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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

鎌倉・大巧寺のガクアジサイ

2009-06-12 22:49:09 | なごみ写真帖
鎌倉・おんめさま(大巧寺)は、ほっとするような花の寺。先週末は色とりどりの星雲のようなガクアジサイが盛りだった。今週はどうかな?



駅前のカトレアギャラリーでは『横須賀線120年記念写真展』(2009年6月3日~20日)を開催中。これも、なかなかの見もの。写真の出所が分からなかったが、全て個人蔵なのかな。
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新たな「近代」の叙述を目指して/ナショナル・ヒストリーを学び捨てる(酒井直樹)

2009-06-11 23:55:23 | 読んだもの(書籍)
○ひろたまさき、キャロル・グラック監修;酒井直樹編『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』(歴史の描き方1) 東京大学出版会 2006.11

 「学び捨てる」って、過激なタイトルだなあ、と苦笑しながら買ってみたら、タイトルページの裏に「Unlearning national history」という英訳が付記されていた。アンラーニング(Unlearning)とは、「学習棄却」と訳され、「いったん学習したことを意識的に忘れ、学び直すこと」を意味するのだそうだ。キャリア教育や人材マネージメントの分野では、定着した概念らしいが、私は初めて聞いた。学習(learning)と学習棄却(unlearning)のサイクルがあって初めて、継続的な成長が達成されるという。なるほど。「学び捨てる」とは「学ばない」ことではない。本書は、われわれが近代を叙述する際の「規範」であるナショナル・ヒストリーを、意識的に「学び捨てる」ことによって、新たな「日本」「近代」の叙述形式を獲得しようと試みている。

 ひろたまさきは、1960年代に始まる民衆思想史の立場から国民国家を超える可能性を探り、キャロル・グラックは、アメリカにおける日本歴史研究が新しい段階に入ったことを示唆する。近世日本人の自国イメージを論じだ横田冬彦と、明治初期の美作一揆(被差別に対する襲撃事件)を論じたデビッド・ハウエルの、2編の個別主題研究に続き、酒井直樹は昭和史論争における亀井勝一郎を題材に、歴史と責任主体の問題を論じている。

 亀井は、岩波新書『昭和史』を「『国民』不在あるいは人間不在」の歴史として批判したが、ここで、日本人=日本国民=日本民族=人間という、融通無碍な概念のすりかえが行われていることを、酒井は厳しく糾弾する。人間=日本人であるならば、それ以外の人々(アジアの人々)は人間でさえなく、日本人と彼らの間に責任の問題が生ずる余地はない。「愛犬に向かって謝罪の言葉を言ってみたりすることはあっても、私たちが犬に対して実質的な責任をとることがないのと変わらないだろう」という(酒井さんの文章は、こういうケレンぎりぎりみたいな”巧さ”が好き)。

 だが、華麗なレトリックに富んだ酒井の文章は、国民国家主義批判としては有効でも、新たな「近代」の叙述形式を呼び込めているかどうかは疑問が残る。以前読んだ『日本/映像/米国』(青土社、2007)と同じで、必要なのは日本人を統合するのではなく、「共同性に分裂を持ち込むこと」だと結論づけているが、このアジテーションには、まだちょっと、私は生理的にたじろぐ。

 ひろたまさきの言う「民衆思想史」も門外漢には難しいタームで、「少数者」にこだわり過ぎて、間口を狭くしている感がある。むしろ、キャロル・グラック(大御所)、デビッド・ハウエル(こちらは初耳)という2人のアメリカ人研究者による実証的な論考が非常に面白くて、「ポスト・ナショナルな歴史研究」の可能性を、具体的に実感させてくれた。
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綺羅星のごとく/大学の誕生(上)(天野郁夫)

2009-06-10 20:53:18 | 読んだもの(書籍)
○天野郁夫『大学の誕生(上)帝国大学の時代』(中公文書) 中央公論新社 2009.5

 近代日本の黎明期における「大学」の誕生は、なかなか面白いドラマである。本書が扱うのは、おおよそ明治年間。明治19年(1886)の「帝国大学」創設と、明治36年(1906)の「専門学校令」に触発された「私立大学」創設への動きが、重要な画期と目されている。

