見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

週刊誌記者の執念/桶川ストーカー事件(清水潔)

2017-02-09 20:39:56 | 読んだもの(書籍)
〇清水潔『桶川ストーカー事件:遺言』(新潮文庫) 新潮社 2004.6

 清水潔さんの名前を知ったのは、2015年10月、NTV系列の深夜枠で放送されたドキュメンタリー『南京事件 兵士たちの遺言』だった。放送前からSNSなどで注目が集まっていたが、深夜じゃ起きていられないだろうなあと思っていたら、ヘンな寝方をしてしまったので、たまたま起きていて見ることができた。元日本軍兵士の証言や当時の日記などの一次資料から、実際に何があったかに迫る内容だった。

 硬派なジャーナリストだなと思っていたら、今度は、その清水さんの旧著『桶川ストーカー事件』『殺人犯はそこにいる』が面白いという声が、SNSで複数の人から聞こえてきた。そこで読んでみたのが本書。1999年10月、埼玉県のJR桶川駅前で、白昼、女子大生が刺殺される。当初は通り魔か?と疑われたが、著者は、被害者の友人への取材から、被害者が元交際相手の男に執拗につきまとわれていたことを知る。しかし、その男と、目撃された実行犯の特徴が一致しない。その男は「金で動く人間はいくらでもいる」と言っていた。この文明国家の日本で、そんなことがあり得るのか?

 しかし、あったのだ。著者は、元交際相手の男の交友関係から、実行犯の男を割り出し、潜伏先に張り込んで、写真撮影に成功する。当時の著者は、写真雑誌「FOCUS(フォーカス)」に勤務する、カメラマン上がりの記者だった。FOCUS! 正直、びっくりした。同誌は1981年に創刊され、2001年に休刊した写真雑誌の草分けである。類似誌の「FRIDAY」や「FLASH」に比べれば、エロや芸能記事は少なかったけど、テレビや新聞などの「健全」なメディアが絶対に扱わない記事や写真を掲載し、物議をかもして上等、という路線の雑誌だった。正直、胡散臭い印象しか残っていない。そして、警察の「記者クラブ」に加盟していないから、警察の会見にも入れてもらえない。それでも著者は、人脈を使い、足を使って、真実に迫ってゆく。

 取材に行き詰まると、どこからか協力者が現れることを著者は「幸運」と呼ぶ。しかし、その幸運は著者の執念が手繰り寄せたものだろう。殺されることを覚悟していた被害者は「遺言」を残しており、彼女の友人たちは、その「遺言」を必死で著者に手渡した。そう信じて、著者は犯人を追う。結局、殺害の実行犯は逮捕されたが、元交際相手の男は北海道の湖で遺体となって見つかり、自殺と判断された。事件はこれで終わらなかった。

 被害者の友人たちは、はじめから「彼女は〇〇(元交際相手)と警察に殺された」と著者に訴えていた。その背景には、被害者が相談していた埼玉県警・上尾署のおそるべき無気力・無責任な捜査実態があった。「FOCUS」はこれを記事にし、テレビの報道番組「ザ・スクープ」が取り上げ、さらに国会でも警察庁長官に対する追及が行われた。最終的に、埼玉県警は過失を認めて謝罪会見を開き、関係者の処分が発表された。

 この事件を機に「ストーカー規制法」が成立したというのは、ぼんやり認識していたが、私は事件の梗概をほとんど記憶していなかった。2002年と2003年に、この事件を題材にしたテレビドラマが放映されたというのも全く覚えていない。そのため、不謹慎ではあるけど、よくできた社会派のミステリーを読むような気持で本書を読んだ。しかし、事実は小説より奇なりで、こんな異常な犯人がいるんだなあ、人間にはあらゆる可能性があるのだなあ、と思った。そして、雑誌「FOCUS」に対する印象を少し修正した。
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清盛と後白河院も登場/文楽・平家女護島

2017-02-08 21:24:21 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 開場50周年記念2月文楽公演「近松名作集」第1部(2月4日、11:00~)

・第1部『平家女護島(へいけにょごのしま)・六波羅の段/鬼界が島の段/舟路の道行より敷名の浦の段』

 国立劇場2月文楽公演は、久しぶりに「近松名作集」を称して、人気の高い演目が並んだ。なんとか全公演のチケットを入手することができたので、公演初日に第1部を鑑賞してきた。舞台下手の端だが最前列の席だったので、近眼の私にも人形がよく見えて楽しかった。第2部と第3部は別の日に行く予定で、これはできるだけ床に近い席を取ってある。

