〇朝治武『全国水平社1922-1942:差別と解放の苦悩』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2022.2
全国水平社は、部落差別からの解放を求めて部落民自らが結成した社会運動団体で、創立は1922年、今からちょうど100年前にあたる。本書は、大阪人権歴史資料館の学芸員・館長であった著者が、長年の研究を踏まえ、全国水平社の結成から消滅、そして戦後の部落解放運動への継承までを記述したものである。
1871(明治4)年の「解放令」によって、建前上、近世的な差別的身分は廃止されたが、その後も部落民衆に対する差別はなくならず、1900年前後には、近代化に対応できない「劣位」な人々に対して「特殊(特種)部落」という新たな差別的呼称が生まれる。同時期に、各地で自主的な部落改善運動が始まるとともに、多様な主体による融和運動(差別をなくす運動)が起こり、部落民による、部落差別に対する抗議行動も行われるようになった。
著者は近代部落問題の特徴として、第一に近代天皇制との密接な関係を挙げる。部落は、華族、士族、平民という血統主義による身分的階層秩序の最下層に位置づけられていた。第二は朝鮮民族、アイヌ民族、ハンセン病患者などにかかわる、重層的な差別の制度化である。
1920年に入ると、部落青年による自主的な運動団体が各地で生まれ、全国団結の機運が高まり、1922年3月3日、京都市公会堂(現在の京都市美術館別館)で全国水平社の創立大会が開催された。この背景には、社会主義、西洋的ヒューマニズム、仏教、キリスト教などの思想に加え、国内の大正デモクラシー、国際的な民族自決と人種差別撤廃の動きなどの影響がうかがわれる。
個人的には、同じ1922年設立の日本共産党とは、同じ時代思潮の申し子のように思っていたのだが、そう単純ではないようだ。多くの社会主義者が水平社の運動に賛辞を寄せたことは確かだが、水平運動と無産階級運動の役割の違いを説く主張も見られる。水平社内でも、普通選挙における政党支持をめぐって、共産主義、無政府主義、保守主義など意見の対立が表面化していく。また、水平運動の全国波及に危機感を抱いた保守政治家と内務省は、天皇を中心とした融和政策の推進を強化するが、水平社の人々は、融和運動の「同情的差別撤廃」に批判的だった。
水平運動は、差別に対する抗議として「糾弾」という方法を用いた。この言葉の意味が、なかなか分からなかったのだが、「部落差別と糾弾闘争」の章に至って、やっと理解した。徹底的糾弾→社会的糾弾→人民融和的糾弾→挙国一致的糾弾と変容したらしいが、細かい差異はあまり重要ではない。要するに、部落民を差別した者に対して、大人数で交渉に押しかけ、謝罪させる(時には、新聞等に謝罪広告を出させる)ことをいう。暴力ではなく、言論による解決を目指すと規定されているものの、現代の基準から見れば、暴力行為の範疇だろう。なお、差別した者が子供の場合、謝罪の主体は父親、妻の場合は夫、被雇用者の場合は雇用者など、家父長とジェンダーに関する意識が反映されているという指摘も重要である。実は水平運動が、ほぼ男性のみに主導された運動であることは、本書を読んで初めて知った。本書の著者が、そのことに自覚的なのは、大変ありがたかった。
糾弾の対象になった差別、結婚差別や軍隊内差別の実例はひどいもので、立場の弱い者が抗議の声をあげる際、集団の力を頼み、威嚇的、暴力的になるのは、ある程度やむをえないと私は思う。しかし、相次ぐ騒乱・争闘事件によって、水平社は官憲から危険視されるようになっただけでなく、部落に対する差別意識がかえって強まり、周辺住民から部落が襲撃される事件も起きている。なんというか、現代の反差別運動(BLMやフェミニズム)と反・反差別運動の顛末を見ているような感じがした。
1930年代、全国水平社は、帝国主義戦争反対、反ファシズム闘争を掲げるが、次第に強まる「挙国一致」の声を受け、戦争に協力することにより天皇の下で部落差別の解消を目指すグループが力を増す。しかし近衛新体制(大政翼賛会)に参加するには至らず、近衛退陣後、アジア・太平洋戦争が始まると、不許可になるであろう結社申請書を出すことも、解散届を出すことも拒み、法律上は自然消滅することになった。最後まで国家権力に抵抗した意味は大きいと著者は評価する。
現代の目から見れば、運動として稚拙な点、容認できない点も多々あるが、現代の差別問題とその解決方法を考える上で、よくも悪くも参考になる歴史だと感じた。