(1)帝国大学以前

 そもそも「大学」という名称を持つ高度の教育機関を設置しようという動きは、明治5年(1872)の「学制」公布以前から始まっていた。しかし、小学・中学の建設がこれからの課題である段階で「大学」の設置を具体的に構想することは、事実上不可能だった。そのため、明治6年「学制二編追加」には、妥協的な「専門学校」の規程が設けられ、この一つとして、開成学校が発足する。明治10年、東京開成学校は東京大学に改組されるが、実態は専門学校時代と何も変わらなかった。この時期、文部省以外の官庁も、「学制」の規程にかかわりなく、専門官僚を養成することを目的とした専門学校を次々と立ち上げた。著者はこれらを、フランスの高級官僚育成組織になぞらえて「日本型グランド・ゼコール」と呼ぶ。さらに、東京大学や官立専門学校には人材の「簡易速成」を目的とする課程が設けられ、世間には、医学・法学を中心に、種々雑多な専門学校群が登場する。

 「日本のように高度の文字文化の発達した国では、新しい教育システムの構想や法制とかかわりなく、時代状況の変化に応じ、社会と個人の必要や要求に応えてさまざまな学校・教育機関が自生的に設置されていく」という総括が興味深い。明治維新=「上からの近代化」というけれど、教育に関する限り、官権の果たした役割は限定的だったんじゃないかと思う。

(2)帝国大学の発足

 明治19年(1886)「帝国大学令」に基づき、帝国大学が発足する。この契機となったのは、明治14年の政変と、東京専門学校の開校である。東京大学の卒業生7名が「反体制」的な大隈重信の政治学校に参加したことが、政府と大学当局に与えた衝撃は大きかった。「東京大学は、国家の大学でなければならない」という理念(臆面もない…)が確認され、工部大学校などの日本型グランド・ゼコール群を統合し、日本の教育システムの頂点に君臨する、唯一無二の高等教育機関「帝国大学」が誕生するのである。

 帝国大学は、国家資格や国家試験を必要とする諸特権の独占体として、また学位・学会・学術雑誌など学術世界の独占体として、順調に発展を遂げた。同時に、帝国大学に有為な人材を供給するために、初等・中等教育の整備が進められたが、帝国大学の地位があまりにも隔絶していたため、学校間の接続関係の問題は、長きに渡って教育官僚を悩ませ続けた。

(3)「私立大学」の登場

 明治20~30年代、「高学歴人材」全体に占める帝国大学卒業者の比率はきわめて少なかった。そのことは、「学歴貴族」としての彼らの希少性を保証する一方、帝国大学は、高等教育の量的な主流でなかったことを示している。近代化・産業化の進展とともに、急速に肥大していく「民」の人材需要に応えたのは、むしろ多様な専門学校群であり、その中から「大学」を校名に掲げる私学が登場するに至るのである。
 
 私は竹内洋氏の著作が好きで、高等教育の歴史については、ずいぶん読んできたつもりだった。しかし、同氏の主要著作が「旧制高校→帝国大学」という、エリート教育の「王道」にフォーカスしているのに対して、現実には、その周囲を、各種学校、専門学校など、さまざまな教育機関が綺羅星のごとく取り巻き、それなりの役割を果たしていたことが分かって興味深かった。

 豆知識的に面白かったのは、この時代、ヨーロッパの大学は「無償」が原則だったのに、日本の大学・専門学校は、官学でも授業料を徴収していたこと。どうして、こういうところは西欧のシステムを真似ないのかなー。

 それから、東京帝国大学は、明治19年「帝国大学令」の公布された3月1日を、長く創立記念日として祝っていたという。これを読んで、私は、あれっ?と思った。現在の東京大学は、4月12日を創立記念日としている。これは、戦後の新制大学のスタート日ではなくて、明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学が発足した日なのである。帝国大学を否定するとともに、その否定した日から新たなスタートを切るのではなく、もっと起原を遡らせる――昭和天皇が、いわゆる「人間宣言」において、「五箇条の御誓文」を持ち出したレトリックにそっくりだと思った。

※参考:東京大学の歴史
http://www.u-tokyo.ac.jp/index/b03_j.html
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未完の青春/森鴎外展(神奈川近代文学館)

2009-06-09 23:54:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川近代文学館 特別展『森鴎外展-近代の扉をひらく』(2009年4月25日~6月7日)