 『平家女護島』は、「鬼界が島の段」のみ上演されることが圧倒的に多く、本公演と同じ形式で上演されたのは、平成7(1995)年以来だという。私も「鬼界が島の段」は何度か見た覚えがあるが、あとは初見だった。「六波羅の段」では、俊寛の妻・あずまやが入道清盛に横恋慕されるが、操を立てて自害する。情義をわきまえた能登守教経は「でかした」と称賛して、あずまやの首を清盛に差し出す。能登守教経は『義経千本桜』でもいい役だったなあ。

 場面変わって「鬼界が島の段」。孤島で暮らす流罪人の俊寛、平判官康頼、丹波少将成経の三人。昨年、大徳寺境内で康頼の供養塔を見たことを思い出す。俊寛を和生、康頼を玉志、成経を勘彌で、白髪頭が並ぶのが、少し気になる。最近は全て出遣いだけど、ほんとにこれでいいんだろうか。成経を慕う、海女(漁師の娘)・千鳥を蓑助。いや~かわいい、色っぽい。でもたまには娘役以外の蓑助師匠が見たい。和生さんの俊寛は、なんというか、枯れた感じがよかった。

 さて、しばらく船路の道行の詞章を楽しみ、次の幕があがると敷名(しきな)の浦。俊寛の郎党・有王丸は待ちかねた流人船に声をかけるが、主人の俊寛が乗っていないことを知り、悲しみにくれる。そこに立派な御座船。「清盛様、鳥羽の法皇を連れまして厳島御参詣」と語られる。配役は清盛と後白河法皇となっていたのに「鳥羽の法皇」と聞こえたので、あれ?と思った。でも後白河院も鳥羽にいたから、こう呼んでいいのかしら。

 この清盛が見事な極悪人で、後白河法皇に対し「俊寛を始め人を語らひ、ぬっくりとした事たくまれし」と怒りをぶつけ、「根性腐っても王は王、手にかくるは天の畏れ」なので「サア身を投げ給へ」とつめよる。法皇が嘆きのあまり「入道が心に任すべし」というと、清盛は「院宣は背かじ」と法皇を引き寄せ、真っ逆さまに海へ投げ入れてしまう。いや、史実の後白河法皇はこんなに心弱くないと思うが。

 あわや海に沈まんとする法皇を助けたのは、水練に巧みな海女の千鳥。しかし激怒した清盛は熊手で千鳥を引き上げ、頭を微塵に踏み砕いてしまう。千鳥の骸から現れた火の塊は清盛に取りつく。いろいろな物語や古伝説の要素が巧みに使われていて、興味深い。熊手で海から女性を引き上げるのは、もちろん、平家物語の建礼門院の逸話を取り込んでいるし。近松は、30代で出世作となる『出世景清』を書き、晩年にまた源平時代に取材した『平家女護島』を書くのだな。平家物語、好きだったんだろうか。

 最後は太夫さんがずらりと並ぶ賑やかな舞台で、咲甫さんの声がやっぱり好き。咲寿さんもずいぶんいい声になったなあ。本公演のプログラムに豊竹咲太夫師のインタビューが掲載されていて、「曽根崎心中」の演出の変化などの話も興味深いのだが、「人形さんはうまく世代交代ができていますが、太夫は難しい」「やっぱり五十の声を聞かないと、我々の言葉でいう『映らない』ですね」という発言が印象に残った。そうそう、太夫は五十からですよ。でも、しっかり稽古をしていなければ、五十から急に巧くなるものでもない。芸の道は厳しい。
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新潟の日本遺産/火焔型土器のデザインと機能(国学院大学博物館)

2017-02-07 22:02:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
国学院大学博物館 平成28年度特別展『火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016』(2016年12月10日~2017年2月5日)

 最終日に滑り込みで見てきた。信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化が文化庁の日本遺産に認定されたことを記念し、その実態と魅力を多面的に紹介する展覧会。SNSなどでかなり話題になっていたが、行ってみてよかったと思う。展示品は71件で、全て新潟県(新潟県立歴史博物館、十日町市博物館、長岡市馬高縄文館、津南町教育委員会など)から持ってきたものだ。「火焔型土器」と「王冠型土器」が合計25件。ほかに土偶や土器、石棒や磨石などがあり、いずれも縄文時代中期(約五千年前)の考古遺物である。

