〇笠原十九司『南京事件 新版』(岩波新書) 岩波書店 2025.7
著者の旧版『南京事件』は1997年刊行だが、私は読んでいない。新版には新たな史料発見や研究の発展が取り込まれているが、旧版が日本軍史料を多用し「殺す側の論理・作戦」に従って叙述したのに対して、新版は、被害者である南京市民・難民の実態を、日記や証言から明らかにすることを重視したという。この説明を読んで、私は旧版も読んでみたくなった。
記述は1937年7月7日の盧溝橋事件と日中戦争の勃発から始まる。8月、上海では現地海軍の謀略による大山事件をきっかけに、大規模な武力衝突(第二次上海事変)が起き、8月15日以降、首都南京への戦略爆撃が繰り返される(宣戦布告なし)。この時期の参謀本部は、石原莞爾をはじめとする不拡大派が主流で、南京攻略に反対していた。
11月中旬、日本軍は上海全域を制圧。上海派遣軍は、高年齢層の多い予備役兵中心で、訓練・教育も不十分な「にわか作り」の部隊のため、軍紀の弛緩・不法行為が激発していることを参謀本部は把握していた。しかし中支那方面軍下の第10軍から独断で南京攻略に向かうとの報告が届くと、拡大派の武藤章は、この命令違反を制止することなく、かえって上海派遣軍の第16師団を挑発して「南京一番乗り」競争に駆り立てた。12月1日、大本営は後追いで「南京攻略」の命令を下す。え?軍隊の指揮命令系統にこんな運用があってよいのか。
そもそもが独断専行で開始された作戦であり、中支那方面軍・上海派遣軍は長距離移動のための装備も兵站部隊も持っていなかった。上海戦で疲弊したところを、さらに南京攻略の強行軍に駆り立てられた兵士たちの不満は大きく、そのガス抜きとして様々な蛮行が黙認された。
近郊農村で破壊・略奪・虐殺を波状的に繰り返しながら、日本軍は南京城に到達し(すでに蒋介石夫妻は脱出済)、12月12日深夜に南京城を陥落させた後、徹底した「残敵掃蕩」が遂行された。忘れがちだが、このとき南京は中華民国の首都であり、「皇軍が外国の首都に入城する」歴史的意義を、中支那方面軍司令部もよく理解していた。それゆえ事前に「苟(いやしく)も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期する」と記した注意事項を下達していたが、目論みとは全く逆の意味で「永く竹帛に垂る事蹟」となってしまったのは皮肉である。
12月14日、日本各地で南京陥落の祝賀行事が行われ、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜された。本書には、こうした国民の熱狂と、それに押されて現地軍の独断専行を追認する政府および皇室という構図が記述されていて、いろいろ考えさせられる。17日には南京入城式が挙行され、これが済むと司令官・松井岩根は南京を離れ、主力部隊も次々に新たな作戦地域に移動していった。しかし南京に留め置かれた兵士たちによる、婦女強姦を中心とする残虐行為は3月末まで続いた。
こんなわけで、どこからどこまでを「南京事件」と呼ぶかによって推定の犠牲者数は大きく異なる。広義の場合、著者は日本側・中国側の多くの資料を渉猟して「十数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上」と結論している。その是非は本書で確認してもらいたい。
私が本書から得た新たな知見は、南京防衛軍(国民党)の、見るに堪えない迷走と無様な崩壊ぶりである。司令官の唐生智は近代兵器による大都市攻防戦の経験がなく、麾下の指揮官の信頼を全く得ていなかったが、野心と功名心だけは人一倍強かった。著者が、この唐生智と松井岩根に共通点を見出しているのが興味深い。また、当時の中国には日本のように整備された兵役制度がなかったので、農村から急遽徴用された、武器の使い方も知らない成年男子が南京防御陣地に配備された。南京陥落後、彼らが銃を捨てて必死で逃げようとしたのも分かる。これじゃ便衣兵も何もあったものじゃない。
司令部の独断で、装備も食糧も不十分なまま、転戦を強制された日本の兵士たちの苦難には同情する。しかしこの婦女強姦の横行は何なのだろう。ちょっと言葉を失う。中国社会には、匪賊・盗賊も年老いた女性には危害を加えないという伝統があり、ほかの家族が避難したあとも、家畜や財産を守るために老年の女性が家に残ったという。だが日本兵は、老年の女性でも容赦なく強姦し、殺害してしまった。野蛮だよなあ。
当時の中国農民の立場を想像してみると、近代兵器を持った外国の軍隊が侵攻してくるという事態をどれだけ理解・想像できていたか。事態を理解できても、農民の財産は土地と家畜なので、都市民のように「換金した財産を携えて遠方に避難する」ことは想像もつかなかったのではないかと思う。いろいろ不幸な条件も重なったように思うが、断じて不幸だけで片付けてよい事件ではない。
この夏、中国で公開されて話題の映画『南京照相館』のおそらくモデルとなっている、ジョン・マギー牧師の逸話も紹介されている。