 10代~20代の頃、鴎外のよさは全く分からなかった。なんでこんな退屈な小説家を「文豪」なんて持ち上げるんだろう、と本気で思っていた。けれども、自分自身が40歳を過ぎて、それなりに世間の波風に当たり、あらためて作品を読んだり、新しい鴎外論を読んだりすると、だんだん、こいつは思ったよりもいい奴じゃないか、と感じるようになってきた。 

 森鴎外(1862-1922)は、言わずと知れた明治・大正期の小説家・評論家。大学卒業後、陸軍省派遣留学生としてドイツに渡った。このときの恋愛体験を描いたのが小説『舞姫』である。帰国直後、実際に鴎外を追ってきたドイツ人女性がいたが、鴎外の家族らの説得により、横浜港から離日する。かくて、鴎外の青春は「横浜に始まり、横浜に終わった」(小泉浩一郎)。これは、神奈川近代文学館が森鴎外展を開催した言い訳みたいだが、案外、重要な視座かもしれない。「自由と美」を海の彼方に置き捨て、官吏として、家長として、周囲の期待を一身に引き受け、義務と責任としがらみを背負った「諦念(レジグナチオン)」の日々が始まる。

 鴎外は、しばしば論争を好み、戦闘的な啓蒙活動を行ったことで、「闘う家長」のイメージが強い。けれども、これは、周囲の期待に応じた「ポーズ」の一面もあったのではないかと思う。長男・於菟は、決して声を荒げず、「家庭や周囲の人々の間で心持の行違いが起こると非常に頭を悩ました」という「優しい家長」だった父・鴎外の姿を語っている。時には、文芸委員という損な役回りを引き受け、検閲をめぐって対立する文学者と政府の仲介役さえ買って出ている。斎藤茂吉、与謝野鉄幹・晶子夫妻、石川啄木など、一癖も二癖もある文学者たちから、信頼と尊敬を寄せられていたことは、鴎外という人物の懐の深さを示しているように思う。

 永井荷風は、わざわざFlying Dutchman(さまよえるオランダ人)の絵葉書を選んで、「帰国以後、オペラも音楽もなく夜は暗いばかりの処、先生が西国芸苑の清話にそぞろ蘇生の思致し候」と、興奮を隠せず記している。「蘇生の思」は実感だったろう。荷風もまた、海の向こうに「青春」を置き捨ててきたひとりだった。

 鴎外は、二度目の妻を「美術品」に譬えたということで、女性文学者には評判が悪いらしいが、この比喩は、親友・賀古鶴所に宛てた書簡に出てくるもので、前後を読んでみると、四十過ぎた男やもめの鴎外が、十八も歳の離れた美しい妻を迎えることになった「照れ」の表現だと思う。再婚に当たって、鴎外はかなり緊張していたことが窺えて、なんというか、微笑ましい。

 長女・茉莉は「(父は)死ぬ時まで再びヨーロッパへ行くことを願っていた」と語り、次女・杏奴は「亡父が、独逸留学生時代の恋人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった」と語っている。鴎外は、外向きには、謹厳な軍医局長、有能な国家官僚としての生涯を全うした。けれども、二人の聡明な娘の観察に従うなら、内心には、ヨーロッパの「自由と美」、留学時代の恋人――いわば、未完の「青春」への渇望を抱き続けた。この二面生活の苦渋に共感できるようになるには、やっぱり最低でも40年くらいの人生経験が必要だと思う。若輩者には分かるまい。

 こうして鴎外の生涯を辿ったのち、有名な遺言状「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の前に立ち止まって、私は涙がこぼれそうになった。この前段には「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ/奈何ナル官権威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ」という激しい文言がある。傍目には一生涯「官権威力」に従順に寄り添い続けた鴎外が、とうとう、最後に翻した反旗である。

 会場の入口に戻ってみると、大正10年(1921)、皇太子(昭和天皇)の欧州外遊からの帰国を伝えるニュース・フィルムが流れていた。このフィルムに最晩年の鴎外が映っているというのだ。眺めていると、画面の左端から右端へ、シルクハットを片手に携えた鴎外が、うつむき加減で足早に横切っていく。わずか3秒ほどのそのシーンを、私は何度も繰り返し眺めた。三々五々連れ立って談笑する高官たちに目もくれようとしない、その孤独な姿は、「官権威力」の中枢にあって、鴎外が感じ続けた「違和感」を表しているようにも思えた。
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早稲田大学で半日遊ぶ・その2/演劇と貴重書(演劇博物館ほか)

2009-06-08 22:40:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 企画展示 日中文化交流『上海演劇の精華』展(2009年6月1日~6月30日)