 火焔型土器は、上部の4か所(原則)に鶏冠のような大ぶりの把手(突起)があり、把手以外の口縁部は鋸の歯状をしている。一方、王冠型土器は、同様に上部の4か所が立ち上がっているが、火焔型土器ほど複雑な形状ではなく、口縁部は滑らかで鋸の歯状の装飾がない。一見、よく似ているが、説明を読むと、なるほど違うものだということが分かる。あと、Wikipediaによると、1936年に新潟県長岡市の馬高遺跡で発見された出土第1号の土器のみを「火焔土器」と通称し、他を「火焔型土器」と呼ぶ慣習が一部にあるそうだ。え?と思って、本展の出品目録を見直してみたら、1件だけ分類が「火焔土器」になっているものがあったが、会場のどこにあったもののことか、記憶がはっきりしない。

 本展では「数」の迫力に圧倒された。私は、完全な火焔型土器というのは、数点しか現存しないものだと勝手に思い込んでいた。それが、近い関係にある王冠型土器を含め、狭い展示スペースに二十件以上並んだ迫力! むかし、中国・四川省の三星堆遺跡の文物が紹介され始めた頃、現地の博物館で、異様な造形の仮面がごろごろ発掘されているのを見て呆れたことを思い出した。そして、芸術的鑑賞に堪える、シュッとした火焔型土器ばかりでなく、何か「民芸」的に間の抜けた火焔型土器もあるのだと分かって面白かった。私は、後者の造形がけっこう好きである。火焔型土器は、上部の広がった深鉢形(ゴージャスなクリームパフェみたい)が典型的だが、植木鉢のようなずん胴型や、まれに浅い鉢形もあることを知った。

 なお、同館は常設展示の考古ゾーンにも多数の縄文土器が展示されており、前期(1万5,000年前)→中期(5,000年前)→後期→晩期と造形の変遷を追うことができる(時代区分は諸説あり)。火焔型土器を含む中期がいちばん装飾的。解説によれば、日本列島では1万6,000年前に土器が出現しており、中国の華中・華南、ロシアのアムール川流域でも1万2,000年前を超える土器が出土している。東アジアは「世界最古の土器の起源地」であるとの説明に、しみじみ感じ入る。

 最後に、もう一度、特別展のエリアに戻ってきて「火焔型土器が日本遺産になるまで」という年表パネルを見つけて、微笑んでしまった。「1936年 12月31日に近藤篤三郎が馬高遺跡で火焔土器を発掘したと伝えられる」「1951年 火焔土器が学校教科書(高等学校 日本史)にはじめて掲載される」などはともかく、「1976年 水木しげるが火焔型土器をマンガに描く(縄文少年ヨギ)」「1977年 手塚治虫が火焔型土器をマンガに描く(三つ目がとおる)」「1978年 諸星大二郎が火焔型土器をマンガに描く(孔子暗黒伝・東夷伝)」などなど。年表を作った学芸員さんの火焔型土器愛が伝わってくるようである。私が使った教科書にも火焔型土器は載っていたかも知れないが、どちらかといえば、こうしたマンガを通じて、火焔型土器のビジュアルイメージを記憶に刻んできたような気がする。

 1964年の東京オリンピックの聖火台に火焔型土器のデザインが提案されていたことは初めて知った。結局、採用されなかったようだが、同じ年の新潟国体では、本当に火焔型土器のかたちをした炬火台が使われた(ネットで検索すると写真あり)。1993年の石川国体でも通称「お魚土器」(王冠型土器)のデザインが使われている。でも、土器は煮炊きの容器であって、その中で火を燃やすのは違うんじゃなかろうか?
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辻惟雄vs.佐藤康宏対談あり/雑誌・別冊太陽「岩佐又兵衛」

2017-02-06 22:57:18 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『別冊太陽』2017年2月号「岩佐又兵衛 浮世絵の開祖が描いた奇想」 平凡社 2017.2

 久しぶりに購入した別冊太陽。表紙は『残欠本堀江物語絵巻』で、主人公の月若が敵(かたき)の国司を肩から腰まで真二つに斬り落とし、血しぶきがあがるシーンである。よくこれをピンポイントで表紙に使ったなあと呆れたが、絵空事すぎて陰惨な印象がなく、スカッとした爽快感が湧き上がってくる。

