学館 企画展『あしたのために あしたのジョー!展』(2021年1月16日~3月31日)

 『あしたのジョー』 (原作:高森朝雄、作画:ちばてつや)は、講談社の『週刊少年マガジン』に1968年1月から1973年5月にかけて連載されたスポーツマンガの金字塔である。連載開始から50年を経て、今も多くのファンに愛されている。

 連載当時、小学生だった私は、さすがにリアルタイムの熱狂は経験していない。近所の床屋(美容院ではない)に散髪に行くと、少年マンガ誌がたくさん置いてあって、そこで触れた記憶はある。年下の従弟(男子)の家には『巨人の星』や『タイガーマスク』が揃っていたが、『あしたのジョー』は無かった気がする。いや、私が、この作品を避けていたのかもしれない。殴り合いシーンが暴力的だから? そうではなくて、高度成長期以降の東京しか知らない小学生には、ドヤ街とか泪橋とか、この作品の根底に織り込まれた社会構造、貧富の差、階級格差みたいなものが分からなくて、ちょっと難しかった気がする。

 会場には、名場面をつないだパネルで、作品のあらすじが紹介されていた。これを見ると、ジョーの少年院入りから力石徹との死闘までの前半は、だいたいおぼろげな記憶があった。どこかで一、二回は原作を読んでいるのだろう。後半は、1980-81年放映のTVアニメ『あしたのジョー2』の記憶が強くよみがえった。このアニメは、出崎統・杉野昭夫の作品で、かなり熱烈にハマって見ていたのだ。今回、会場で原作のパネルを見て、アニメのセリフや登場人物の服装などが、かなり原作に忠実だったことを感じた(もちろん意識的に改変した点もあるだろうが)。

 高森城(高森朝雄=梶原一騎氏の長男)氏とちばてつや氏は、それぞれ「名場面15R」を選んで、熱い言葉で解説を付している。さらに生前の高森朝雄氏が作品を語った言葉など、貴重な文章が会場の壁いっぱいにちりばめられてて、ひたすら貪り読んでも飽きなかった。最終回をどうするか、考えあぐねていたとき、そのずっと前、ジョーが紀子にボクシングについて語る中に「真っ白な灰」という言葉があることを思い出し、あのシーンになった、という証言が強く印象に残った。作ろうとして作ったものでなく、自然に生まれたラストシーンなのだな、と思った。

 会場冒頭のあいさつパネルに記された、ちばてつや氏の直筆サイン。

 高森朝雄氏の筆跡はまさかの丸文字!(生原稿は撮影できないので写真パネルから)

 これは『あしたのジョー』最終回が掲載された少年マガジンの表紙。ちばてつや先生(左)若い! 右のこわもては高森朝雄氏。そしてリングのまわりには、ホセ・メンドーサとかカーロス・リベラとか、登場人物たちが勢ぞろいで、力石徹も交じっているのが微笑ましい。

 「戦後」の混沌が終わろうとする時代の、爆発的なエネルギーを背負っていて、大衆文学と純文学のいいとこ取りみたいな作品だと思う。あの頃の日本社会の光と影を知るためにも、何度も読み返されてよい作品。取り上げてくれてありがとう、世田谷文学館。

※参考:「あしたのジョー」連載50周年記念サイト

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