 会津八一記念博物館の次は演劇博物館へ。「上海演劇」と聞いてもピンと来なかったが、中国の伝統演劇が取り上げられているらしい。展示室に入ると、華やかな京劇の舞台衣装に迎えられ、有名な京劇役者の写真が並ぶ。導入部は、2005年にこの演劇博物館で行われた『京劇資料展』とよく似ていた。

 初めて見たのは、1920~30年代の京劇公演のポスター多数。ポスターと言っても、粗悪な用紙、写真なし、文字ばかりで、新聞の切り抜きみたい。よく残っていたなあ、と感心した。1920年代の昆曲の楽譜は、詞譜の横に文字とも記号ともつかない朱筆が加えられており、たぶん節回しを表わすのだろう。日本の中世の声明の楽譜を思わせる。映画『花の生涯-梅蘭芳』の邱如白のモデル、斉如山の著書もさりげなく展示されている。今も上海に残る劇場「天蟾舞台」の1930年代の外観写真も印象深かった。人気の役者名を大書した看板でハリネズミのように飾られている。当時の浅草もこんなふうだったのかなあ。いや、歌舞伎座に似ていなくもないか。

 展示資料は古いものばかりではない。90年代以降の、新しい演劇プログラムもずらりと並んでいる。また、京劇・昆曲・越劇だけではなくて、評弾(1人または2人で語る講談)、滑稽(コメディ)、皮影(影絵劇)、木偶(人形劇)など、日本人にはなじみの薄いジャンルも取り上げられていた。途中に設けられたパネルを読んで、これらは皆「上海市文化芸術档案館」が所蔵する資料だと知った。档案館とはアーカイブズ(公文書館)のこと。ただし、日本のように行政資料に限定しない。「中国では人民の行状が記された全ての記録を档案と呼んで、档案館の管理によって保存します」という。これは、全ての人民を管理下に置く、共産主義という政治体制の「怖い」ところでもあるのだが、それ以上に、記録資料の保存にかける情熱は、中華民族の血脈なのだろう。

■大隈記念タワー10階125記念室 『近世文藝の輝き-早稲田大学所蔵近世貴重書展-』(2009年5月14日~6月18日)

 最後に、この日の「本命」の展示会場に向かう。早稲田大学が所蔵する近世の和古書・書画など142点を厳選公開する貴重書展である。演劇博物館を有するだけのことはあって、近世演劇の資料はきわめて豊富。個人的に興奮したのは、書誌学でよく聞く「青本」「黒本」「黄表紙」が、いずれも「原装を備える」状態で並んだ図。青本って「黄色(もえぎ色)の表紙(黄色を青と称した)」というけど、ほんとなんだーとあらためて認識。黒本は名前どおり真っ黒。黄表紙は色が薄くて白っぽかった(→Wiki:草双紙)。

 圧倒的な存在感を示すのは、馬琴関係資料の充実ぶり。『南総里見八犬伝』の稿本は、ちょうど書き手が馬琴自身から息子の嫁のお路に交代した箇所が展示されていた。右の丁は、極端な墨の濃淡、空白の多い、失明寸前の馬琴の筆。もはや痛々しいほどよれよれである。左の丁は、律儀なフリガナに埋められたお路の筆。代筆の真剣さが伝わってくる。同じく『新編金瓶梅』の稿本は楽しい下絵入り。江戸の草双紙って、本文の作者が挿絵の構図を指定する権限を持っていたのか~(→全丁画像あり)。それにしても、早大がこれだけの馬琴コレクションを持つに至った経緯がよく分からないのが気になる。

 付記しておくと、まだまだ全貌は未整理と思しい、さまざまな個人文庫が早大図書館には入っているらしい、ということを感じた。あと、小品だが気に入ったのは『杉田玄白自画像』。こんな洒脱なおじいちゃんだとは思わなかった。

■早稲田大学:古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/index.html
※前掲の画像もここから。サイトのデザインが楽しくていい。『八犬伝』刊本に登場するわんちゃんとか。

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早稲田大学で半日遊ぶ/考古学と古美術(會津八一記念博物館)

2009-06-07 23:55:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
早稲田大学會津八一記念博物館 『早稲田考古学-その足跡と展望』(2009年5月12日~6月6日)、富岡重憲コレクション開室記念展示『富岡重憲の蒐めたもの』(2009年5月12日~6月29日)