 岩佐又兵衛(1578-1650)は「浮世絵の開祖」とも言われる江戸時代初期の絵師。昨年は福井県立美術館で、福井移住400年記念の『岩佐又兵衛展』が開催され、昨日まで東京・出光美術館で『岩佐又兵衛と源氏絵』が行われていた。私は、本書をざっと眺めた上で、出光の展示を見に行った。出光の展示は、又兵衛と岩佐派の「源氏絵」にフォーカスを絞った企画だったが、本書は幅広く又兵衛の作品を扱っている。「絵巻に描いた恋と復讐」「王朝物語の洗練」「大和絵に通じ、漢画を巧みにする」「浮世を描く」「岩佐派の系譜」の5章構成。

 私が岩佐又兵衛に関心をもったのは絵巻からなので、やはり第1章がいちばん楽しい。第2章は、源氏絵のほか、歌仙図も。又兵衛が多くの歌仙図・歌仙額を残していることは、わりと早い時期に知ったのだが、「奇想」の画家と「伝統」の歌仙図という取り合わせに違和感があった。今は、そんな私の感じ方が一面的だったことを反省している。第3章は、バラエティ豊かで、眼福の連続。即興のような水墨の『人麿・貫之図』(MOA美術館)は大好きな作品。本書の対談(後述)に来日したチャップリンがこの絵を見ていたく感心したという逸話が紹介されている。水墨の『布袋図』(東博)のおちゃめな表情もいい。人物図の『楊貴妃図』や『維摩図』もいいなあ。そして『四季耕作図屏風』と『瀟湘八景図巻』は、本書でその素晴らしさを確認し、出光でじっくり鑑賞してきた。

 第4章は『洛中洛外図屏風(舟木本)』『豊国祭礼図屏風』などの「大物」が中心で、細部拡大図も多少あるけど、どうしても「もっと見たい」という不満が残る。『団扇形風俗図』(東博)は記憶にない作品だが、静かで、物憂げでとてもよかった。第5章は又兵衛の家族や工房の作。出光で見た『職人尽図巻』はここに入るのだな。

 本書には、又兵衛ファンなら、ほうほう、と頷くほどの豪華執筆陣が寄稿している。中でも白眉は辻惟雄先生と佐藤康宏先生の対談で、前半5ページ、後半7ページ(図版含む)の長編だが、情報量が豊富で飽きない。ジャーナリストの長谷川巳之吉が家を抵当に入れて『山中常盤』を買った話、学生時代の辻先生が『山中常盤』を見たショックで弁当の鮭の切り身を食えなかった話、『上(浄)瑠璃物語』の絵巻からかりんとうのかけらが出てきた話(お姫様がおやつを食べながら見ていた?)など。

 又兵衛はいろいろ論争の多い絵師である。『洛中洛外図屏風』について、編集部が「又兵衛筆と認定されたのですね?」と確認し、辻先生が「私がずいぶん足を引っ張っていたから(笑)」、佐藤先生が「そういうことですね(笑)」と応じているのが微笑ましかった。黒木日出男氏が、坊主頭の男(笹屋の主人)を「絵の注文主である」と推定したことについて、お二人はあまり納得していない。辻先生の説、間接的には京都所司代の板倉勝重からの注文で「お金はこちらの商人が出した」というのは検討の余地があるかも。佐藤先生の、右隻と左隻は絵師が違っていて、又兵衛が関与したのは右隻だと思う、注文主がいるなら右隻であるべき、というのも聞き逃せない。

 『洛中洛外図屏風』には「初発の生き生きとした感じ」があるが『豊国祭礼図屏風』は「冷めた固い感じ」というのは佐藤先生の言葉だが、すごく同意できた。もうひとつ、出光の『江戸名所図屏風』について「又兵衛風を変形したような恰好」というのも分かる。あと、源氏絵、漢画などを総括して「この画家(又兵衛)は相当いろいろな知識があった」というコメントも。これから10年くらいで飛躍的にファンが増え、そして研究が進みそうな予感がする。根拠のない予感だけど、書き留めておく。
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浮世に生きる源氏物語/岩佐又兵衛と源氏絵(出光美術館)

2017-02-04 23:36:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 開館50周年記念『岩佐又兵衛と源氏絵-〈古典〉への挑戦』(2017年1月8日~2月5日)

 岩佐又兵衛(1578-1650)が生涯にわたって描き続けた画題のひとつに源氏絵がある。本展では、又兵衛の源氏絵を中心に、又兵衛と同じ時代を生きた絵師たちによる源氏絵を加え、彼らが伝統を真摯に学びつつも、それにとらわれることのない自由で柔軟な発想によって、過去に例のない新鮮な源氏絵を生み出してゆく様子を展観する。金曜が東京で仕事終わりだったので、夜間開館を利用して見てきた。もう最終週だったのか、危ない危ない。

