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見もの・読みもの日記

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弱者に寄り添う/宣教師ザビエルと被差別民(沖浦和光)

2017-01-18 22:17:34 | 読んだもの(書籍)
○沖浦和光『宣教師ザビエルと被差別民』(筑摩選書) 筑摩書房 2016.12

 話題の映画『沈黙』を見る前に!というPOPに惹かれて、つい購入してしまった。本書は、フランスシスコ・デ・ザビエルを主とするイエズス会宣教師たちの海外布教の足跡をたどった著作。日本だけでなく、インドやインドネシアも舞台となっており、いずれの地域でも、彼らが底辺層の民衆への布教に力を尽くしたことが語られている。ザビエル(1506-1552)は、バスク地方にあったナバラ王国に生まれた。ザビエルとともに「イエズス会」を結成するロヨラ(1491-1556)もこの地方の生まれで、二人ともバスク人だったというのは、初めて知った。

 サビエルたちが活躍する時代の少し前、14世紀の西ヨーロッパはイスラム勢力に包囲されていたが、15世紀末、イベリア半島のレコンキスタ(国土回復)が完成すると、形勢逆転して、大航海時代の幕開けとなる。15世紀末から16世紀にかけては、宗教改革の大激動期でもあった。ルター派、カルヴァン派などプロテスタント各派が果敢な闘争を展開する一方、カトリック教会の中からも、民族や国家という枠組を越え、万人に開かれた「神の国」を目指す「イエズス会」が結成される。このへんは、だいたい自分が理解していた歴史像のとおりだった。

 そして、未知の世界に福音を伝えるため、海外に進出した宣教師たちは「植民地経営の思想的な尖兵」であったという考え方がある。著者は(例外はあるにしても)そのように考えていたと告白しており、私自身も同じ認識を持っていた。しかし、本書を読んで、イエズス会=侵略の尖兵という、一見「いい話の裏を暴いた」ような通説が、宣教師たちの活動実態に即していないことを思い知らされた。

 ザビエルは、1542年5月にインドのゴアに到着すると、現地語を学び、漁民の間で布教を開始する。彼の書簡が伝えるところによれば、まず漁民たちの文化や風俗を理解し、子どもたちのために小さな学校をつくり、病人の救済にも取り組んだ。「彼らにキリスト教の福音を直接説くことは、結果としてはその次の課題であった」という。漁民たちは、ヒンドゥー教の「不殺生戒」を犯すことによって、アウト・カーストのと見られていた。

 1546~47年にかけては、マルク諸島(インドネシア東部、ニューギニア寄り)に赴く。島々には、元来、古マレー系の人々が住んでいたが、16世紀になると、特産品の香料を求めて新マレー系が移り住み、インドやアラブ系の商人を通じてイスラム教が入ってきた。しかし、古マレー系の先住民はイスラム教を受け入れず、イスラム商人は先住民の「首狩り」の習俗を蔑視していた。ザビエルは、首狩り族と疫病の危険があるという忠告にもかかわらず、未開の島々に渡り、野営をしながら先住民の村々をまわって、病人を介護し、子どもたちを教育しながら、彼らに洗礼を授けた。

 このような、インドとインドネシアにおけるザビエルの活動実態を知ると、文明化した日本での布教など、さほどの困難ではなかったろうなという感想とともに、日本での布教が、地位や教養のある人々だけをターゲットにしたものであるはずがないよな、という推測が湧いてくる。

 マルク諸島からの帰途、ザビエルは、マラッカで鹿児島出身の海商アンジロー(ヤジロー)と出会う。ザビエルは、アンジローともう二人の日本人をゴアに連れ帰り、洗礼と教育を施した。そして、アンジローを案内人とし、1549年、ついに日本の鹿児島に上陸する。鹿児島、平戸、山口など布教の旅を続けながら日本語を学び、「40日間で神の十戒を説明できるくらいは覚えました」というのに感心した。一方的にキリスト教の教義を押し付けたのではなく、ちゃんと現地文化を理解しようとつとめていたのである。

 1551年、日本を離れたザビエルは、中国・広東の沖合の島で亡くなり、遺骸はマラッカを経て、いまインドのゴアに埋葬されている。そして、ザビエルの遺志を継いで日本にやってきた宣教師たちは、戦争孤児の施設をつくり、学校を建て、生活困窮者や重病人の救済活動を精力的に行った。私が教科書やドラマを通じて培ってきた宣教師のイメージは、有力大名に布教する姿ばかりだが、実は「漂泊の遊芸民や層からの入信者も少なくなかった」という。琵琶法師のロレンソ了西(了斎)とか遊芸民のトビアスとか、名前を聞くだけで小説的な想像力を刺激される。

 また「癩者」も多かった。フランシスコ会は、日本の7か所に病院を設け、その多くは救癩のための施設だった。迫害時代に入っても、フランシスコ会は特に東北地方での布教に力を尽くしたという。こうした実態を知らずに、イエズス会=侵略の尖兵みたいな一面的な見方を振りかざすことは、今後、やめにしようと思った。そして、イエズス会宣教師を警戒する通説の出どころとしては、続いて日本にやってきた新教国オランダの影響が強いのではないかと考えた。

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