 会津八一記念博物館(※以下、この表記とする)は、話に聴くばかりで一度も行ったことがなかった。この日も「本命」の目的は別の施設にあったのだが、大学正門を入ってすぐ、同館の看板に初めて気づく。あ、ここだったのかあ~と思って、ふらふらと入ってしまった。そうしたら、受付のお姉さんが「今、学芸員のギャラリートークが始まったところですよ!ぜひ!」と熱いおすすめ。「あっ、はい」と、促されるままに展示室に入ってしまった。すると、始まっていたのは、考古学トーク。しまった。私は富岡重憲コレクション(美術品)が見たかったんだけど…慌てたが、後の祭り。しかし、もともと古代史は嫌いじゃないので、けっこう面白く聴かせていただいた。

 印象的だったのは、古墳時代中期の「衝角付冑・頸甲」(カブトとヨロイの一部)。展示品は、宮崎県の樫山古墳から発掘されたものだが、この時期には同じ仕様の武具が全国で発掘されており、強力な中央集権の存在が想定される。さらに同形の武具は、朝鮮半島の伽耶地方でも発見されているという。そうだよね。一目見て、昨年の夏、韓国金海市で見た鉄製の甲冑を思い出した。それから、中国の武具「戈」(→武器図書館)の変遷(より殺傷能力を高く、より生産を容易に)の説明も興味深かった。「映画レッド・クリフでも使われたましたよね」って、やっぱり専門家は小道具が気になるのね。

 ギャラリートークが終わったあと、あらためて目的の富岡重憲コレクション展示室へ。古筆・禅画・茶道具・唐三彩馬など20数点。白隠慧鶴(はくいんえかく)とその弟子、東嶺圓慈(とうれいえんじ)・遂翁元盧(すいおうげんろ)の絵画には、見覚えがあった。遂翁元盧描く、婀娜な大年増みたいな観音様が魅力的。いちばん惹かれたのは、長次郎作の黒楽茶碗『銘・破れ窓』。ざらっとした風合い、ぼってりと厚手の、無骨な黒茶碗である。口縁に小さな方形のひびが入っているのが銘の由来だろうか。隣りに並んだ『織部竹耳水差』も好きだ。上部の緑釉と、下部の銹絵のバランスがとってもいい。しかも、ふとガラスケースに映った影をよく見たら、前面の銹絵は籠目模様だが、裏面は蔓ひょうたんなのである。お見逃しなく!

 さらに2階にも広い展示室(常設展)があって、会津八一が集めた中国の明器(副葬品)や俑(陶器の人形)が多数。その間に八一自身の書や、早稲田大学の収集品である民俗資料やエジプト考古学資料などが混じっていて、かなりカオスな印象で面白かった。それにしても美しい建築だなあと思ったら、もとは図書館で、今井兼次設計の由。建築だけでも一見の価値があると思うのだが、同館のホームページには、全く写真が紹介されていないのがもったいない。
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巡る楽しみ/決定版・御朱印入門(淡交社)

2009-06-06 10:57:08 | 読んだもの(書籍)
○淡交社編集局『決定版・御朱印入門』 淡交社 2008.12

 友人からのお薦め本。私が「御朱印」という習慣を知ったのは、高校の修学旅行である。思えば、あの修学旅行が私の人生に与えた影響は大きかった。それまで神社仏閣には何の興味もない高校生だったが、二年生の秋冬から修学旅行の準備学習が始まり、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだり、土門拳の写真集を眺めたりしているうちに仏像の魅力に開眼し、三年生の春に修学旅行に出かけるときは、すっかり仏像通のつもりだった。

 けれども、その修学旅行でただひとり、仲のよかった友人が「御朱印帖」なるものを携えてきたのにはびっくりした。彼女自身は仏像にも神社仏閣にもさほど関心はなくて、「お姉ちゃんに頼まれたから」という理由だったけれど。全ての参拝先で、律儀に友人が御朱印をいただくのをそばで見ていた私は、よし!私も始めよう、と心に思ったのである。

 その最初の機会は、大学生になって、初めてひとりで京都・奈良を旅行したときだったと思う。以来ほぼ30年、御朱印帖は、私の神社仏閣めぐりの必携アイテムである。整理が苦手なもので、拝観券やパンフレット類はすぐ散逸させてしまう。写真も撮ったり撮らなかったり。でも御朱印帖だけは絶対に捨てない。日付が入っているし、参拝の順序がはっきり分かるのがありがたい。