 冒頭に「やまと絵の本流」土佐派の源氏絵が数点並んでいたが、団体客で込み合っていたので、少し飛ばして、又兵衛の作品から見始める。『和漢故事説話図』の「須磨」「夕霧」「浮舟」。昨年夏、福井県立美術館で見たものだ。いや3点とも見たかは記憶が定かでないが、少なくとも「須磨」は印象的だったのでよく覚えている。吹き抜け屋台っぽく見下ろした庇の下、端近に立って嵐の海を見つめている源氏。ひどく不安定な構図なのが、場面の主題と合っている。『源氏物語 総角図屏風』(細見美術館)は、類例を思いつかない新鮮な構図。金雲と金の橋の下、青い水面(宇治川)、公達を乗せた舟と藁を積んだ小舟が行き交う。『源氏物語 桐壺・貨狄造船図屏風』は出光美術館の所蔵で、ときどき見る。

 一段低くなった一角に、格別の扱いで飾られていたのは『源氏物語 野々宮図』。右側には、かつてこの作品を含んでいた六曲一双の「旧金谷屏風」の復元図が紹介されている。左側には『野々宮図』と同じくらいの大きさで『官女観菊図』(山種美術館)と『源氏物語 花宴図』(所在不明)の写真。解説によると『官女観菊図』は『野々宮図』と同様、源氏の賢木巻に取材したという見解が提出されているそうだ。つまり「旧金谷屏風」には源氏絵が3点含まれていたことになる。

 次室は小休止で、又兵衛の多彩な画業を紹介。『四季耕作図屏風』(出光)は、たぶんこれまでも見ているはずだけど、あらためて好きになった。右隻の右隅の山や木(枝ぶり、葉)の描き方はすごく漢画(中国画)っぽい。これはやまと絵じゃないなあと感じる。左隻の左隅は印象的な雪景色。『瀟湘八景図巻』(出光)は全く記憶になかった。いや、見ていたとしても、絶対、又兵衛と結びついていないと思う。やまと絵というよりは漢画、でもそのどちらでもない幻想的な情景が展開する画巻。『職人尽図巻』は面白かった。しかし、あれもこれも出光美術館の所蔵で、又兵衛作品をこんなに持っていたのか!?と改めて驚く。

 次室から再び源氏絵、特に屏風が中心となる。高さ1.5メートルくらいの屏風で、金雲の間に源氏物語の名場面オブ名場面をセレクトして配したものが複数。高い需要があったのだろう。「伝・岩佐又兵衛」の屏風が5点出ていたが、かなり雰囲気が違う。大和文華館本はみやびやかだし、京博本は葵の車争いとか須磨の落雷の大騒ぎが近世風である。実際に又兵衛やその工房が、どのくらい制作にかかわったかはよく分からないようだ。

 出光美術館は、源氏物語の全ての巻の場面を描いた「五十四帖屏風」の岩佐派の作品を所蔵しており、これが本展後半のハイライトである。はじめに全54場面の拡大写真と解説パネルで予習をする。そして現物、と思ったら、最初に展示されているのは、土佐派(伝・土佐光吉)の「五十四帖屏風」で、伝統的な源氏絵とはこういうものか、というのを再確認したのち、ようやく岩佐派(又兵衛ではなく岩佐勝友筆)の「五十四帖屏風」に相対する。ふ~む、確かに土佐派とは趣きが違う。まず桐壺で登場する高麗の相人が漢画っぽい。紅葉賀などの芸能シーンに動きがある。全ての人物に生き生きした表情が見られる。

 絵画史的に注目されるのは「花の宴」で源氏が朧月夜を抱きかかえていること。伝統的な源氏絵には全く見られなかった図様で、又兵衛の「旧金谷屏風」、あるいは『舟木本 洛中洛外図屏風』に描かれた遊女を抱擁する男客の図との連想がはたらく。会場の最後に、これらの関係作品をスライドショー形式で見せるコーナーがあって、面白かった。また、朧月夜を抱きかかえる源氏の図は、江戸時代の絵師の一部に継承されていくというが、これ、最後に大和和紀の『あさきゆめみし』を置いてもよかったのではないかと思う。あと、源氏物語のこの場面についての私の印象は、男も強引だが、女も誘っているというもので、「旧金谷屏風」にはその雰囲気がうまく描かれていると思う。

