見もの・読みもの日記

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八大童子、院政文化の名残り/高野山の名宝(高野山霊宝館)

2013-09-30 00:02:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
高野山霊宝館 第34回高野山大宝蔵展『高野山の名宝-八大童子像に会いにきませんか』(2013年7月13日~9月23日)

 22日(日)午前中に県立博物館の展示を見たあと、和歌山市内を後にすると、遅くとも16:00前には高野山の山上に着いて、霊宝館(5月~10月は17:30まで)を、じゅうぶん参観可能だと確かめられたのが今回の収穫。短い日程では、どちらか断念せざるを得ないだろうなあ、と最後まで迷っていたのだ。仏友のひとりが一週間早くこの展示を見に行くと聞いて、やっぱり私も行きたくなってしまった。うん、行ってよかった。

 霊宝館は二回目である(※前回の記事)。最初の展示室では、快慶作の四天王像にシビれる。むかしは東大寺戒壇院とか当麻寺金堂とか、抑制された表現の天王像が好きだったのだが、趣味が一巡りして、こういう堂々と「武張った」四天王像に魅力を感じるようになってきた。

 次室は絵画中心で、蓮花三昧院の『阿弥陀三尊像』が魅力的だった。左右の観音、勢至菩薩の「あら!」「まあ!」的なポーズが微笑ましい。中尊の阿弥陀如来の前に朱の盆があって、そこに小鳥が止まっているのに驚いているのかも。(葉や茎の色が黒ずんで見えなくってしまったため)浪間に取り残されて、ゆらゆら浮いているような蓮の花と蕾が面白い。寂しいような、華やいでいるような、不思議な魅力を感じさせる。なお、調べたら蓮花三昧院は明遍上人ゆかりの 寺院で、明遍上人とは、藤原通憲(信西入道)の子であることを知ったので、ここに書きとめておく。

 その次の室、お待ちかねの八大童子像が登場。今回は、阿耨達(あのくた)童子と指徳(しとく)童子を除く六体の展示である。私は勝手に八体勢ぞろいするものと思い込んでいたので、あれ六体なのか、と思う。龍に乗った阿耨達童子がいないのが少し残念。いずれも参観者(展示ケース)に正対せず、やや斜めのアングルが、玉眼から絶妙の表情を引き出していて、分かってるな!と思う。写真等では、制多迦(せいたか)童子・矜羯羅(こんがら)童子が取り上げられることが多いけれど、ほかの童子も、負けず劣らずいいなあ。恵光(えこう)童子の鋭い眼光。恵喜(えき)童子はナイトキャップのようなツバなし帽が面白い。

 八大童子像は不動堂に伝わった。不動堂は、八条女院(鳥羽院と美福門院の間に生まれた子内親王)の御願寺、一心院の本堂だったと考えられている。でも八大童子は鎌倉時代の作だから、八条女院自身は見ていないのだろうか。さらに解説パネルを読んでいたら、八大童子がもともと不動堂に安置されていたものか、不動堂が本当に「不動堂」だったのかは疑問である、という記述にぶつかった(→不動堂Q&A)。まだまだ分かっていないことが多いんだな。

 本館に入り、大きな両界曼荼羅図(清盛の血曼荼羅)を懐かしく見上げる。ただしこれは複製。各幅の裏側には、これも巨大な(縦3メートルを超える)竜王吼菩薩像と雷電吼菩薩像が掛かっていた。白描画だが、眼と口にのみ朱を入れてある。虫取り網みたいなもの(千宝羅網)を持った雷電吼菩薩が珍しい。今回の宿泊先に選んだ普賢院の所蔵。

 文書資料の『白河上皇高野御幸記』(鎌倉時代の写し)や『後白河院庁下文・文治二年五月』(複製)にも、つい反応してしまった。後者は、後白河法皇が、争乱にやぶれた平氏の追善供養を高野山に命じ、その供養料所として備後太田庄を寄進したことそ示すもの。別当左大臣藤原○○、大納言源○○などの文字があるのだが、花押が読めないのが悔しい…。あと近世(戦国時代~)には、寺院(師僧)と武将・大名が檀家関係を結ぶ動きが進んだことや、近代に入って、女性の滞在が解禁される(日露戦争による男性不足の影響)前後のエピソードなど、高野山の歴史が面白かった。

 17:00少し前に見終わって、まだ外が明るかったので、奥の院にも参拝。翌朝、金剛峯寺と壇上伽藍の見どころを駆け足で拝観した。金堂では法会が開かれていて、しばらくナマの声明を聴くことができた。先日の国立劇場『天野社の舞楽曼荼羅供』に出演されていた方々だろうか。違うのかしら。

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