 むかしは、奈良・京都のような観光地はともかく、ちょっと鄙びた土地の神社仏閣では、20代の若者が御朱印を求めるのは珍しがられた。「いや、ちょっと祖母に頼まれて」なんて、言わなくてもいいウソをついたこともある。最近は若者や外国人の姿も多くなって、本書が示すように「密かなブーム」と言えるかもしれない。だが、ブームに乗って御朱印集めを始めたと思しい参拝客の態度(年齢を問わない)には、眉をひそめたくなるときがある。本書によって、御朱印をいただくときの最低限の作法が普及すればいいなあ、と思う。

 一方で、御朱印を授受する側にも問題が…。「世界遺産の寺」みたいなスタンプを押すのはどうなの?とか、いろいろ言いたいことはあるのだが、私がいちばん残念に思うのは、美しい墨筆を書ける人が減ったことだ。小さなお寺で、若いお坊さんが緊張しながら書いてくれる初々しい楷書は、味があっていいのだが、それなりのお年の方が、くちゃくちゃした悪筆だとガッカリする。まあ、日本人全体が墨筆離れして久しいものなあ。そんなわけで、書き手の年齢や姿かたちを想像しながら、本書に掲載された百数十ヶ所の御朱印の写真(例外はあるが、平成14、15年以降の印が多い)を鑑賞するのも、一興である。

 関東・関西圏の有名寺社の御朱印は、貰っているものが多かったが、富士山山頂の浅間大社奥宮とか吉野の大峯山寺とか、山頂の霊場の御朱印は初めて見た。体力のある年齢のうちに貰いに行きたいなあ…。
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見立ての構図/錦絵から見た幕末・明治の東アジア像(新宿歴史博物館)

2009-06-03 00:05:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
新宿歴史博物館 『錦絵から見た幕末・明治の東アジア像』(2009年5月23日~6月21日)

 在日韓人歴史資料館館長の姜徳相(カン・ドクサン)氏が所蔵する錦絵を通して、幕末・明治における日本の東アジア観を考える展覧会。私は、同氏の著書『カラー版 錦絵の中の朝鮮と中国』(岩波書店、2007)を読んでいたので、実物を見たいと思い、行ってみた。

 姜徳相氏がこれらの錦絵を「歴史書き換え」の一翼を担ったプロパガンダとして、批判的に見ていることは、同書に詳しい。結果的にはそのとおりなのだが、私は、いくぶんの留保をつけ加えたい。近代以前の一般庶民の「歴史」認識は、今の我々とは本質的に異なるように思うからだ。幕末の錦絵には、呆気にとられるような”シュール”な図柄が多い。古代の神功皇后や武内宿禰が鎌倉武士のような甲冑姿で描かれてるかと思えば、『北条時宗蒙古を破る図』では鎧武者が黒船(!)の横腹によじ登り、これを鉄砲隊が援護している。おいおい。しかし、「見立て」こそ「歴史」認識と心得る彼らには、そもそも「時代錯誤」とか「現実離れ」という認識枠がないのではないかと思う。むろん「歴史書き換え」という感覚も。

 で、絵師は絵師らしく、民衆が「見たい」と思う「見立て」の図を、とびきりカッコよく描いてみせる。国芳描く、大鎧姿の武内宿禰は、波を蹴立てて進む軍船の舳先に厳然と立ち、ちょっと平知盛を連想させる。離れて控える武者軍団の面構えも魅力的。

 上述の図書では触れられていないが、会場で錦絵を見て、加藤清正(または清正を仮託した人物)には「富士を望む」図が非常に多いことに気づいた。特に題辞に記されていなくても、よーく見ると水平線上にうっすらと富士の姿が認められるのである。朝鮮からの「富岳遠望奇譚」については、ロナルド・トビ氏『「鎖国」という外交』に詳述。

 また、花房義質公使=市川団十郎、水野勝毅大尉=尾上菊五郎で描かれた『朝鮮済物図』(明治15年、壬午軍乱の図)を、私は単なる「役者見立て」だと思っていたが、佐谷眞木人氏『日清戦争』によれば、団十郎は、明治27年に福地桜痴の『海陸連勝日章旗』で大森公使(→早大演劇博物館浮世絵閲覧システムに画像あり※直リンク不可)なる人物を演じている(結果は大失敗)のだから、あながち荒唐無稽な「見立て」ではないのである。