 それから、私がいっそう興味を感じたのは、関連作品として展示されていた、伝・俵屋宗達筆『源氏物語図屏風残闕』で、その中の1枚「葵」に、碁盤の上に立って髪をそいでもらう幼い紫の上が描かれている。この作品は、初めて見たときからすごく気になっていた(※2005年の記事)。源氏物語の「葵」といえば、車争いの場面で代表されることが多いが、実は、岩佐勝友の「五十四帖屏風」も紫の上の髪そぎの場面を描いているという。屏風の中にその場面を見つけて、嬉しくなってしまった。

 最後に、冒頭で飛ばした土佐派の源氏絵に戻ってみた。すると、品があって可憐で優美で、やっぱり平安時代ってこういうものだよなあと安心する。でも、その安心を揺さぶる又兵衛の魅力にも抗えない。
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デザインと大量生産/セラミックス・ジャパン(松涛美術館)

2017-02-01 22:00:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
松涛美術館『セラミックス・ジャパン 陶磁器でたどる日本のモダン』(2016年12月13日~2017年1月29日)

 気になっていた展覧会に最終日に行ってきた。近代の日本でつくられた陶磁器のデザインを概観する初めての展覧会。幕末明治は、欧米のジャポニズム流行に助けられ、輸出向け陶磁器の生産が活況を帯びた。「上絵金彩」と呼ばれる華やかな作品が多い。外国商館を介さず、直接取引をする輸出会社も現れた。工芸品を扱った直輸出商社には、政府出資の起立(きりゅう)工商株式会社や民間の森村組がある。へえ~知らなかった。そして調べたら、森村組は森村グループとして現存しており、ノリタケカンパニーリミテドを中核とする「世界最大のセラミックス企業グループ」なのだそうだ。森村組の工場で生産されたという逆三角形シルエットの『上絵金彩花図花瓶』、イエロー系の色彩が愛らしかった。

 この展覧会の作品は、作者名に個人名が記されているものもあるけれど、「〇〇会社」とか「〇〇学校」とか「〇〇試験場」というものも多くて、それが「日本のモダン」なのだなと思った。学校・試験機関は、近代的な製陶技術の確立、技術者の養成に大きな役割を果たした。板谷波山の『新製マジョリカ皿』は、全く波山らしくない、牧歌的な里山風景の絵皿で、「東京工業大学博物館」所蔵とあるのに驚いた。波山が嘱託をつとめた東京高等工業学校は、東工大の前身なのである。

 ほかにも、金沢、瀬戸、有田、会津本郷、常滑、津名、土岐・多治見には窯業にかかわる実業学校が置かれた。徒弟学校とか実業補習学校というのがあったんだなあ。ふつうの教育史ではあまり触れられないけど。また、京都市陶磁器試験場、東京工業試験所など、各地の試験機関が果たした役割も大きい。まずお金と時間をかけて人材を育成し、それによって産業を振興しようという、まっとうな考えをする国だったことが感じられる。

 陶磁器は、テーブルウェア以外にもさまざまなところに用いられた。いちばん驚いたのは、秩父宮邸で使われていたという装飾電燈台(1927年)。巨大なアスパラガスのような形をしている。明治時代に製作されたという室内装飾用のタイルは楽しいなあ(淡陶株式会社等)。もし自由に家を建てるなら使ってみたい。これ、マジョリカタイルと呼んでいいのだろうか。

 第二会場に入ると、洗練されたデザインの製品が本格的に大量生産される時代が始まったことを感じさせる。帝国ホテルライト館(フランク・ロイド・ライトが設計した建物)のバンケットルームで使われた洋食器は、ライトがデザインしたものだという。これは欲しい!と思ったら、ノリタケで売っていた。でもコーヒーカップの形がちょっと違っていて、展示品のほうがいい。琵琶湖ホテルのコーヒーセットも品がよくて好き。また、このへんから私の知っている陶器会社の名前が現れる。大倉陶園、香蘭社、深川製磁など。やっぱり素敵だ~。

 このほか、陶磁器の珍品というべきものも目についた。コンパクトな汽車土瓶は、さすがに現役で使われているのを見たことはないが、これと同じ形態をした、プラスチック製のお茶容器は覚えている。南満州鉄道の汽車土瓶もあった。同潤会代官山アパートメントの洗面台もよく取ってあったなあ。戦時中には、資源節減のため、規格化された「国民食器」なるものがつくられた。しかし、徹底した機能美を追及した姿は美しすぎるくらいだ。「宮」の字が入った火鉢は、金属資源の節減のため、宮内庁が発注した火鉢だという。あれ?むかしは金属製の火鉢が一般的だったのか?と気になったので、書き留めておく。
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