 日清・日露戦争・台湾出兵の時期になると、リアルな描写力を備えた錦絵と、風刺的なポンチ絵に二分化していくように思う。あと、気になったのは頻出する虎。朝鮮の表象として、加藤清正に退治される役回りなのだが、ぐにゃぐにゃしたポーズが、妙にかわいい。水墨画の虎もいいが、錦絵の虎もいい。
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三味線は近世の音色/うたのほん(天理ギャラリー)

2009-06-02 00:11:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
天理ギャラリー 第137回展『うたのほん-箏・三味線音楽を中心に-』(2009年5月17日~6月14日)

 この時期、東京・神田にある天理ギャラリーには、前年の秋に天理図書館で行われた展覧会(の一部)が巡回してくる、と知ったのは最近である。天理図書館の展覧会は、古書好きにはいつも垂涎の企画なのだが、関東からは行きにくいので、巡回展は本当にありがたい。本展は、2008年秋に天理図書館で行われた開館78周年記念展で、同館が所蔵する近世期の歌謡資料の中から、地歌・箏曲、義太夫節、歌舞伎音楽など、箏(こと)・三味線音楽関係書を中心に展示している。

 「永禄年間といわれる三味線の渡来によって、日本音楽の近世が始まる」というパネルの説明に、なるほど~と思った。永禄年間は1558~70年。Wikiによれば、豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」が現存するという。へえ、TVドラマでも見てみたいものだ。風俗画や祭礼図屏風など、安土桃山~江戸初期の絵画資料を見る時も、この年代を忘れないでおこう。

 寛文4年(1664)刊行の『糸竹初心集』は、近世邦楽最古の公刊楽譜である。上中下巻それぞれが、一節切(ひとよぎり)、箏、三味線の3種の楽器の楽譜になっている。箏と三味線の巻が開いていたが、描かれている演奏者はいずれも男性。僧形の男性(盲人?)が、ちょんまげの男性に教えている。三味線が妙にデカく感じられるのは、絵が稚拙なのか、実際に今より大型だったのか。箏を、片膝立てた姿勢で演奏しているのも興味深い。箏の楽譜には「三テン四テン六テン…」という文字が並ぶが、これで演奏できるのかしら。かと思えば、安永8年(1779)序刊『箏曲大意抄』の楽譜には、大小の○◎が並び、天文図か星取表みたいだった。

 歌舞伎・浄瑠璃には「正本(しょうほん)」というものがあって、詞章に誤りがないことを太夫みずから保証したものをいう。刊本『烏帽子折』の巻末の丁がパネルで掲げてあり、「右之本令今覧頌句音節墨譜等残毫厘令加筆候可有開版也/竹本筑後掾」とあり、竹本筑後掾(=義太夫)の壺印と朱印が押してある。続けて「重而予以著述之本令校合候畢全可為正本者歟/近松門左衛門」とあり、「正本」の意味がよく分かった。しかし、邦楽の用語は門外漢には難しい。うーんと、「唄本(しょうほん)」とは違うんだっけ?

 浄瑠璃の興盛に関連して、貞享2年(1685)、京都から進出してきた宇治加賀掾を、大阪道頓堀に一座を構える竹本義太夫が迎え撃ち、人気を競った逸話を知った。映画『花の生涯-梅蘭芳』みたいだ。いつの時代も演劇人は熱い。近世初期、上方文化の洗練に対して、江戸はまだ野蛮だった。江戸で好まれた金平浄瑠璃の正本「金平本」は、単純で分かりやすいマンガちっくな絵入り本で、「うたのほん」というよりも、読みものとして子供から大人まで読まれた、というのも納得。

 なお、展示品には、幕末明治の外交官アーネスト・サトウの蔵書印(英国 薩道蔵書)や日本学者バシル・ホール・チェンバレンの蔵書印(英 王堂蔵書)が押されたものもある。なぜ王堂?と思ったら「basil=王、hall=堂」から名付けたそうだ。いつも静かな展示室には、隅に置いたCDラジカセから音曲が流れていて楽しかった。

■参考:『素人控え操り浄瑠璃史』「竹本座」の櫓揚げ(※個人サイト)
http://homepage2.nifty.com/hay/rekisi09.html

■参考:箱根・宮の下温泉(※チェンバレンの王堂文庫跡地あり)
http://www.hakone.or.jp/japan/17yu/area_mnos.html
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「個」と「集団」/戦後日本スタディーズ2:60・70年代

2009-06-01 01:02:16 | 読んだもの(書籍)
○岩崎稔ほか編著『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』 紀伊国屋書店 2009.5

 書店で手に取って、思わず、フッと鼻で笑ってしまった。いかんいかん、ごめんなさい。黒地に緋文字の「かつて『革命』を信じた時代があった」という、おどろおどろしいキャッチコピーが目に入った――わけではない。「60・70年代」と聞くだけで、私は用心深く、冷笑で身構えずにはいられないのである。

 60・70年代とは、「世界的な規模での68年革命を挟む前後の10年」と捉えることができる。これにふさわしく、本書には「沖縄」「文革」「水俣」「三里塚」「安保」「日本赤軍」などの「革命」的問題系が並ぶ。ただし、本書には、この時代を「68年時代(全共闘世代)」の占有物のように語るのはよろしくない、という発言が、どこかにあったと思う(いま、探し出せない)。同感である。私が、年長者の60・70年代語りを遠ざけたいと思うのは、「所詮オマエらには分かるまい」的な傲慢さにうんざりするからである。本書の書き手は全体に若い。けれども「安保」にしても「沖縄」にしても、著者が実際に体験した事件でないために、記述の客観性が保たれていて、かえって私には読みやすかった。

 この時代に信じられた「政治革命」は実現しなかったが、「生活革命」は確実に進行した(上野千鶴子が詳述)。成田龍一氏は、「網野善彦流に言うと、日本民族の転換点のひとつである応仁の乱の次の変化」ではないかと評しているが、あながち大げさではないのかもしれない。

 文化(サブカルチャー)論は「少年マンガ」と「唐十郎」の2本。ほとんど知識のない分野だが、唐十郎を起点とする現代演劇論(室井尚)には強く興味をひかれた。政党政治論は「五五年体制」と題して杉田敦氏が平明に語っている。政権交代は求めないが、ときどき自民党にお灸を据える。「日本の有権者のそういう考え方が、私はそんなに嫌いではありません」と杉田氏は言う。この高度な「馴れ合い」感覚は、後述のベ平連と警察の関係にもつながっているように思う。

 巻末には、べ平連の事務局長をつとめた吉川勇一氏と、ウーマンリブの中心的存在だった田中美津氏へのロング・インタビューを収録。吉川氏の談話を読むと、べ平連の内部でも、68年頃から増加した急進的な学生たちを、年長メンバーが「困ったものだ」と思っていた様子が分かって興味深かった。

 1冊を読み終えて印象に残るのは、「個」に向かう欲望と「集団」に向かう欲望の葛藤である。冒頭の「ガイドマップ」で小森陽一氏は、冗談めかしながら「反革命四人組」について語っている。70年代、吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、松任谷由美の登場によって「徹底して自己完結した私生活主義的な歌の世界が、一気に社会全体を覆った」ことにより、雪崩れを打って若者たちが非政治化した。私はこの箇所を笑いながら読んだが、一方で田中美津氏は、今の「自立志向の女性たち」の抱える重荷について、こう語る。「意味のあること、世のため他人のためになるようなこと、また自分を認めさせることができる仕事などだとエネルギーもお金も時間も使える。でも自分のためには花一本買えない」。ああ、確かにいるなあ、このタイプ(男女問わず)。私生活主義の蔓延する時代であればこそ、そこに取り残された人々の「闇は濃い」のであろう。

 日本赤軍をはじめとして、この時代のさまざまな社会運動の先細りには、いずれも「個」と「集団主義」の葛藤があったように感ずる。「家族からは離れたい、でも擬似家族の暖かさがないと生きていかれない」(田中)という箇所を読んで、当時の状況が腑に落ちた感じがした。私自身は、上述のような集団帰属を求める感性がよく実感できないのであるが、集団に回収されず、私生活主義とも異なる個のありかたって、難しいのだな、と思う。この点に関しては、ベ平連の吉川氏が、あくまで「個人原理」の側に立ち、「個人の自立と自覚によって組み立てる運動が、初めて大衆運動として成立した」と静かな自信を込めて振り返っていることは示唆的だと思った。

※参考:『戦後日本スタディーズ3:80・90年代』(紀伊国屋書店、2008.12)
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